星脈の風渡り
鳴島悠希
星脈の風渡り
空は、地上の王のものではない。
王冠の金も、法典の墨も、城壁の石も、上へは届かない。雲より高いところには別の秩序があり、そこで滑るものの気まぐれが、平野の収穫と都の歌を、ある日まるごと奪う。人はそれを古語で「竜」と呼ぶ。呼べば説明した気になれるからだ。
竜は棲む。空に棲む。
翼の影で日を遮るものも、雷を吐くものもいる。だが王国が恐れ、同時に諦め、そして奇妙な希望を抱いたのは、ただ一種――《無相竜》であった。
《無相竜》は姿を持たない。雲の上にも下にも影を落とさず、光の中に輪郭を結ばず、風の匂いさえ残さぬ。それでいて、通った場所だけが壊れる。見えない刃が空から降り、村の屋根を均等に削り、森の樹冠を一直線に薙ぎ、川の流れにまで筋を刻む。災厄はいつも「直線」で来る。まるで、世界に定規を当て、不要な部分を消していくかのように。
かつて王国は討伐を試みた。竜殺しの槍、竜縛りの呪符、天幕を破る弩砲。いずれも空に向かって放たれ、いずれも空に飲まれた。敵が見えぬ以上、狙いは祈りに等しい。祈りは時に叶うが、再現しない。
王国が選んだのは、剣より地味で、矢より遅い道――「観測」と「合図」である。
その中心に立ったのが、漂塔の賢者と、風渡りの騎士、そして星脈の司だった。
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漂塔は、山でも城でもなかった。
それは、地上からほんのわずか浮いている。石造りの塔が、見えない潮に乗って、草地の上をゆるやかに漂う。底には風が鳴り、鎖のような霧が垂れ、時折、下を覗く者にだけ、足元の影が遅れて付いてくる錯覚を与えた。遠目には、塔が世界から半歩だけ外れているように見える。
賢者は塔の最上階にいた。老いた男で、肩幅は狭く、衣はいつも灰色だった。誰も彼の戦う姿を見たことがない。だが国境線に沿って築かれた砦よりも、王都の衛兵詰所よりも、漂塔の窓は多くの死を遠ざけていた。
賢者の前には、空を測る器具が並ぶ。銀の輪を幾重にも重ねた環、星砂を封じた水晶管、空気の歪みを拾う薄膜の鼓。どれも魔法と工学の混血で、使い方は簡単ではない。賢者の指は細く、しかし迷いがない。息の長い蜘蛛が糸を張るように、彼は空の微細なずれを拾う。
「――来ないな」
弟子が背後で呟く。若い男で、目の奥に眠りの不足が溜まっている。
賢者は答えない。答える必要がない。来ない日を守るために、来る日を測っているのだ。
窓の外、昼の空は澄みすぎていた。澄んだ空ほど危うい。雲がないということは、隠すものがないということではなく、隠れたものが遠くまで届くということだからだ。
賢者は水晶管を持ち上げ、斜めに傾けた。管の中の星砂が、重力に逆らってふわりと浮いた。砂は白でも金でもない。夜明け前の青のような、硬い光を含んだ色で、粒ひとつひとつが小さな星の破片に見えた。
砂はゆっくりと、ある一点に集まっていく。目では見えないが、空のどこかが「引いて」いる。引力ではなく、空気そのものが引きずられている。賢者はその方向を記した。
紙ではない。皮でもない。薄い金属板に、針で刻む。汗や雨で消えないために。再現性のために。
「前回の線と重なる可能性は」
弟子が問う。
賢者は環を回し、窓枠の外に吊るした薄膜の鼓に耳を寄せた。鼓面が震える。震えは音にならない。だが指先には、静電のような痺れとして伝わる。
「……重なる。条件が整えば」
「条件とは」
賢者は、わずかに視線を上げた。
「竜が、直進するときだけだ」
弟子は顔をしかめた。
「曲がるときは傷が残らないのですか」
「残らぬ。直進は世界に無理をさせる。曲がりは世界に合わせる」
賢者はそれ以上を言わなかった。だが弟子には分かった。無相竜が直進するとき、空に「傷」が残る――見えない裂け目が、一定時間だけ、そこに留まる。留まるものは測れる。測れるものは、合図にできる。
