絵本のページをめくるみたいに
シェパード・ミケ
第1章 鍵は軽いのに
第1話 机の下の小さな事件
寮の受付で鍵を渡されたとき、私はいちばん最初に「軽っ」と思った。
金属の重さが、じゃない。これで今日からここに住む、っていう現実が、思ったより手のひらに乗ってしまった感じがした。
受付カウンターは低めだった。立っていても座っていても、目線が合う高さ。カウンターの端に筆談ボードが置いてあって、ペンが紐で繋がれている。壁には点字の案内と、大きい文字の掲示。矢印が多い。
この寮は、障害のある学生向けの寮だ。
パンフレットで読んだときは、そういう「制度」みたいな言葉に見えた。でも現物は違う。ここは、最初から「困る前提」で作られている。だから、困ってもいい場所に見える。
それが少しだけ安心で、少しだけ怖い。
「紬さん、こちらがカードキーです。オートロックの扉と、エレベーターで使えます」
受付の人は、ゆっくり口を動かしてくれた。私の口元を見ている、というより、伝わる速度を選んでいる感じ。
「夜間も支援スタッフがいます。何かあれば内線を。部屋の壁にも緊急ボタンがあります」
緊急ボタン。その言葉だけで、肩が少し固くなる。
私は「大丈夫です」と言いそうになって、飲み込んだ。大丈夫じゃない日がある。それを前提にしてくれる場所で、虚勢を張るのはダサい。
「ありがとうございます」
鍵とカードを受け取って、ストラップを指に絡める。落とさないように。落としたくないものが増えると、生活は忙しくなる。
廊下は静かで、どこか薬っぽい匂いがした。ワックスと消毒と、少しだけ古い木。窓の外は明るい。午後の光が、やけにきれいだ。
手すりがずっと続いている。曲がり角にはクッション。床は滑りにくい素材で、義足の足裏が少しざらっとする。角でつまずかないように、段差がない。ドアの取っ手が握りやすい形をしている。
「気をつけてね」って言われるより、「気をつけなくても大丈夫にする」って、こういうことなんだと思った。
エレベーターのボタンにも点字があった。押すと光って、音も鳴る。鏡が貼ってあって、後ろが見える。車椅子でも方向転換しやすいように。
鏡に映る私は、荷物で片側が重くなっている。片足は義足。手には杖。大学生になったのに、装備だけがやけに完成している。
部屋番号を確認して、ドアノブに手をかける。ドアは引き戸で、軽い。深呼吸。いらないのに、してしまう。
相部屋。
私の人生は、そういう縁があるらしい。
ドアを開けると、部屋は思ったより狭かった。だけど動ける幅は確保されている。ベッドが二つ。机が二つ。クローゼットが二つ。真ん中に薄いカーテンの仕切り。
壁の低い位置にコンセントがある。机のライトはタッチ式っぽい。床には段差がない。窓の鍵も大きい。握れる。
それから、ドアの近くに赤いボタンがあった。押しやすい高さ。緊急ボタン。
私は見なかったことにした。見たくないのに、こういうのは目に入る。
窓側の机に、先客がいた。
細い背中。髪をひとつに結んで、スケッチブックを広げている。机の上には色鉛筆と紙束と、細いカッター。小さな絵の具のチューブも転がっていて、画材の匂いが少しだけ甘い。
机の端に、小さな透明ケースが開いたまま置いてある。中には銀色の粒みたいなものと、薄い輪っかみたいなもの。細いブラシ。先の尖った道具。文房具にも見えるけど、文房具じゃなさそうでもある。
私がドアを閉める音にも、その子は振り向かなかった。
聞こえなかったのか、集中してるのか。どっちにしても、声をかけるタイミングが難しい。
「……同室の人?」
私はできるだけ普通の声で言った。
反応がない。
最初の一秒で、胃がきゅっとなる。無視だったら、めんどくさい。相部屋って、こういうので毎日削れる。
私は杖をついて、ゆっくり近づいた。義足の硬い音が床に落ちる。カツ、という音。これだけ鳴れば気づくだろう、と都合よく思う。
それでも、その子の背中は動かない。
仕方なく、机の横に回った。
その瞬間、その子がびくっと跳ねた。
鉛筆が床に落ちる。カチン、と乾いた音。肩が上がって、息が止まっているのが分かる。
私が悪い。完全に。
その子は私の口元を見た。目線が、口の形を追っている。必死に。
耳の横に、小さな補聴器が見えた。
私が何か言う前に、その子はスマホを手に取って画面を私に向けた。
『驚かせてしまい、申し訳ありません。』
