酸漿をただ眺めるだけの日、過ぐ
たなべ
七月、あるいは土くれのようなもの
七月二二日(火)
我が家に新しい仲間が増えた。きっとそれは私たちに希望の花束をもたらすだろうと思われた。私たちは何やら歓喜しているようであった。何事にも無頓着な父が笑うところを久し振りに見た。私たちは変化していた。私たちの生活に水を差してくれるそんな存在を私たちは求めていたのだ。私は一方で卑屈であった。いや、卑怯だと評せるだろう。私は新しい仲間に不遇を期待していた。私だけが以前より反対していたのだ、新しい仲間を受け入れることに。だから父が首肯した時には、衝撃が走った。私の大黒柱が呆気無く崩壊するさまは、むしろ滑稽であった。私は新しい仲間がいやだった。新しいというだけでもいやなのだ。昨日まで何ともなかったのが、今日になって急に親しくしろ、馴れ馴れしくしろなど、形式的に要求されるのが、不条理に思えた。しかしそんな閉塞感を抱いていても新しい仲間というのは私に変化を要求するものだ。私と言えば、毎朝そして毎晩少しばかりの挨拶をする程度であったが、次第に家族の方が外堀を埋めるような形で私にそれ以上のことを求めるのであった。私にはそれが何か別の奇異な意図を以て行われているように思えた。家族が初めて「共同体」に見えた。誰かが欠ければ誰かが補う。家族に起こる変化など高々(高々と言ってはニヒリズムだが)そんなものだと思っていた。家族の数はいつか減るには減るものの、増えることはないとは思っていた。私は友達の家庭が借金取りに追われて一家離散した顛末を聞いたことがある。家族とはそのように離散して、弾け飛んでしまうものなのだ。実際、私の傍では家庭は崩壊し、人は死に、そして誰かが行方不明になった。そういうのが家族で、家族とはそういうもので、逆説的にこういうものは共同体と言えるのだと思った。しかしこれが自分の身の回りで起こるとは思わなかった。自分の身の回りというか自分の家族でだ。自分の家族の数が変化するのは実に奇妙な感じがする。どう接していいか分からない。隣にいる人間が誰か分からない。そんな不安感が食卓についているときも付き纏っていやだった。私はどうも新しい仲間を受け付けないらしい。今日で新しい仲間が増えて一週間経つが、一向に慣れる気配がない。きっと私は新しい仲間とうまくやっていけないのだ。突然だが、匂いと遺伝子的相性の話を思い出した。私は新しい仲間の匂いに注視した。遺伝的な根拠を求めていたのだ。しかしいくら嗅いでも無臭だった。眼を瞑ればそこに何もないかのように何も感じ取れなかった。眼を瞑ると新しい仲間の顔が脳内でリフレインして何やらゆらゆらする。そして春風(いまは真夏だが)に纏う桜の花びらのように、もつれてどこかへ消えてしまう。私と新しい仲間との関係に変化が訪れるのはいつなのか。尤もそんなことを私は望んではいないのだが。今日は路傍でミミズが乾涸びる程の烈暑であった。新しい仲間は肌に幽かな汗を滲ませていた。私はどうしてそんなことを覚えているのだろうか。分からなかった。
七月二五日(金)
雨が降った。正確には雨が降った痕跡があったのだ。地面が湿っていた。お陰で湿度がかなり上昇していたが、私は先日の汗が滲むような暑さが和らいだようで良かった。新しい仲間はそうではなかったようだ。母とじめじめした気候を憂いていた。新しい仲間は北の方から来たのだった。そこでは冷涼な夏が、牧歌的な風景を創出しているそうだ。でも私にはそんなことはどうでもよかった。私にはただ目の前の光景だけが真実に見えた。それ以外はまがいものだと思った。この理屈で言えば、新しい仲間だって純然たる真実で、確かに目の前に存在しているのだが、どうしてか現実に感じなかった。私には深淵なる現象の迷宮にとことん分け入っていく気概が決定的に欠けているのだと思った。今日も夕食は家族、無論、新しい仲間を含めた新しい家族と一緒だった。私と新しい仲間は隣の席だった。ただそれだからといって何かがある訳でもなく、淡々と時間は過ぎていった。