王国が賢者に求めたのは英雄譚ではない。英雄譚は美しいが、毎回は使えない。必要なのは手順であり、角度であり、誰がやっても同じ結果に近づける方法だった。
賢者は窓を開けた。風が入る。風は普通の風だ。草の匂いと土の湿りを含んでいる。だがその風の中に、ほんの一筋、冷たい金属の匂いが混じった。空の傷が開くとき、風は一瞬だけ刃物の匂いになる。
賢者は目を閉じ、息を整えた。
そのとき、遠い空の一点が、光った。
光ではない。空そのものが「ひくり」と痙攣した。晴天の皮膚に、針で突いたような小さな皺が生まれ、次の瞬間、皺が一気に伸びた。見えない線が空を裂き、裂け目の縁に、薄い虹の縁取りが走る。虹は色を持たない。色の記憶だけを残す。見る者の目の奥で、古い記憶が勝手に色を補う。
弟子が息を呑んだ。
「傷だ……」
賢者は頷いた。頷きは小さいが、確かだった。
「記せ」
弟子が金属板を構える。賢者は環を回し、角度を測った。空の裂け目は真っ直ぐで、あまりにも整いすぎている。自然の稲妻が持つ迷いも、雲の裂け目が持つ柔らかさもない。そこにあるのは直線だけだ。直線は、意志の形に似る。
裂け目の周囲で、雲もないのに微細な渦が生まれた。空気が折り畳まれ、折り畳まれた空気が反射し、遠くの山並みが一瞬だけ二重に見える。世界の輪郭がずれる。見慣れたはずの地平が、知らない地平に置き換わる。
賢者はそのずれを読み取った。
「……まだだ」
彼は呟いた。弟子には、それが誰に向けた言葉か分からない。
漂塔のさらに奥、王国の中心にある「沈黙の中枢」。そこに、星脈の司がいる。
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星脈は空に散っている。
昔、空から落ちてきたものがある。夜の天幕が破れ、光の破片が降り、地上の王たちがまだ旗を持たぬ頃に、星は地に刺さった。刺さった星片は、地上の鉱脈となり、城の礎となり、剣の芯となり、魔法の核となった。だがすべてが地に落ちたわけではない。いくつかは空に留まった。
夜、王国の上空には、星々とは別の光がある。星座の間に、微細な結晶が漂い、時折、互いに薄い糸で結ばれているように見える。風がないのに揺れ、雲がないのに隠れ、見る角度によって増えたり減ったりする。民はそれを「星の痣」と呼ぶ。学者は「星片の群れ」と呼び、賢者は「星脈」と呼んだ。
星脈はただ美しいだけではない。空の歪みを、異なる形で伝える。空の傷が開くとき、星片は微かに震える。震えは光の揺らぎとなり、揺らぎは糸の張りとして現れる。星脈の司は、その震えを束ね、地上へと落とす。合図として。
司のいる場所は、王都の地下深くにあるとされる。あるいは山中の古代遺跡だとも、海の底だとも言う。誰も正確には知らない。王が知っているかどうかも怪しい。ただ、合図が届く。届くことだけが事実だ。
星脈の司は、言葉を発しない。王国の記録には、司の名も性別も記されていない。そもそも司が人であるかどうかも断定されていない。だが「司」という役割だけは続いている。星脈を束ね、合図を送る。沈黙の中枢として。
漂塔の賢者は、司に頼りすぎないようにしていた。合図は手段であって、信仰ではない。信仰は揺れるが、手段は磨ける。
だから賢者は観測した。空の傷を記し、角度を積み重ねた。
そして、その角度を受け取る者がいた。
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風渡りの騎士は名を持たなかった。
正確には、持っていたが、使わなかった。名は村の墓標に刻まれ、王都の帳簿に書かれ、子の舌に呼ばれて意味を持つ。だが彼は、名を呼ばれると役割から逸れる気がした。役割は風のように通り抜けねばならない。どこかに溜まってはならない。
彼は国境の丘にいた。砦でも塔でもない、ただ風のよく通る場所。草は短く刈られ、地面は踏み固められ、足場の石が円を描くように埋め込まれている。そこは「迎撃点」と呼ばれた。迎撃と言っても、矢を放つ場ではない。剣を振るうための場でもない。位置を合わせるための場だ。
