晴天の罪人

　灰色の壁。艶の失せた床。

　表情のない窓にはブラインドが吊るされて、外の光を遮断している。殺風景を絵に描いたような四角いその部屋は、本当に四角くて、どこもかしこも定規で引いたように直線だった。

　唯一丸みのある形をしているのは、英介（えいすけ）がいま座っているパイプ椅子だった。背もたれに少し体重をかけると、椅子は小動物のような声を出して軋んだ。

「藤堂君さあ……お願いだから、ほんとのこと言ってちょうだいよ」

　愛想のない事務机を挟んで、向かいに腰掛けている先輩刑事が……否、元先輩刑事が英介に乞う。この人の下にいた頃、彼のスズメの巣のような頭を英介も散々からかった。その髪を元先輩刑事はくしゃくしゃと掻き、はあっと溜め息をついて腕組みをした。

「このままだとですね、アナタほんとやばいんですよ、藤堂君」

　パイプ椅子以外はすべて直角か、百八十度。この部屋にそれ以外の角度はない。

「ねえ……なんでこんな事になっちゃったのよ。僕ら、うまくやってたじゃない」

　いや待てよ……蛍光灯も円筒形だな。

「結果がどうなるかぐらい、アナタだって警察官なら嫌ってほどわかってたでしょうに」

　ああ、もう一つ丸い物があった。この灰皿だ。そんなことをぼんやり考えながら何気なく視線を上げると、こちらを見据える元先輩刑事と目が合った。

「アナタ僕の話聞いてますか？」

「聞いてますよ、大矢さん」

　はあっ……大矢がまた一つ溜め息をついた。

「ひと思いにさぁ、パーッと言っちゃいなさいよ、ホントのところを。御上（おかみ）にもお慈悲はありますよ？」

　とぼけた顔でそう提案する大矢に、英介はまるで、ついこの前まで職場でコーヒーを飲みながらしていたような、些細な世間話でもするような、のんきな声で答えた。

「ホントのところも何も。最初から俺は嘘なんか言ってませんって」

「違う！」

　声を荒げたのは大矢ではなく、後輩の柳田だった。大矢の後ろで調書を取るため控えていた柳田は、椅子から立って英介の方を向いた。

　怒っているのだろうか。鋭い眼光を若い瞳に湛えて、柳田は英介を睨みつけていた。硬い針金のような、容易には曲がらなさそうな後輩の視線を、英介は静かに受け止めた。

「藤堂先輩は自分だけが罪を被ろうとしてる！　あなたは利用されただけなのに！」

「やなぎだくーん」

　大矢が間延びした声で、柳田の発言を注意する。しかし柳田は構わず、英介を責めた。

「どうして！　なんでそんなにあの人を庇うんですか！」

「柳田君てば」

　今度の大矢の口調には、わずかな威厳が含まれていた。柳田は「……すみません」と小さな声で言って、自分の椅子に腰を下ろした。

「あいつは……」

　英介が、その日初めて自主的に口をひらいた。

「晴（はる）は、なんて言ってるんですか？」

　晴との出会いは、晴がまだ幼かった頃。当時英介は交番勤務だった。

　夜の巡回で通りかかった公園のブランコを、晴はひとりで揺らしていた。子どもがぽつんと公園にいていい時間ではない。英介は自転車から降り、声をかけながらブランコに近づいた。

「どうしたの？　ひとり？」

　子どもは俯いていた顔を上げた。見かけない子だった。まだ小学校にも上がっていない歳だろうか。泣きも笑いもしない、つぶらな瞳に外灯の明かりが映っていた。

「お母さんのかれしが家に来てるから、ぼくは九時まで帰っちゃだめなの」

　そう言って晴は、公園の時計を見た。

　英介は晴と一緒に、晴が母親と住むアパートまで行った。ここには越してきたばかりだと晴は言った。チャイムを鳴らすが、誰も出てこない。「警察です」と英介が名乗ってようやく、髪の乱れた女がドアを開けた。女は、急いで羽織ったらしいカーディガンで胸を隠していた。

　母親は、晴の腕をぐいと引いて家に入れた。奥の部屋に男の影がちらりと見えた。晴は英介を振り返ると、にっこりと笑った。

「おまわりさん、ありがとう」

　清らかな、とても愛らしい笑顔だった。公園ではじめて顔を上げたときの、あの無表情さはどこにもなかった。

　母親に腕を掴まれた状態で、晴は英介に、花が綻ぶような笑顔を見せた。そのときの感情を、英介はいまだに説明することができないでいる。ただ、この子を守りたい――英介はそう強く思った。

