温かい心地と不安


 イルヴァという精霊使いの女は、村はずれの茅葺かやぶき屋根の小さな小屋に住んでいる。


 壁や天井には幾つものの薬草が吊るされ、小さな木の棚にはぎっしりと靑や緑、赤や黄、橙と色とりどりの石が保管されている。

 それだけならばよかったのだが、所狭しと薬の調合に使う道具や作りかけの薬、そして積み上げられた石板や書物と床がほとんど見えない。さすがにの周囲だけは空いているけれども、それでも散らかりすぎである。


『よし、フォン(おそらくイェーフォンシウス月夜の人を省略している)。というわけでまずは、言葉を覚えよう』

『え、言葉……?』


 家のなかへ放り込まれ、髪を犬猫みたいに手拭いでわしゃわしゃと拭かれてすぐ切り出した女に、少年は目をぱちぱちと瞬かせる。


『そ。いつまでも古代語じゃあ、この先何かと意思疎通するの、大変だろう?』

『……?』


 朔の夜の迷い人は、いわゆる不老不死に近い。

 ある時ふっと意識を持って周囲に認識され、しばらく彷徨い、そしてまたふっと意識を消失させ、周囲の記憶からも消えてゆく。少年自身、何年も何十年も……もしかすれば何百年もそうして来た。己の名すら忘れてしまうほどに長いことそうやって流離さすらってきた。


『言葉なんてどうせまた、変わっていくもんだろう?覚えたって意味な……』


 意味が無いだろう、という言葉を封じるように女が少年の両頬をつまんで引っ張って、ニヤリと笑う。

 

『まあまあそう言わず。変わったらまた覚えりゃいいんだからさ。あたしも毎回頭のなかでこの単語なんだっけとか考えたくないし』

『……』


 これは厭だといっても一方的に単語や文法をねじ込んでくる手合いである。事実、女は逃げだそうとする少年の襟首をつかんで座らせ、「いいかい、これが「炉」これが「器」これが……」と聞かせ続けた。夢にまで出るレベルに聞かせ続けられ、少年は勘弁してくれと叫びそうになった。だがそのおかげか、数日後にはある程度話せるようになっていた。


「ええと……「するないです」……じゃない、「しないです」。否定の位置が慣れない……」

「古代の北方だと、否定は後ろにつけるからね。でも、こっちじゃ先に結論を、てので頭に否定の言葉を付ける」

「せっかち?」

「合理的とおっしゃい」


 そう言いつつも、積み上がった文献から目的の文献を探すこの女は実に非合理的だ。規則を持って並べておけばすぐに見つけられるというのに。だのに、飯に関しては「栄養がとれればそれでよい」という手合いなので、硬くて不味い。この家で世話になっている間ずっと、その炭みたいなウサギのスープを食わせられ続けられるのかと思うと恐ろしくなり、それもあって少年は言葉を習得したとも言える。次、意識が消失する直前の記憶が炭のスープは御免だ。ならば、自分で調理できた方がいい。

 そうやって言葉を覚えていくと、女はまたしても突拍子のない提案をした。


「もう日常語はほとんど話せるようになったし。あたしの手伝いでもしてもらおうかな。どうせ暇だろう?」

「はあ?」

「手に職付けときゃ、この先便利だし、いいじゃないか」

「それっぽい理由を付けるな。どうせ部屋の片づけ手伝えとかそんなんだろ」

「バレたか」


 ぺろりと舌をだして肩をすくめる女に、少年は頭を抱えた。

 だが暇なのも事実だ。いつまでこの状態が続くかも定かでないが、それまではただ飯食らい以外することがない。気が付けば少年は、女の手伝いをするようになっていた。「あの薬草を取って」「あの文献を掘り起こして」「あの精霊石せいれいせきを探して来て」。その注文はだんだんに複雑になり――もはや助手の域となるまでそう時間を要さなくなった。教わった通りにどんな宝石よりも美しい、青い石を砕き薬草と混ぜ合わせながら女の言葉を聞いていた。


「いいかい。あたしたち精霊使いはね、精霊石と薬草を使って、薬を作るんだ。その薬は草木を、鳥や獣を、そして村人たちを救う。だから、覚えておくといい。金になる。あんたの記録もきっと金になる」

「最後の一言二言ひとことふたことが余計のような……」

「黙らっしゃい。金は生きていくうえで重要だよ。あとは狩りだ。森に生きてりゃ、食いっぱぐれることはない。森が枯れなければね」


 そう言って、罠の仕掛け方や弓の扱いまで教えてくれるのだ。少年は「この先」のことなど気に留めたこともないのに、この女は少年の永遠に等しい「この先」を考えて、彼女のもつ知恵と技を授けてくれる。知らなかった世界を教えてくれる。

 たとえそれが、長く奇っ怪な存在について記録するためなのだとしても、こんな生活も悪くない、と少年は思い始めていた。

 ずっとずっと忘れていた、暖かな心地。

 少年はその胸の奥がじんわりと温まる感覚に喜びを感じる一方で、ふとしたときに恐怖を覚えるようになっていた。


(あと少しだけ……もう少しだけ)


 どうか、もうしばらく彷徨う時間を。少年は毎晩祈るような気持ちで眠りにつき、目が覚め女が白い歯を見せて「おはよう」と告げるつどに安堵した。

 

 だが――それは突然に起こった。


 目が覚めると、少年は知らない森のなかにぽつんと立っていたのだ。鬱蒼うっそうとしげる木々からは、月の無い夜空が覆い被さっているのが見えた。


(ああ……)


 ひとときの平穏が、終わってしまったのである。

 

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