朔の夜は春の冷雨に哭く

花野井あす

冷雨の夜の出逢い


 それは遠い、遠い昔のはなし。


 肌寒く、きりめるさくのことだったと聞く。


 彼が村のはずれに現れた。


 村に住まう者たちに、彼を知る者は誰ひとりといない。


 そして、彼自身も。

 

 己は何処どこから来て、何処へ向かうとしていたのか。己の名すら知らない。

 

 誰も彼を知らない。

 

 村に住まう者たちははじめ、すべてが不明瞭な彼を恐れた。だがひどく不憫だ。彷徨さまよい流れて、己すら頼りになる者の無く、哀れだ。哀れんだ村の老女が彼を迎え入れた。迎え入れ、あたたかなめしとこを与えた。それは穏やかなひとときだったと言えよう。

 だが――日が昇るとともに、彼は消えた。夢の精霊たちが視せた幻かのように、忽然と消えた。

 

 彼の姿は何処にもない。

 そして彼を迎え入れた老女も、村に住まう者たちもまた、その姿を思い浮かべることができない。


 ただあるのは、薄ぼんやりとした不安と虚無感。

 確かに誰かが其処そこにいたという、痕跡こんせき



 次第に村に住まう者たちは彼のことを、さくまよびと、と呼ぶようになった。








 

 さあさあと冷雨がそそぐ。

 それはみそぎをするように大地をすすぎ、止めどなくすべての痕跡を洗い流してゆく。


 気が付けば、その少年は其処にいた。

 

 誰も彼も、少年の名を知らない。

 絹糸きぬいとのごとくつややかな白銀の髪に、びいどろ玉のように透き通った月色つきいろの瞳。――初め、彼を月の化身けしんかと思い、村の人間たちは誰ひとり少年に声を掛けようとしなかった。ひとりの女を除いて。


「君は、精霊の一種――いや、その混じり物かい?」

 

 少年へ言葉を掛けたのは、長身の若い女だ。ばさばさに乾いた亜麻色あまいろの髪をうなじで束ね、切れ長の眼をまばたかせている。がっしりとした体つきや少し低めの声も相まって、黙していれば男にも見える。少年はぼんやりとその女を見上げて、

 

『……君はだれ?』

 

 と問い返す。

 

 少年にとってはそれが日常の言葉なのだろう。だが村の人間たちにとっては聞いたこともない、まるで歌っているような不思議な響きのある言葉だったのだ。

 当の少年の前で村の人間たちは騒々として、やはり人間では何かに違いないだの、精霊か月の化身に違いないだのと騒ぎ立てた――とは言っても、少年もまた、彼らの話す言葉を理解し得ないゆえ、何をどう騒いでいるのかまったく理解できない。はっきりとしていることは、淀んでいてざらざらとした、あまり綺麗な音のしない、奇妙な言葉だということだけだ。

 

 するとあの若い女は「ふむ」と独りち、言葉を続けた。

 

『なるほど、古代語ね。あんたはいったい何処から来たんだい?』

 

 すらすらと奏でられたのは少年と同じ言葉だ。少年は一瞬驚いたように大きな月色の目を瞬かせるも、すぐに落ちつきを取り戻し言葉を返す。

 

『わからない。ずっと旅をしている。もう、何年も何年もずっと、彷徨っている』

『あんたの話しているのは北方の古代語だよ。あんた、名は?』

『覚えていない。僕を覚えられない。だから誰も僕の名を呼んでくれない……そうしているうちに、僕も自分の名を忘れた』

『覚えられない……?』

 

 きょとんと首をかしげる女を前に、少年は目を伏せる。その表情かおは仄暗い。陰鬱いんうつで、それでいて虚ろ。雨で頬に張り付いた白銀の髪を手で弄び、静かに、

 

『どうせ君だって、明日か明後日かには僕を覚えていない。僕は誰の記憶にもとどまれないんだ』

 

 言い終えると、少年は口を噤んだ。その言葉は何処か諦めた風だ。

 

 沈黙の流れまた、ざあざあと地面に打ち付ける雨音あまおとだけが周囲を包み込む。村の人間たちは奇異の目を少年へ向けて、少年とその少年に声をかけた長身の若い女の様子を伺っている。

 

 一方で、女は何かを考え込んでいるような、そんな素振りをしていた。しばらく思案したのち、ようやく女は口を開いた。

 

『そんな伝承を聞いたことがあるね。朔の夜の迷い人とかそんな名の伝承だ。あんたはその「迷い人」じゃないかい?』

『迷い人?』


 問い返す少年に、女はうなずく。

 

『朔の夜の迷い人。新月の夜に突然現れ、そして翌日忽然と姿を消したという不思議な旅人の伝承さ』

  

 その伝承を知っていたのか、そうでないのか。少年は何も答えず、ただただ沈黙で返す。

 彼からすれば、おのれがその伝承の当人であろうとなかろうと、どうでもいいことなのだ。どうせ、この会話もすべてなかったことにされるのだから。何もかもが無に帰すのだ。

 

 すると女がぽん、と手を叩いて言った。

『よし。あたしのところに来な』

 

 突然の提案に、村人は無論のこと、少年もまた目を剥いた。

 

『は?』

『あたしは精霊使いだからね。こういう不思議な出来事には好物……じゃなかった慣れっこだし、古代語の読み書きもできる。記録しておけば、研究……じゃなかったあんたを忘れたって継続的に会話ができるだろうしさ』

『なんかところどころ、言い間違えが目立つような……』

 

 やや興奮ぎみの女の目が怖い。思わず頬を引きつらせ後ずさる少年の腕を掴み女は、

 

『大丈夫、大丈夫。悪いようにはしないさ』


 まったく大丈夫な目をしていない。だがそんな女の様子に村人たちは慣れっこなのか、村人たちは「まあ任せておくか」とばかりに引き返してゆく。誰も助けてはくれない。呆気に取られる少年をよそに女はさらに、


『あんたの呼び名を決めないとね』


 などと話を進めている。こうなればどうにでもなれ、だ。少年は嘆息する。

 

『別に……そこ、とかお前、とかでいいよ、そんなもの』


 どうせ忘れてしまうのだから。そう、少年が悪態付くように零すも、女は聞いていない。ううむと小首を傾げて、何が良いかと考え込んでいる。


『よし、「イェーフォンシウス月夜の人」にしよう』

『……それ、何かの皮肉?』


 朔――新月の夜に現れるのが、「朔の夜の迷い人」だというのに。


『だってあんた、まるで月みたいな綺麗な目をしてる。いいじゃないか、うん。良く似合ってる』


 彼女のなかで、少年は「イェーフォンシウス」で決まりのようだ。実に満足げに、少年のずぶ濡れの髪をわしゃわしゃと撫でまわして、女はにっと白い歯を見せて笑う。

 

『あたしはイルヴァ。よろしく、迷い子さん』

 

 少年は何も言葉を返さなかった。

 どうせ面白半分で言っているだけで長くは続かない。忘れれば、それまでだ――そう、甘く考えていた。精霊使いというのが、途轍とてつもなく奇人変人のなるものなのだと知るまでは。そしてその、奇人変人な彼女に惹かれてしまう、その日までは。

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