　目の前でドアがばたんと閉められたあとも、英介は少しのあいだ、その向こうの、晴が生きる世界の過酷さに思いを馳せた。

「あいつは……」

　取り調べを受ける英介が、その日初めて自主的に口をひらいた。

「晴は、なんて言ってるんですか？」

　大矢が、とぼけた顔を一瞬引き締めた。が、またすぐもとに戻して英介に言った。

「そんなことアナタに教えられるわけないじゃなーい。やだなあ、わかってるくせに」

　英介もフッと笑って同意した。

「ですよね」

　あの夜の出会いをきっかけに、晴と英介の交流は始まった。

　英介と晴――親子というには歳が近く、兄弟というには離れている。言葉にするのは難しいが、英介にとって晴は特別な子どもだった。

　晴の母親は、あのときの男との関係を続けていた。英介がきつく指導した甲斐もあって、晴を夜道に放り出すことはなくなった。彼女とて晴が可愛くないわけではなく、晴も母親を嫌ってはいなかった。

　そして晴は、英介にもよく懐いた。小学校に上がると、学校帰りに交番に立ち寄って話をしたり、ときには宿題のわからないところを教わったりもした。そんな二人に、同じ交番に勤める同僚は時折「あんまり深入りするなよ」と心配したが、相手がまだ小学生ということもあり、大目に見られていた。

「見て、藤堂さん。図工の時間に描いたの」

「ん？　わあ、お母さんの似顔絵か。お母さん、きっとよろこぶよ」

　英介が褒めると、晴はうれしそうにした。親子仲は良好なようで、英介もほっとした。それでもひとつ気がかりなのは、晴の笑い方だった。

　交番から家に帰るとき、晴は決まって英介を振り返り、力いっぱい笑顔を作った。

「ありがとう、藤堂さん。またね」

　それはあの夜、アパートで見た笑顔と同じ。余白など存在しない、英介だけに向けられた、無垢な笑顔だった。英介が笑い返すと、晴は満足したように笑顔を仕舞う。そしてくるりと踵を返し、そのあとはもう振り返らなかった。

　その表情の変化を最初に見たとき、英介はたじろいだ。けれどすぐに理解した。晴が作る百点満点の笑顔は、晴が生きていくために編み出した最強の武器なのだ、と。いつかその武器を捨てて、晴が本心から笑える日が来るといい――ランドセルを背負った晴の後ろ姿を見送りながら、英介はそう思った。

　やがて英介が刑事になり、晴の年齢も上がったことで、さすがにそう頻繁に会うことはなくなった。交番勤務の最終日、晴から手紙を手渡された。国語のノートからカッターで几帳面に切り取った紙一枚に『藤堂さんおめでとう。いい刑事さんになってね』と、整った字で書いてあった。手紙はいまでも英介の宝物だった。

　会う回数は減ったが、何かあると晴は必ず英介に連絡を寄越した。その頃にはもう母親は男と切れていたし、晴の身近に同性の相談相手はいなかったから尚更だろう。相談事は些細なものがほとんどだったが、英介はその都度真剣に話を聞き、英介なりのアドバイスを送った。

　晴は英介と話すとき、よく自分の髪を触った。晴は見かけによらず落ち着きがない一面があった。少年の面影を残すあどけない風貌。母親によく似ていた。艶のある髪には天使の輪のような光沢がある。目に掛かる前髪から覗く目は無垢で、純真で、幼い子どものそれだった。

「晴、おまえモテるだろ」

　晴が中学生の頃だった。そう言って冷やかすと、晴は「全然」と一蹴した。

「興味ないんだ、そういうの。人間関係とか面倒。だから僕、友達もいないよ」

　そう言って英介をまっすぐに見つめた晴の目は、とても澄んでいてきれいだった。実際、小さな頃からそうだった。晴が同級生と一緒にいるところを見たことがない。深刻な問題にも思えるが、晴は一向に気にする素振りがなかった。

