第5話火鍋


祐也(ゆうや)が、もう何回目か分からないくらい家から追い出されたのは、その夜のことだった。


「出て行けーー!」


背中の後ろでドアが「バンッ」と閉まり、廊下の照明がびくっと揺れる。

ドアノブを握っていた手だけが宙に残され、耳の奥ではまだ怒鳴り声がじんじんと響いていた。


  *


隣の203号室では、ちょうどそのころ李星光(リー・シングアン)が帰ってきたところだった。


職場がやけに忙しい一日で、スーパーの特売で買った肉と野菜の入った袋を両手いっぱいにぶら下げている。

頭の中は「早くこたつに入りたい」でいっぱいで、鍵を差し込んだ瞬間――

隣の部屋から怒鳴り声が飛んできた。


女の声と男の声が入り混じり、ときどき何かが床に落ちるような鈍い音がする。


こういう音は初めてじゃない。


この古いアパートは壁が薄い。

ここに引っ越してきてから、彼女は何度も夜中に隣の泣き声や怒鳴り声を聞いた。

ときどき、小さい子どもがこらえながら泣いているような声も。


最初のころは、立ち止まって耳を澄ましたりもした。

でも、何度も聞くうちに、ほかの住人と同じように「聞こえないふり」を覚えた。


ここでは、「あまり他人の家庭に口を出さないほうがいい」という空気が、

半分ぐらい“社会のルール”みたいになっている。


――ただ、今日はいつもよりひどい。


最後の「出て行け!」はほとんど叫び声で、そのすぐあとにドアが叩きつけられる音が続いた。


星光は眉をひそめ、手をドアノブにかけたまましばらく固まる。


このまま知らん顔をして部屋に入るか。

それとも……少しだけ様子を見るか。


小さくため息をつくと、いったん鍵をかけ直し、

さっき置いたばかりのゴミ袋をもう一度持ち上げて、わざとゆっくり階段を上がった。


頭の中で、自分に言い訳をつけ足す。


――これはただの「ついでのゴミ出し」。


階段を曲がった先の角で、彼女は壁にもたれて座り込んでいる後ろ姿を見つけた。


少年が自分の部屋のドアの横にしゃがみ込み、膝を抱えて頭を腕に埋めている。

肩が小さく震えていて、廊下の隅に置き去りにされた影みたいに見えた。


――やっぱり、この子だ。


「こんなとこで何してるの? 早くお家に入りなよ。」


できるだけ何でもないふうに声をかける。


祐也はびくっとして顔を上げ、まだ赤い目で彼女を見た。


「こ、こんばんは。」

反射的に、小さな声で挨拶が出る。


「どうして中に入らないの? 外、すごく寒いよ。」


アクセントに少しだけ外国っぽさの残る日本語で、星光は続ける。


「ぼ、僕……鍵を持ってないんです。母さんも、まだ帰ってなくて。」


たぶん、意地もあったのだろう。

祐也は、とっさにそう嘘をついてしまった。


「ふうん。」


星光は目を細めて、きつく閉じられたドアを一度ちらりと見てから、

また彼の顔に視線を戻す。


本当のことはあえて聞かないでおくことにして、その代わりに尋ねた。


「お母さん、何時ごろ帰ってくるの?」


「分かりません。」


祐也はうつむき、つま先で床の小さな石をこつっと蹴る。

本当は鍵ならポケットの中にある。

でも、さっきの「出て行け」の一言で、そのドアにもう近づく勇気はなくなっていた。


廊下は一瞬静かになり、外の鉄柵に当たる雨の音だけが聞こえてくる。


「うち、来る?」


そのひと言があまりにも突然で、祐也は自分の耳を疑った。


勢いよく顔を上げると、彼女は少し困ったように笑って言う。


「ここで待ってたら風邪ひくよ。お母さん戻ってくるまで、うちで待てばいいじゃない。」


そう言いながら、両手に持っていたビニール袋を持ち替え、

空いたほうの手を、当たり前のように彼のほうへ差し出した。


祐也は、ほんの一瞬迷ってから、こくりとうなずく。


「……ちょっと待ってください。靴、ちゃんと履きます。」


  *


彼女の部屋は、彼の家より少し狭い。

でも、入った瞬間に、いつもの家と違う匂いがした。


よくある味噌汁の匂いでも、コンビニの唐揚げの匂いでもない。

少し痺れそうな辛い香りに、何か薬草みたいな香りが混ざっている。


「適当に座って。」