彼の背には剣がある。飾り気のない柄。鍔も簡素で、鞘は黒い革。英雄の剣のように宝石はない。光もない。必要なのは美しさではなく、いつでも同じ手触りで抜けることだ。
騎士は空を見ていた。空は広い。広いものは、目が慣れると細部を隠す。彼はそれを知っていたから、視線を固定しない。ゆっくりと動かし、眼球の端で異常を探す。戦う者の目ではなく、待つ者の目だ。
合図が来るまで、剣は抜かない。
それが契約だった。王国と彼の間の、奇妙に冷たい契約。
合図は、光ではなく風で来ることが多い。風向きが一瞬だけ変わり、草が同じ方向に伏し、空気が薄く鳴る。耳が痛むほどの静けさが生まれ、その静けさの中で、彼は角度を知る。角度は言葉ではない。身体が勝手に向きを決める。骨が微かに回転し、足の裏が石の輪の上で正しい一点を探す。
騎士は待つことに慣れていた。待つことは退屈ではない。退屈は心の贅沢だ。待つことは、ただ呼吸を続け、筋肉を冷やさぬようにし、目と耳を開いている状態である。
風が鳴った。
それはまだ合図ではない。遠くの山の風だ。だが風の鳴りの中に、あの匂いが混じる。金属の匂い。刃物が研がれた直後の匂い。
騎士は片足を半歩引いた。身体を軽くし、いつでも回れるようにする。剣に手は触れない。触れれば、抜きたくなる。抜きたくなるのは、恐れの形だ。
彼は丘の下を見た。麦畑が広がる。冬前の麦は青く、波のように揺れている。畑の向こうには村があり、煙が細く上がっている。人々は知らないわけではない。空に竜が棲むことを知っている。だが毎日は畑の上にあり、空はただの天井でもある。災厄はいつも「いつか」であり、「今」ではない。だから畑は耕され、子は走り、鍋は煮える。
騎士はそれを見て、何も言わなかった。言葉は役に立たない。役に立つのは角度だけだ。
そのとき、空の遠い一点が、裂けた。
晴天が割れる瞬間は、音がない。音は後から来る。まず、視界が一瞬だけ滑り、次に空の布が薄く引き裂かれる。裂け目は黒ではなく、異常な透明だ。透明すぎて、背後の「ないはずの景色」が見える。そこには星の粉が流れ、紫の稲妻が逆向きに落ち、遠い海の色が空の中に浮かんでいる。世界の裏側を覗き込む穴だ。
裂け目は一直線に伸びた。端から端へ。まるで天を支える梁を切ったように。
そして遅れて、音が来た。轟音ではない。轟音は空気の塊だ。これは、空気が「削がれる」音だった。紙を裂く音が千枚分重なったような、乾いた、鋭い音。耳の奥で血が動く。
騎士は息を吐いた。吸うと空が刺さる。
裂け目の周囲で、光が変質した。太陽の光が、何かを避けるように曲がり、草の影が二重になった。麦の穂先が、同時に二方向へ揺れた。風が二重に存在する。空間が折れている。
無相竜が通った。
通ったのに、見えない。
見えないものが通ると、世界がその形を代わりに描く。雲のない空に、薄い雲のような筋が生まれる。筋はすぐ消えるが、消えるまでの一瞬、筋が「何かの輪郭」をなぞる。輪郭は竜の骨格ではなく、竜が押しのけた空気の痕跡だ。
裂け目――空の傷は、しばらく残った。賢者の言ったとおりだ。直進したからだ。
騎士は空の傷を見た。一本ではない。彼の視界のさらに右、さらに上にも、別の傷がかすかに走っている。過去の傷だ。薄れかけた傷が、今の傷と重なろうとしている。重なれば、星脈が反応する。
星脈は昼には見えない。だが存在は感じられる。空の深いところに、硬い光の骨がある。騎士はそれを「天の骨」と呼んでいた。天の骨が震えるとき、地上の風も震える。
合図は、まだ来ない。
無相竜は国境を越えた。越えるという言葉が似合わない。国境線は地上の概念だ。竜はただ、直線で切っていく。
空の傷が、重なった。
その瞬間、昼の空に「夜」が混じった。ほんの一瞬、太陽の周りの光が薄くなり、透明な裂け目の奥から、星砂の流れが見えた。星砂は流れていないのに流れて見える。視界が星の粉で満たされ、まばたきの裏側にまで光が刺さった。
そして、風が止んだ。