文字が大きい。読みやすい。句読点まできっちりしている。丁寧すぎて、距離があるのが分かる。
私は反射で首を振った。
「こっちも、ごめん。いきなり近づいた」
言いながら、私は口をはっきり動かす。読めるように。意識しないとすぐ雑になる。
その子は小さく頷いて、胸の前で指を動かした。私は分からないけど、形が丁寧だった。たぶん『すみません』か『ありがとうございます』。
私は名前を言う。
「紬。今日からここ」
その子は少しだけ呼吸を整えてから、またスマホに打ち込んだ。
『舞と申します。』
それから、指で自分を指して、次に私を指した。紹介の手順がきれいすぎて、少し笑いそうになる。
「舞ね。よろしく」
舞は声を出さない。代わりに口の形で「よろしく」を作って、手を軽く振った。たぶん『よろしくお願いします』。
私は荷物を床に置いた。置いてから、あ、と思う。床は危ない。自分が一番分かっているのに、癖でやる。
慌てて荷物を持ち上げて、ベッドのそばに寄せた。杖を壁に立てかけて息を吐く。義足の付け根がじんわり痛い。移動の疲れが、遅れてくる。
舞は私の足元を一瞬見た。見て、すぐ視線を外した。変に見ない。ちょうどいい距離。
この子、賢いかもしれない。
私はベッドに腰を下ろして、靴紐の代わりみたいな義足のベルトを少し緩めた。締めたままだと夕方に痛みが来る。痛みの予報は、だいたい当たる。
窓から入る光が、ベッドの白いシーツに落ちている。カーテンは厚めで、遮光もできそうだった。昼寝に向いている。向いてるとか言ってる場合じゃないのに。
舞は机に戻りかけて、また私の口元を見た。何か言いたいのか、聞きたいのか。でも言葉が出ない。だから目で聞いてくる。
私は先に聞いた。
「芸大?」
舞は頷く。小さく。
「絵本?」
舞は一瞬だけ目を丸くして、うん、と強めに頷いた。スケッチブックを軽く持ち上げて見せる。自慢というより、証明みたいな仕草。
ラフが並んでいた。線が柔らかいのに、目がしっかりしている。可愛いのに、ちゃんと生きている。余白が多いのに、寂しくない。
「へえ。すごい」
私はそう言ってから、言葉が雑だったと気づいた。でも舞は、口の形を追って、少しだけ笑った。
笑い声はない。けど、肩が少し揺れた。分かる。
空気が柔らかくなる。
その瞬間、私はもう限界だった。眠い。移動の疲れが、ここで殴ってくる。
「ちょっと、寝る」
私は舞の正面に座り直して、はっきり口を動かして言った。正面。口元。今日から必要になる作法。
舞はスマホを出して、短く見せてきた。
『ご自由になさってください。』
丁寧すぎて、逆に面白い。
舞は続けて、机を指して、耳を指して、肩をすくめた。たぶん『私は気にしません』。でもその肩すくめが、少しだけ「ごめんなさい」にも見える。
私は勝手に解釈して頷いた。解釈が合ってるかは知らない。
杖は枕元に置く。癖だ。寝るときほど、手が届くところにないと落ち着かない。
目を閉じると、部屋の音が少しずつ遠のく。廊下の足音。遠くのエレベーターの気配。窓の外の風。
舞が紙をめくる音。さらさら。
それは、嫌じゃない音だった。
落ちるのは早かった。
次に目を開けたとき、世界は事件になっていた。
がしゃん。
金属というより、硬いプラスチックが床にぶつかった音。続けて、カタカタ、と小さなものが転がる。机の脚に当たって止まる音。ベッドの下に滑り込む音。
私は跳ね起きた。
寝起きの脳が最悪の想像をするより先に、身体が動く。枕元の杖を掴む。握りしめる。
相部屋。知らない人。物音。
「……なに」
喉の奥で声が割れた。静かな部屋だと、自分の声が妙に大きい。
カーテンの向こう、窓側の床で影が動いている。舞だ。しゃがんで、スマホのライトを振って、床をなぞっている。光が揺れる。焦っているのが分かる。
私は息を整えて、杖をついて近づいた。カーテンを開ける。
「舞」
口をはっきり動かす。でも舞は顔を上げない。ライトの中で手だけが動く。指先が何度も空を掴んで、滑って、また床を探る。
机の上には、さっき見た透明ケースが開いたまま置いてある。銀色の粒。薄い輪っか。細いブラシ。尖った道具。今はそれが散らばって、机の端が妙に危ない。
床にも、小さなものがいくつも落ちている。ボタン電池みたいな銀色の粒。透明な欠片。よく分からない輪っか。サイズが小さすぎて、拾うだけで緊張する。
舞はそれを掴もうとして、指が滑って、また落とす。
かしゃ、と小さく跳ねる音。