星光はドアを閉め、器用に靴を蹴り脱ぐと、ビニール袋をちゃぶ台の横に置いた。


「今日、仕事でいろいろあってさ。本当は一人で火鍋(ひなべ)食べてやろうと思ってたの。」


「火鍋?」


聞き慣れない単語に、祐也は首をかしげる。


「うん、中国で冬によく食べる鍋料理。辛いやつ。」


彼女は笑いながら座布団を一枚引っ張り出し、ぽんっと彼に投げた。


「でも今日はお客さんいるから、ちょっとだけ分けてあげる。」


ちゃぶ台の上には、小さな電気鍋が置いてあり、赤いスープがぐつぐつ煮立っている。

横の皿には、野菜、豆腐、薄切りの肉、

それから祐也が見たことのない、くるりと巻かれた肉や、正体不明の丸い具材が山のように盛られていた。


「匂い、きつすぎない?」


祐也はちゃぶ台の端に座り、赤いスープを不安そうに見つめる。


「これでもかなり控えめなんだよ?」


星光は、中国語がびっしり印刷された火鍋の素の袋をひらひらさせて、困ったように言った。


「本当は全部入れようと思ってたけどね。今日は“初めてのお客さん”がいるから、半分だけ。」


そう言ってハサミで袋を開け、ブロックの半分だけを鍋に入れる。

さらに水を足しながら、ぶつぶつとひとりごと。


「子どもに本気の辛さ食べさせたら、お腹壊すもん。」


ほどなくして、部屋の中の匂いはさらに濃くなる。

赤い油が表面に浮かび、にんにくと香辛料の香りが一気に立ち上がった。


「す、すごい匂い……。おいしそうですけど、ちょっとむせそう。」


「普通普通。」


星光はまったく気にしない様子で、しゃぶしゃぶ用の薄い肉を鍋に入れる。

色が変わるのを待ってから、箸でつまみ、彼の器にぽとんと落とした。


「まずはこれから。薄いから食べやすいよ。」


祐也は少しだけためらってから、その肉を箸でつまむ。

ふうふう息を吹きかけ、思い切って口に入れた。


最初のひと口で、舌がぴりっと痺れる。

すぐあとを、熱いスープが喉を通っていき、体の中まで一気に熱くなった。


「……っ。」


思わず咳き込んで、目が少し潤み、耳まで赤くなる。


「ど、どう?」


星光は期待半分、不安半分の顔で彼を見つめる。


「……ちょっと辛いです。」


祐也は正直に答え、少し間をおいてから付け足した。


「でも、おいしい。」


「よかった。」


星光はほっとしたように笑う。


「たくさん食べな。男の子は、ちゃんとご飯食べて大きくならないと。」


部屋の中はどんどん暖かくなり、窓ガラスにはうっすら曇りがついていく。

祐也は何口か食べるうちに、額にじんわり汗がにじみ、部屋に入ってきたときより肩の力が抜けてきた。


しばらく鍋のぐつぐついう音だけが続いたあとで、星光がふと、何でもないことのように聞いた。


「今日も、怒られた?」


一瞬、「いえ」と言いかけて、祐也は言葉を飲み込む。

代わりに、小さくうなずいた。


「母さん、ちょっと飲んでて……。機嫌が悪くなって。」


視線は自分の器の中に落ちたまま。


「たぶん、僕の顔あんまり見たくないんだと思います。」


「そんなことないでしょ。」


星光は思わず、少し強めの口調で返した。


「僕が帰らなくても、多分気にしませんよ。」


祐也は苦笑して、冗談みたいな声で続ける。


「むしろ、いっそいないほうがいいって、思ってるかもしれない。」


言葉にしてから、自分でもぎょっとした。


ずっと頭の中でぐるぐるしていた考え。

でも、誰にも口にしたことはなかった。


部屋の中が、火鍋のぐつぐついう音だけになった。


「ありえない。」


星光は箸を置き、はっきりと言った。


祐也は顔を上げ、ぼんやりと彼女を見る。


「子どもはね、みんな本当は、親にとって宝物なんだよ。」


彼女はまっすぐに彼の目を見る。


「上手に気持ち出せない親もいるし、間違ったこといっぱいしちゃう親もいる。

でもそれは“その大人の問題”であって、子どもがダメだからじゃない。」


祐也は「自分は宝物なんかじゃない」と言おうとして――やめた。


代わりに、弱々しいひと言が漏れる。


「……そうは、とても見えませんけど。」


「それは、あの人たちが下手なだけ。」