止んだのではない。風が一本の線に集まった。丘の上の空気が、矢のように一点へ向かって流れ、草がそこへ向かって伏した。騎士の髪が、同じ方向へ引かれる。身体がその方向を理解する。
合図だ。
星脈の司が、角度を落とした。
騎士は剣の柄に手を置いた。置いただけで、剣はわずかに温かい。鉄が温かいのではない。空気が温かい。刃が抜ける道を、世界が先に作っている。
彼は抜いた。
剣は光らない。英雄の剣のように、雷をまとうこともない。だが抜かれた瞬間、刃の周囲の空気が薄く白む。冷えた息が冬の朝に白むように、空気が刃の存在を可視化する。刃はそこにあり、その周囲の世界が自らを整える。
騎士は一歩踏み出した。石の輪の上で、足裏が「ここだ」と言った。言葉ではない。重心がそこへ落ちる。骨盤が回り、肩が開き、剣先が水平になった。
空の傷が、再び震えた。
裂け目の縁に、細い火花が走る。火花は赤ではなく、青白い。青白い火花が、空の傷を縫うように走り、縫い目の隙間から、何かが覗く。覗くものは形ではない。圧力だ。重量だ。空が押しつぶされる感じだ。
無相竜が、直線のまま突っ込んでくる。
見えないが、分かる。地上のあらゆるものが、その進路からわずかに逃げる。麦の波が進路の両側で逆向きに揺れ、鳥が同時に飛び立ち、雲のない空にだけ、薄い影の帯が生まれた。影の帯は「影」ではなく、光が逃げた跡だ。光がそこを避ける。避けるということは、そこに何かがいるということだ。
騎士は剣を構えたまま動かない。動けば角度が狂う。角度が狂えば、世界の裏側に刃が滑る。必要なのは力ではない。位置だ。
漂塔の賢者の声が、風に混じって届いた。声ではない。耳の奥に落ちる、低い囁き。遠いのに近い。空の傷を伝って、音が直線で来る。
――今だ。
騎士は、剣を振った。
振ったというより、空間に刃を置いた。置いた刃に、無相竜が自分から当たった。剣は派手に光らない。ただ、正しい位置へあった。
刃が空を切った瞬間、空の傷が鳴いた。
裂け目の縁が一斉に光り、昼の光が細かく砕けた。砕けた光は粉になり、粉は渦を作り、渦は竜の「輪郭」を描いた。輪郭は黒でも白でもなく、虹の記憶の集合だった。見る者の脳が必死に補完し、そこに「竜がいる」と理解するための線を作る。竜の姿は、見る者ごとに違っただろう。角の形も、鱗の配列も。だが共通していたのは、その巨体が「直線」をまとっていることだった。首も尾も、曲がるために存在するはずなのに、竜は曲がらない。曲がれないのではない。曲がらないことを選んでいる。
刃が、その直線を切った。
切断の瞬間、音が消えた。世界のあらゆる音が、底へ落ちた。風も、麦の擦れる音も、遠い村の犬の吠えも。代わりに聞こえるのは、耳鳴りのような、星砂の摩擦音だけだ。目の前で、光が薄い膜となって剥がれ落ちる。
次の瞬間、爆ぜるように音が戻った。
空気が、まとめて押し戻される。衝撃波が丘を越え、麦畑を撫で、村へ走る。麦は一斉に伏し、伏した麦がまた起き上がる。その動きが、まるで海の潮が引くように見えた。
空の傷が、閉じ始めた。閉じるというより、縫われる。縁の虹の記憶が薄れ、透明な裂け目が、青空に溶ける。だが溶けきる前に、そこから「落ちる」ものがあった。
無相竜が、落ちた。
落ちるのに、音が遅れる。巨体が空を抜ける。抜ける空が、白く泡立つ。泡立つ空が、雲のない雲を作り、その雲が地上へ影を落とす。影はまっすぐで、麦畑を切り取るように走った。竜が落ちる経路が、影として地上に記される。影は一瞬で消えたが、消えた後も、麦はその線に沿って少しだけ焦げていた。
竜は麦畑に落ち、炎だけを残した。
炎は赤ではなく、青い縁を持つ白い炎だった。星砂の燃え方だ。火は燃えるというより、空間を食う。燃えた場所の色が抜け、麦の青が灰色になり、土の茶が白くなる。炎の中心では、空気が透明すぎて、向こう側が歪んで見えた。まるでそこだけ、世界の厚みが薄い。
騎士は剣を下ろした。刃には血が付かない。付くものがない。だが刃の表面には、薄い曇りが残っていた。星砂の粉が、刃の上に降りてきている。粉は指で払うと消え、消えたあとに、刃の地肌がやけに静かに光った。光るのではない。光がそこに留まる。
