小森さんと75番 【看守×囚人ほのぼのハートフル刑務所話】

梓馬みやこ

第1話 小森さんと75番

 疲れた瞳にけだる気な光を宿しつつ、月明かりに照らされた通路に靴音が響く。

 闊達とは言えないが、落ち着いたしっかりとしたその足取りは、乱す者を許さない厳しさを宿している。

 コッという硬い床をたたくその音は、ひとつの独房の前で止まった。


「75番、何をしている」


 帽子の下から冷ややかな感情の無い瞳が独房の中にたたずむ人影を見下ろしていた。看守たる彼より若干下にある小柄な人影は、こちらを向いたまま何かを手にしている。

 すでに消灯時間を過ぎたその部屋では、採光のための小さな窓から月明かりが差し込むばかりで逆光になっていてよくは見えないが、スケッチブックのようだ。

 看守である彼はライトを向けた。

 囚人服を着た女性が立っている。

 白いライトを受けた彼女の持つスケッチブックにはこう書かれていた。


『小森さん、今日もお疲れ様』


「…………75番、就寝の時間だ。ベッドに戻れ」


 淡々とした指示に彼女は静かにスケッチブックのページをめくる。


『眠れません』


「…………」


 すでに用意済みだったあたり、会話が見こされていたのか。

 もっとも看守と囚人は会話も厳しく制限されており、私的な会話をすることも禁止されているので見こされるほどの会話は普段もしていない。

 小森は疲れた目元に帽子の影を落としながら小さくため息をついて、独房のカギを開け、室内に踏み込んだ。


「75番、スケッチブックは絵を描くために与えられたものであり、目的外使用であれば没収する」


 厳格な刑務官……囚人に冷徹な看守として恐れられる看守の小森はささいな規律違反も見逃さなかった。

 彼女の手が動く。


『嫌です』


 さらにめくりあげられたページにはそう書かれていた。

 深くため息をついて額に手を当てる小森。

 どっと夜勤の疲れが襲い掛かってくる。


「大丈夫ですか、小森さん」


 はじめて声を上げた彼女の声は、落ち着いたメゾソプラノだった。


「大丈夫ではない」

「今日も疲れてますね。お茶入れましょうか?」

「誰が湯を持ってくるんだ。俺か」


 めまいがしそうなくらいの疲労感がさらに追い打ちとしたので小森は仕方なしに彼女のベッドの端に腰を掛けた。

 75番は殺人未遂の罪でやってきた終身刑の新人だ。

 ふつう囚人になったらもっと卑屈になったりショックを受けておとなしくなったりやさぐれたりするものだが、まったくその気配がない。

 冷静沈着な小森が一睨みすれば大抵の囚人は縮こまり規律を遵守するが彼女にはどうにも全く効果がない。それでしばしばこういうことが起こる。


「今度巡回するときはぜひ二人分の紙コップを……」

「規律は守れ。それがお前がここですべきことだ」


 ため息をついて小森は目頭を押さえる。彼女はその隣でぱらりとスケッチブックの端を静かにめくる。


『元気出して?』


「…………」


 どこまで仕込んでいるのか。本当にこれを没収すべきか、没収すべきなのだがなぜかそれが正しいのかわからなくなってくる小森。疲れている。

 眉間にしわを寄せながら彼女の手からスケッチブックを取り上げた。めくる。いろいろ書いてある。

 むしろあらゆる会話を想定して書いてある……


「75番」

「はい」

「暇なのか?」

「規則正しい刑務所の生活は、時間にゆとりがあって素晴らしいと思います」


 従順で丁寧な言葉遣いだが、要するに暇だったらしい。


「暇なら絵を描け」


 囚人も指定店での物品の購入ができる。スケッチブックも趣味の一環として指定物品として含まれているので入手できたのだろうが完全に目的外使用だ。


「はい」


 彼女はそう答えて小森の膝の上にあるスケッチブックのページを控え目にめくる。なぜか最終ページにはやたらとうまい鳥の絵が描いてあった。

 少し感心しながらスケッチブックは返して小森はそれでも規律は守るべきと判断する。


「もう休め」


 彼女はそっと瞳を伏せた。

 手元のスケッチブックがそっと小森に差し出される。


『おやすみなさい』

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