第2話 看守とスケッチブック
休憩室で同僚が話している。
「この間、看守長が激怒していた独房」
「あぁ、75番?」
「何やらかしたか俺、内心警戒しながら巡回してたら壁際に『いつもおつかれさま』とか書かれたスケッチブックが置かれてて」
小森はコーヒー缶を片手に黙って背中でそれを聞いている。
「それはだめだな。メッセージだからな」
小森が対処したように、看守と囚人はコミュニケーションをとってはいけない。だからその程度すらも禁止されているのだ。基本的には。
しかし看守も人間だ。お目こぼししたいこともある。
そういうことを防ぐためにコミュニケーション禁止の規律がある。しかしその規律をお目こぼしたいのが人間で……難しい職場だ。
「あの発信方法は斬新だ。直接見せるでもなく置いてあるだけだから必ず目に入る」
「だから看守長激怒したんだろ、あの人特別沸点低いから」
「しかし斬新な上に、看守への思いやりとか今まであるか? 折り紙で作った花まで貼られていて俺は内心、ほっこりしてしまった」
小森もそのページは見た。勤労感謝の日にこどもが作ってもおかしくなさそうな、およそ刑務所には似つかわしくない華やかな色彩だった。ちなみに折り紙も趣味の物品として購買できる。
同僚は続けている。
「厳しくする気になれないわ興味が湧くわで辛うじてそれっぽく聞いたよ。『看守長に叱責されたのはそれか』って」
なぜなら看守と囚人には絶対的な上下の関係が出来上がっている。
囚人がそんなことをしたら怒るのが看守の務めだ。
たとえ厳しくする必要がなくてもそれっぽくいうのが彼らの仕事なのだ。
「そしたら彼女、素直に『はい』っていいながらスケッチブックを持ってきて……」
先が読めた気がする小森。
「なぜそれでもここに置くのかって聞いたら、静かに一枚めくってな」
同僚の声に溜めがあった。
「『 人間だもの byみつを 』って書いてあって危うく吹きそうになった。ダメだろあれ、規律がどうとかそういうのじゃなく」
思い出し笑いを耐えている同僚。小森が横目でそれをみると彼は看守服の肩を小刻みに震わせている。
「俺は笑いを堪えるのに必死で指導とかそういう隙すらなかった。その場から立ち去るのが精いっぱいだった。むしろ楽しみになったらどうしようと思っている」
「なにそれ、俺も見たい」
「小森、夜の担当巡回変わってくれ」
「駄目だ」
看守には看守の悩みがある。
灰色の刑務所になじむ厳格な顔をしなければならない。
あるいはそういう場所にいるうちに、我知らずに厳格になっていく。
75番が時々巻き起こす「問題」は、灰色の壁の中で埋もれかけた彼らの人間性を揺り動かすことが多かった。
なお、小森は鉄壁の無表情で同僚の依頼を断る。
この刑務所で刑務官としてのもっとも己の振る舞いに厳格な彼は、少しのことでは動じない。
「っていうか小森が巡回した時はなかったのか?」
「……」
「没収しないとか意外だな」
「指導はした。ちゃんと絵も描いてあったからスケッチブックとしては機能していることを確認済みだ」
「中見た? ほかに何か描いてあった?」
「雑談としての質問なら教えないからな」
基本的には囚人に関して起こったことは記録として残される。
公的な記録なので安易に同僚であっても話さない。これもまた規則である。
小森は看守としての規律を順守するが、「基本的には」がだいぶあいまいになって久しい今日この頃だった。
そしてあとから気づく。
巡回したとき「おつかれさま」と書かれたスケッチブックは置かれてはいなかった。
彼女は閉じたスケッチブックを持っていただけだ。
今の同僚の質問に無駄なく応じるには、沈黙ではなく一言「なかった」と答えればよかったのだと。
ひそやかに眉根を寄せたが、それに気づく者はいなかった。
小森さんと75番 【看守×囚人ほのぼのハートフル刑務所話】 梓馬みやこ @miyako_azuma
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