そしていつものように寝る前にちょっとした挨拶をして別れた。部屋に入ると、さっきまでの緊迫感というか、異物感みたいなものがすっと消えていくのを感じた。ここは私の聖域なのだ。隣の部屋には新しい仲間がいて、多分自分と同じように安心感を覚えているに違いなかった。何故って、私たちは多分似たもの同士だからだ。きっとそうなのだと、思った。今日の昨日が夢だと錯覚するような冷夏は、私の昂奮を少し抑えつけたようだ。今日は夏なのに半袖では凍えてしまうような日和だった。これが何だか私の心象風景のような気がした。どこにもそんな根拠などないのだが、私にはそれが何だか神からの啓示のように絶対的にもうどうしようもないことのように感じた。どうしてなのだろう。私は新しい仲間をどうしたいのだろう。私は分からないことが多過ぎると思った。それもこれも新しい仲間と会話の一つでもすれば解消されるような瑣末な問題だとは思うが、そもそも新しい仲間と会話を交わすことが瑣末なことではないと私には思えた。そんな日はベッドに埋まり何もかもなかったかのように眠ってしまう。起きたら絶望の朝が来て、また新しい仲間に挨拶をして一日が始まる。どうしてこうなったのか。私は何か悪い事でもしたのかと思った。そうでないと帳尻が合わないぞと思った。この出来事をバカに出来るほど私には余裕がなかった。新しい仲間に好意的な印象を与えようとする他の家族が実に遠く見えた。私だけが陥没している。時空間が歪んでいる。現実的なことしか信じない癖して、そういう幻想めいた現実から最も遠い事柄は何故か信じてしまう。現に私の周りだけ時の流れがゆっくりで、周囲の喧騒がどこか遠くの国の戦争に見えた。対岸の火事に見えた。それがどうにも悲しくて、でも私にはどうすることも出来なかった。それは私に勇気と決意が欠けているからなのだ。私はまだ十六だった。
七月三○日(水)
厳しい暑さだった。私の家は坂道の途中にあるのだが、傾斜を歩く負担と日射が私を卒倒させるようなものであった。坂を登る途中、新しい仲間を見かけた。新しい仲間は何やら白い日傘を差して瀟洒な洋服を着ていた。それを見た瞬間、私はその精神に蕾が膨らむのを感じた。夏に咲く花は何かと考えても、向日葵は実に元気が良くて、向日葵をあてがっては向日葵がかわいそうだろうと思って、諦めて他のものを探してふと隣家の庭に酸漿の実を認めた。そうだ、私の精神は酸漿に似ている。新しい仲間はどうやら坂を下っていくようだった。擦れ違う時に「あれ、帰ったの」と尋ねられ、少しばかり吃驚したが落ち着いて「はい」と返事が出来た。そのまごつく心が幼気で逆に高尚なものに思えた。私たちの関係はそんな純粋な代物なのだ。私はそして何故かは分からないが、新しい仲間に「どこへ行くんですか」と聞いた。私から持ち掛けた初めての言葉だ。私は新しい仲間の藪から棒をくらったような顔を見てすぐさま後悔したが、私の頬が紅潮する前に「大学だよ」と答えてくれた。それだけで私は何やら救われたような気がするのだった。私は夏風が洋服を靡かせるさまを、新しい仲間が少しずつ遠ざかっていくさまをじっと見ていた。蜃気楼のようだと思った。今日は何故だか興がのったので、珍しく読書をした。本の頁が風で捲れる度に新しい仲間の洋服が蘇った。夏の夕暮れはどうしてこう私を取り残して行ってしまうのだろう。陽が完全に暮れた頃、新しい仲間は玄関を開けた。最近の家族と言ったら、新しい仲間に甘いのだ。元々甘かったのだが、この頃はこちらが恥ずかしくなるくらいに持て囃すのだ。私が新しい仲間をあまり受け入れられないのは、この家族が宗教めいて見えるようになったからだ。今日は夜、さっと一雨あった。ベランダへ出ると、隣の部屋から幽かに歌声が聞こえて来た。
<続>
酸漿をただ眺めるだけの日、過ぐ たなべ @tauma_2004
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