騎士は鞘に納めた。
納めた瞬間、空の匂いが変わった。金属の匂いが消え、土の匂いが戻る。世界が自分の形に戻っていくのが分かる。
丘の下で、人々が集まり始めていた。遠巻きに炎を見ている。誰も叫ばない。叫べば声が届かないほど、炎の前の空気は薄い。人々はただ、口を開け、閉じ、また開ける。言葉が追いつかないとき、人はそうする。
騎士は丘の上からそれを見て、何も言わなかった。彼の役割は終わった。終わったら、退く。
彼は歩き出した。丘の裏へ、風の通る方へ。剣は背に戻り、足は石の輪から外れる。足裏が急に軽くなる。
背後で、漂塔の賢者の囁きが、もう一度だけ届いた。今度は空ではなく、風だった。
――記録せよ。
騎士は頷いた。頷きは誰にも見えない。
---
炎は三日燃えた。
燃えたのは麦だけではない。麦畑の上の空気が燃え、空気の記憶が燃えた。火が消えたあとも、そこだけ夕焼けの色が違う。赤が赤すぎず、紫が紫すぎる。空が、火の色を覚えている。人々はそこを避けるようになった。避けるというより、敬遠した。名前を付ければ近づけるが、名を付けると災厄が戻る気がした。
王国は勝った。
だが勝利の鐘は鳴らなかった。都の広場に旗は立たず、吟遊詩人は歌を作らなかった。作れないのだ。誰が倒したかを語るためには、誰かが見ていなければならない。だが見えない竜を倒した瞬間を、誰がどのように語れる。
人々が言ったのは、ただ一言だった。
「竜は落ちた」
その言葉には主語がない。主語がないことで、言葉は再現性を得る。次もまた、竜が落ちるかもしれないという予感が、そこに含まれる。
漂塔の賢者は、塔を移した。
漂塔はもともと漂うものだが、移動には理由が必要だった。空の傷は同じ場所に開かない。無相竜は直線で来るが、その直線はいつも別だ。賢者は記録を携え、弟子と少数の補助者を連れ、塔の底の霧を引きずりながら、次の観測点へ向かった。
弟子が言った。
「勝ったのですか」
賢者はしばらく黙り、やがて答えた。
「落ちた。落ちたという事実だけが勝ちだ」
「英雄は必要ありませんか」
賢者は窓の外を見た。冬の雲が低く、星脈は見えない。だが見えないものは、ある。
「英雄は一人では足りぬ。だが手順は、何人でも足りる」
弟子はそれ以上を聞かなかった。聞けば、物語になってしまう。物語は美しいが、手順を曇らせる。
風渡りの騎士は名を伏せたまま去った。
王都に戻って褒賞を受けることもできたはずだ。だが彼は戻らない。戻れば名が必要になる。名が必要になれば、役割が濁る。濁った役割は次に使えない。
彼は次の丘へ向かった。別の迎撃点へ。別の石の輪へ。麦畑の向こうで、別の村が鍋を煮ている場所へ。
星脈の司は沈黙した。
沈黙はもともと彼(あるいはそれ)の本性だが、合図の糸が一時、張り詰めたあと、ふっと緩むのが感じられた。星脈は夜空で淡く揺れ、古代の星片はそれぞれの位置で静止した。揺れは収まり、糸は見えなくなる。
合図が止むのは不安でもあり、同時に、手順が成立した証でもある。賢者の観測と、司の束ねと、騎士の角度。その三つが揃えば、竜は落ちる。派手さは要らない。必要なのは、重なった傷と、正しい位置だけだ。
冬の夜、王国の空に雲が切れたとき、人々は久しぶりに星脈を見た。
星座の間に、薄い結晶の群れがある。美しい。だが誰も、それを神の装飾とは言わなかった。星脈は装飾ではなく、道具であり、記録であり、合図の器だった。道具は崇めるものではない。磨き、使い、次へ繋ぐものだ。
空は王のものではない。
だが、空の癖を読む者がいる。空の傷を記す者がいる。角度を受け、剣を抜く者がいる。名もなく、歌もなく、ただ次のために。
そして人々は、必要なときにだけ言う。
「竜は落ちた」
それで十分だった。
星脈の風渡り 鳴島悠希 @Kaku_x2775co
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