星光は肩をすくめ、わざと大げさに言った。


「せっかくの宝物をゴミみたいに扱うなんて、見る目も悪いし、頭も悪いよ。」


あまりに容赦ない言い方に、祐也は一瞬ぽかんとしたあと、

少しだけ笑いそうになった。


「あなたは、あの人たちの味方しなくていいの。

言い訳探してあげる必要もない。」


彼女はもう一度、彼の器に肉を二枚落としながら続ける。


「そんなふうに扱われてつらいのは当たり前。

でも、それで“自分が悪いんだ”って思うのはやめな。」


祐也は器の中の肉を見つめ、鼻の奥がつんとした。

それを悟られたくなくて、黙って肉を口に運ぶ。


空気が少し重くなりすぎたのを感じてか、

星光はわざと咳払いをして、話題を変えた。


「実はね、今日、私も怒られた。」


「え?」


祐也が顔を上げる。


「お店で?」


「うん、居酒屋で。」


星光は大きくため息をついた。


「お客さんがね、『すみません、灰皿ください』って言ったの。

でも忙しくて、私には『お皿ください』にしか聞こえなくてさ。」


彼女は両手で大きなお皿を持つジェスチャーをしながら続ける。


「それで、すっごい元気に大きいお皿持って行って、『お待たせしました〜』って。」


祐也は、その光景が頭の中に浮かんで、

もう口元が勝手にゆるんでいた。


「そのお客さんがね、こんな顔して――」


星光は目を見開いて、あのときの白い目を完璧に再現する。


『……灰皿だって言ったでしょ。』


「横で同僚がこっそり笑ってるし。」


さらに、店長の口調まで真似る。


「仕事終わってから店長に呼ばれてさ、

『李さん、日本語上手だけど、ちゃんと聞かないと困るよ』って。」


彼女は肩をすくめ、ちょっと自嘲気味に笑った。


「ちゃんと聞こうとしてるんだけどね。

人多いし、声も重なるし……たまには聞き間違えるでしょ。」


そこで、祐也はとうとう吹き出した。


「ぷっ……。真面目な顔でお皿持って行く星光さん、絶対おかしいです。」


「ちょっと、そっち側に立たないでよ。」


星光はわざと怒ったふりをして、彼をにらむ。


「立ってません!」


祐也は慌てて首を振るけれど、笑いはなかなか止まらない。


「ただ、情景がリアルに浮かぶだけで……。」


小さな部屋の中に、しばらく笑い声が響き続けた。

火鍋の湯気と香辛料の匂いと、その笑い声が混ざって、

さっきまでの重たい言葉を少しずつ薄めていく。


やっと笑いがおさまった頃、祐也はぽつりと呟いた。


「星光さんでも、怒られることあるんですね。」


「もちろんあるよ。」


星光は、何でもないことのように両手を広げた。


「私はここじゃ、いつまでも訛りのある、反応ちょっと遅い外国人だもん。」


少し間をおいてから、彼のほうを見て言葉を足す。


「でもね、白い目向けられても、ずっと下むいて黙ってるよりはマシかなって思ってる。」


彼女は小さく笑って言う。


「少なくとも、自分なりに頑張ってるって分かるから。」


その言葉に、祐也ははっとしたように瞬きをした。


学校でも、家でも、彼はいつも自然に頭を下げていた。

先に謝るか、何も言わずにやり過ごすか。


一方で、この中国人のお姉さんは――

言い間違えもするし、店長にも注意されるし、

廊下で慌てて謝ったりもするくせに、

今この瞬間の目だけは、不思議なくらいまっすぐで明るい。


「だからさ。」


星光は箸をくるりと回して、彼を指さした。


「『自分が消えても誰も気にしない』なんて、もう思わないで。」


ほんの少しだけ真顔になって、はっきりと言う。


「少なくとも今日は、私は気にするから。」


それは、大げさな宣言でも何でもないみたいに、

ごく自然な声だった。


祐也の胸のどこかが、じんわりと熱くなる。


どう返事をしていいか分からなくて、

彼はただもう一枚、鍋から肉をすくい上げ、黙って自分の器に入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冬の街灯と、帰る場所 酸菜 @SANSAI0315

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画