「だって、学校の友達なんて最初から期間限定みたいなもんでしょ。藤堂さんは中学から続いてる友達いるの？」

　……いない。

「ほら。ね、そんなもんなんだよ」

　晴はそう言うと、空に向かって「んー」と大きく伸びをして、気持ちよさそうに歌を口ずさんだ。こういう能天気なところも晴の魅力だった。

「晴は歌が好きか」

　晴は頷いた。

「好きだよ。いろんな世界の、いろんな人になれるみたいで」

「いい声だもんな、晴の声」

　英介が褒めると、晴は「そ？」と首を傾げた。

　歌が好きだという晴に、英介は自分が使っていたギターを贈った。

「藤堂さん、いいの？」

　英介が少し教えると、晴はみるみる上達した。型に囚われず、自分が楽しいように弾く晴の姿は、柔らかくしなやかな若い樹木を思わせた。

「すごいな。晴は小さいときから何やらせてもうまいもんな。才能のかたまりだな」

　感心する英介に、晴は「ありがと」とにっこり笑った。

「藤堂さんはいつだって僕の味方だね。僕、藤堂さんがいてくれてほんとによかったと思ってるよ」

　晴は会うたびに、そう言って笑った。英介が笑い返すと、晴は満足したように口を閉じる。子どもの頃のように、露骨に真顔に戻すことはしなくなったけれど。

　そんなある日、晴がいつになく興奮した調子で「聞いてほしい話がある」と電話をかけてきた。晴は高校生になっていた。待ち合わせた公園に英介が駆けつけると、晴はブランコからジャンプするように立ち上がった。「藤堂さん！」とこちらに駆け寄る様子はまるで子どもだった。

「藤堂さん、僕ね、夢ができたんだ」

　晴がそんな顔をするのを英介は初めて見た。晴の瞳には希望の光が輝いていた。あの夜に映していた外灯の明かりとは違う。英介は胸の高鳴りを抑えきれなかった。

「どんな夢？」

　英介がたずねると、晴は唇を尖らせて英介を上目遣いに見た。

「藤堂さん……言っても笑わない？」

「笑うもんか。晴の夢を俺が笑うわけないだろ」

　晴は、それでも恥ずかしそうに打ち明けた。その無垢な様子は、小学生の頃の晴を思い出させた。

「僕、俳優になりたいんだ。バイトしてお金貯めて、レッスンに通いたい。俳優はどんな人間にだってなれるんだよ。それってすごいことだよね」

　晴は、未来を思い描いて楽しそうに笑った。英介は、ただうれしかった。できるかぎりの応援をしたいと思った。

「そうか。晴の夢か。大きい夢だ。でもがんばれ！　俺も心の底から応援する！」

　英介がくしゃくしゃの笑顔になった。すると、晴も同じような顔になった。英介ははっと目を見張り、それから泣き顔になった。英介が笑い返しても、晴は真顔に戻らなかった。それは、晴が武器を捨てた瞬間だった。

「藤堂さん、待ってよ。なんで泣くの」

　晴がまた笑った。英介も泣いたまま笑った。

「藤堂さん、ありがとう。僕、藤堂さんに会えてほんとによかった」

　晴が英介に腕を伸ばした。

　息子でもない、弟とも違う、説明が難しい関係だった。ただ守りたいと、そう願い続けた存在だった。

　季節はこのまま、穏やかに過ぎてくれると思っていた。晴は中学を卒業すると、夢に向かって居酒屋のアルバイトに励んだ。レッスンに通いながらオーディションもたくさん受けて、そのうちに一次二次と通過することも増えた。中でも直近に受けたオーディションの模様は番組として配信されていて、英介も第一回から見守っていた。

　母親は俄然乗り気で、まわりに「息子を応援してやって」と声をかけているらしかった。英介は周囲に言ってまわることはしなかったが、心から晴を応援していたし、晴が求めるなら喜んで力になろうと決めていた。

　だから、

「藤堂さん……僕、どうすればいいかな」

　晴からその電話を受けたとき、英介はすでに決断していたのかもしれない。

　暗い夜だった。公園に行ってみると、晴がブランコの横にひとりぽつんと佇んでいた。

「藤堂さん、忙しいのに呼び出してごめんね」

　晴は泣きも笑いもしなかった。外灯の下のあどけない風貌。艶のある髪に天使の輪を被ったような光沢がある。目に掛かる前髪から覗く目は、無垢で純真だった。出会った夜と同じ、つぶらな瞳に外灯の明かりだけを映していた。いまの晴に、小さな子どもの晴が重なった。

「晴」

　英介が手を差し伸べると、晴はその手を取った。

「お母さんの彼氏だった人がね、こないだバイト先に呑みにきたんだ。僕が俳優目指してる話をお母さんから聞いたらしくて。そのときテーブルに写真置かれて脅されたの」

　晴の母親は、別れた男とたまに連絡をとりあっていたらしい。息子の自慢をしたくて話したのか。どこまで愚かな女なんだと英介は腹が立ったが、晴は一言も母親を責めなかった。