焦り方が普通じゃない。落としたのが、ただの文房具じゃないのは分かる。
私はしゃがんで、先に銀色の粒を拾い上げた。舞の視界に入るように、手のひらを差し出す。
舞がようやく顔を上げる。
目線がまず手を見る。次に、私の口元へ。
さっきより必死に、形を追っている。まるで音がないみたいに。さっき耳にあった補聴器が、今はない。
私はゆっくり言った。
「これ。落ちてた」
舞は胸の前で小さく丸を作った。たぶん『ありがとうございます』。それからスマホを打って、画面を見せてくる。
『申し訳ありません。補聴器の掃除をしていました。』
『落としてしまいました。』
補聴器。
机の上の小物と、舞の耳元が、やっと一本につながる。
さっき呼んでも反応がなかった理由も。聞こえないんじゃなくて、そもそも補聴器が外れていた。
舞は続けて打つ。
『外している間は、ほとんど分かりません。』
『口の動きで、なんとなく分かります。』
『暗いと、分かりません。』
私は画面を読んで、喉の奥で小さく息を吐いた。
無視じゃなかった。届いてなかっただけだ。
私はスマホを取り出して、短く打って見せる。舞に合わせて、見せやすい長さにする。
『びっくりした』
『でも、侵入じゃなくてよかった』
舞は一瞬きょとんとして、次に肩が揺れた。声はない。でも笑ってる。笑い方が、さっきより少し大きい。
私は自分の手を見た。杖をまだ握っている。
「……私、武器持ってた」
言ってから、馬鹿みたいだと思った。けど舞は、もっと笑った。音のない笑い。肩が大きく揺れる。目が細くなる。
それが、なんだか悔しくて、私はわざと真面目な顔をした。
「次から、探し物するときは、ライトつけて」
舞はすぐに頷いて、スマホを見せる。
『承知しました。机のライトを点けます。』
『それと……』
『恐れ入りますが、大事なお話は正面でお願いできますか。』
お願いの文章が、丁寧なのに真剣で、私はちょっとだけ背筋が伸びた。
「うん。分かった」
私は頷いた。
「あと、背中向けて話さない。私も気をつける」
舞は指で、自分の口を指して、次に私の口を指した。それから両手で四角を作る。フレームみたいに。たぶん『口が見えるように』。
私は真似してみる。下手で、舞がまた笑う。
舞は床の小さなものを集めて、ケースに戻した。手元がさっきより落ち着く。いくつか拾いにくいものは、私が先に拾って手のひらに乗せる。舞はそれを受け取って、指先で確かめながらケースに入れる。
舞の指先が、少し震えているのが分かった。震えるほど焦ってた、ってことだ。
全部が戻ったわけじゃない。薄い輪っかのひとつが見当たらない。舞はベッドの下をライトで照らして、唇を噛んだ。
私は杖をベッドに立てかけて、床に手をついて覗き込んだ。義足の角度がきつい。けど、こういうときに無理をする癖は、私の悪癖だ。
指先に、透明で薄い輪っかが触れた。紙みたいに軽い。
私はそれを拾い上げて、舞に見せた。
舞は胸の前で小さく丸を作る。たぶん『ありがとうございます』。さっきより、ちゃんと「ありがとう」に見えた。
私は、メモ帳を引き出しから出して、ペンを取った。紙に書くほうが早い。スマホより、二人で同時に見られる。
「ルール」
そう書いて、箇条書きにする。
「探し物はライト」
「大事な話は正面」
「背中向けて話さない」
「暗いときはスマホ」
舞がそれを覗き込む。目が文字を追って、最後に頷く。たぶん『いいと思います』。
舞はペンを取って、端っこに小さな絵を描いた。
杖の絵。光る電球。口の形の吹き出し。最後に、丸い顔が笑っている。
線が細いのに、妙に分かりやすい。絵って、こういうところで強い。
私はそれを見て、ふっと息が抜けた。
「……絵本作家、強いな」
私は口を動かして言う。舞は声を出さずに、また笑う。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
知らない人の部屋じゃなくて、二人の部屋に近づいた気がした。
私はベッドに戻って、杖を枕元に置く。
舞は机に戻って、さっきの透明ケースを机の真ん中に寄せた。端じゃない位置。落とさない位置。自分のためのルールを、すぐに実行するみたいに。
それから、ラフを広げ直す。
紙をめくる音がする。さらさら。
私はその音を聞きながら、目を閉じた。
今度は、起きてもいいと思った。
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