　晴はすらすらと状況を伝えた。その淀みのなさが傷の深さを物語っていると英介は感じた。晴の説明によると、相手は声をひそめて言ったそうだ。

　――この写真、憶えてるか？

　それは、幼い晴を男が膝に抱いた写真だった。男の顔は写っていないが、晴を可愛がる手もとははっきりと写っていた。ほかにもあるぞと男は言って、ポケットから複数枚取り出してみせた。晴がひとりで写っているものもあった。

　――動画もたくさん撮ったよなあ。こんなのが流出したらまずいだろうけど、心配すんな。いままで誰にも話しちゃいないし、データも家で保管してる。だってこれは俺とおまえだけの大事な秘密じゃねえか。そうだろ？

　――ただ、ちょっとその……小遣い程度でいいからさ。おまえも苦しいことぐらい俺だってわかるよ。だからとりあえず一万……いや、五千円でもいいや。頼むわ。な？

　――本当はおまえがちゃんと就職してから頼みにくるつもりだったんだけど、もしおまえが有名になったりしたら俺なんかと会ってもらえなくなりそうでさ。その前に言っとかなくちゃって、あわてて来たんだ。

　そう言って男は、卑屈に笑ったそうだ。

「金、渡したのか」

「渡すしかないじゃない」

　晴は、泣きも笑いもしなかった。ただ淡々と状況のみを語った。

　金の無心はこれっきりではないだろう。晴もそれはわかっていた。金額も確実に増していく。もしも本当に晴が有名になったりしたら、それこそどんな要求をしてくるか想像するだけで寒気がする。

　英介の経験上、断言できる。この恐喝は、何かの拍子に男が死なないかぎり、終わらない。

「俳優になればいろんな人生を生きられると思ったんだけどな。僕にはこの人生以外無理みたいだね」

　でも――と晴は英介の目を見た。

「僕は藤堂さんに会えて、ほんとによかったと思ってるよ。藤堂さんといる時間が、僕の人生で唯一幸せだと感じられる時間なんだ」

　晴はそう言って英介に微笑んだ。

「だから、もういいんだ。藤堂さん忙しいのに、呼び出してごめん」

　晴はぺこっと頭を下げて、それから弾けるような笑顔を作った。

「ありがとう、藤堂さん。またね」

　それはあの夜からずっと、晴が英介だけに向けてきた笑顔だった。晴がくるりと英介に背を向けた。その顔はいまどんな表情をしているのか。英介が一歩踏み出した。

　晴の歩幅は案外大きい。英介は晴を追って手を伸ばした。その手で、晴の腕をつかまえた。

「晴」

　振り向いた晴がどんな顔をしていたのか。

　英介はいま、四角い部屋の中で、うまく思い出せなかった。

　その日の取り調べが終わり、一同は殺風景な狭い部屋を出て、廊下を歩いた。

　部屋を出る前、英介の両手首に手錠をはめたのは柳田だった。英介の腕をとり、相変わらず怒ったような顔で、でも少し泣き出しそうな。

「失礼します」

　真面目で、律儀で、英介をとても慕っていた若い後輩は、英介が罪人となったいまも、そうやって礼儀正しく頭を下げて、英介の腕に手錠をはめた。

　両脇を元先輩と元後輩に固められ、見知った廊下をまっすぐに行く。

　すると、向こうからもう一人別の人間が――けれど彼の両手は、とても自由に体の横で振られながら、別の刑事に付き添われて歩いてきた。

　少年の面影を残す、あどけない風貌。艶のある髪には、天使の輪を被ったような光沢がある。髪は、歩みのリズムに乗ってふわふわと揺れている。目に掛かる前髪の陰から覗く目は、無垢で、純真で、幼い子どものそれだった。

　警察の、それも≪落とし物係≫などではない、特別な部屋が並んだ廊下。しかし彼はそんなことなど気に留めず、壁の掲示板を珍しそうに見たりしている。掲示板を過ぎれば、次はすれ違う女性警官を目で追ったり、かと思えば髪型が気になるのか、長袖から出ている指先で前髪を直したり。

「はる……」

　ほんと落ち着きがなくて……

「まったく……」

　それじゃあ、まるっきり子どもだよ。

　晴。

　髪を直していた手を、晴が下ろした。そのとき、その澄んだ両目が、正面から来る英介ら三人を認めた。

　柳田は無意識に、晴から英介を遮るように半歩前へ踏み出す。大矢も相手方の刑事と目配せをしながら、互いの距離は狭まっていった。英介の腕を持つ柳田の手には、まるで英介を守ろうとするかのように力が入った。

　そのとき出し抜けに――

　それはそれはうれしそうに、晴が英介に笑った。

　柳田が、声にならない怒りを示した。心底呆れたというような、蔑むような顔をして、晴を憎々しげに睨みつけた。

　けれど、晴は柳田のことなど一切見ていない。そこに余白など存在しない。ただ、ただ晴は、英介のほうだけを向いて全力で微笑んでいた。

　間もなく、双方はすれ違った。

　誰ひとりうしろを振り返ることなく、何事もなかったように、各々の目的地へと歩みは進んだ。柳田が床を睨みつけながら、誰にとも判断のつかない問いを投げた。

「どういうつもりなんですか……あいつ」

「これこれ柳田君。あいつは無いでしょ、あいつは。彼は容疑者でも何でもありませんよ」

　大矢の常識的な忠告はしかし、柳田の鼻先で完全に拒絶され、弾かれた。

「あいつは自分じゃ手を汚さないで、先輩を利用したんです」

　怒りを抑えた若い声が、歩く道々、三人の足もとに低く吐き捨てられてゆく。

「生まれて一度も、ナイフ一本触ったことがないって顔で、あいつは先輩を唆したんです」

　悲しそうに涙をためて。藤堂さんに会えただけで僕は幸せだよ、なんて台詞も言って。だからもういいんだ、ありがとう、藤堂さんってにっこり笑って。

「先輩が放っとけないの見越して、あいつは付け込んだんです……本ボシはあいつなんです。そんなこと大矢さんだっておわかりのくせに！」

「柳田君」

　大矢がぴしりと、年若い部下の、次第に音量を増す不穏当な声を制した。そしてまたすぐ、いつもの軽い物言いに戻った。

「証拠はひとつもないんです。ただのひとつもね」

　大矢の言うことは、どうしようもなく道理に適い、公平で正しかった。柳田自身、自分でも嫌になるほど理解しているその正当さを、できるならいますぐこの手で握り潰して、踏みつけて、跡形もなくしたいのに――

　柳田は歯痒い思いを持て余し、隣の英介に目をやった。すぐに目をそらすつもりだったが、柳田は思わず英介の横顔に見入った。

「先輩……？」

　訝しげに眉をひそめ、英介に尋ねる。

「……何がおかしいんですか？」

　両脇を大矢と柳田に捕らわれながら、英介はひとり、口の端を綻ばせていた。笑うまいとすればするほど、口角は上がって笑みがこぼれる。

「ふふっ……」

　柳田がいままで一度も、いや、大矢でさえ聞いたことのない笑い方で英介が笑った。

「俺、晴見てると、それだけで笑えちゃって……」

　柔らかな表情で、英介は笑っていた。まるで、これからとても楽しいことが待っているとでも言うように。定規で引いたような、まっすぐな廊下の行き着く先は、賑わう街でもなければ、陽の差す野原でもないのに。

「晴、元気そうですね。心配だったんですけど、よかったです……なんにも変わってなくて」

　俺だけを見つめてくる、あの澄んだ目も変わってなくて。

　仕草も。髪も。

「よかったです……」

　思いがけず英介に会えて、ちょっとびっくりしてから、うれしそうに笑う素直さも変わってなくて。華奢な体で一歩踏み出す、その歩幅が案外大きい潔さも。今日はこのあと、ついでに楽器屋に寄って、新しいピックを買ったりするのかもしれない能天気さも。

　そして――

　その内きっと、英介という人間がいたことなんて、すっかり忘れてしまうのだろう、青葉のように生き生きとした柔軟さも。

　長い廊下を英介がそうして歩いていたと同じとき、晴は警察署の玄関を出た。

　よく晴れた、穏やかな日だった。目の前の階段を、石蹴りでもするような軽快なリズムで晴は下りた。そして髪を撫でる風をひとわたり眺めたあと、空に向かって大きくひとつ伸びをした。

　空を仰いだ晴の髪は、まるで陽光を抱いたように艶やかで、しなやかで、無垢な両目はどこまでも澄みきって、清らかだった。

　※本作は、過去に執筆した『罪人　ざいにん／つみびと』をベースに、構成と描写を全面的に見直した改稿版です。