2.
入学式を経て、初めての土日がやってきた。
二日間のこの休みも、宿題はとっとと済ませてしまってあるので、そこには自由しかない。
今までのわたしならば、その自由をだいぶ持て余していたのだけれど、今のわたしには瞳ちゃんがいた。
土曜日。
わたしは瞳ちゃんと約束をしていた。
共にバスに乗っての遠出の約束だ。
向かうは繁華街。デパートだったり、ショッピングモールだったり、カラオケだったり、ゲームセンターだったり、美術館だったり、水族館だったり……地方都市ながらも色々と行く場所はある。
いや、どこだろうと、きっと楽しいのだ。
誰かと一緒なら。
家を出る予定のうんと前の時間から支度をせっせと済ませ、空いてしまった少なくない手暇時間をだいぶそわそわしながら潰してしばらく。
ようやく程よい時間となって、家を飛び出しバス停へと向かってみれば、そこにはもう瞳ちゃんがいた。
約束の時間の十分前。
けれど、わたしは慌てて駆け寄った。
「おはよう、瞳ちゃん。……ごめん……待った?」
「おはよう、佳奈ちゃん。ううん。大丈夫だよ」
瞳ちゃんはそう言って軽く微笑む。
私服の瞳ちゃんを見るのは、少し久しぶりかもしれない。春休みの間に会って以降は、同じ制服を着ている。
瞳ちゃんの私服のチョイスはというと、目の保養という言葉しか出てこないくらい似合っていた。
小学生の頃、毎日のようにお人形さんのような姿を見せてくれた彼女の事を少しだけ思い出す。あの頃よりもずっと大人のお姉さんに相応しい落ち着きがあるワインレッドのロングスカートに、クリーム色のブラウス。
首元には春休みにも目にした赤い宝石のハマったネックレスが輝いている。
「どうかした?」
「え、いや、瞳ちゃんの私服姿、可愛いなって思って」
派手な格好というわけではない。落ち着いてまとまっている。けれど、それがむしろ、瞳ちゃんの美しい顔立ちを際立たせているように見えたのだ。
「本当? 佳奈ちゃんもよく似合っているよ」
「あ、ありがとう」
褒められるのは嬉しい。けれど、複雑だった。だって、わたしの方は瞳ちゃんに比べて、華やかさに欠けている。中学生の頃から着ている地味な上下。鮮やかな色を身につけるのが少し怖くて黒色かつ中性的なデザインのものに頼ってしまうのは、それだけ周囲の視線が気になるからだろう。
それでも、並んで立ってもおかしくはないはずだ。バス停の傍にある郵便局の窓ガラスに映る自分の姿をさりげなく確認して、わたしは自分に言い聞かせた。
大丈夫。朝から何度も確認したのだから。瞳ちゃんに恥をかかせることもない……はず。
「それにしても、楽しみだな」
バスが来る予定時刻の五分前。
瞳ちゃんは朗らかな様子でそう言った。
「佳奈ちゃんと繁華街まで行くのは初めてだね。いつも遊ぶのは小学校からお家までの間の何処か。もっぱら、あの公園だったもの」
「そうだね。街までってなると確かに。小学生の頃にはなかったかも?」
バスにまで一緒に乗って。
そう思うと楽しみで仕方がない。
クラスメイトたちは、中学生の頃からそうやって友達と遊んで楽しい思い出を作ってきていたのは知っている。
瞳ちゃんだってそういった思い出の一つや二つはあっただろう。
けれど、わたしは違う。初めてだった。
──こんなにわくわくするものなんだね。誰かと一緒に街に行くことって。
静かな高揚感を覚えていると、そんなわたしの気持ちをさらに高ぶらせるかのように、瞳ちゃんがぎゅっと手を握ってきた。
ひんやりとしたその感触に少しドキっとする。けれど、とても心地よかった。
「ふふ、いきなりごめんね。とっても楽しみでつい」
「いいよ。うん。わたしも……わたしも楽しみ!」
心が弾むとはこういう事なのだ。
小学生の頃ならば、こんな日もたくさんあった気がする。でも、今ほど身をもって理解したこともないだろう。そのくらい、わたしの気持ちは高ぶっていき、体が熱を帯びていく。
そんな状態だからこそ、ひんやりとした瞳ちゃんの手がわたしには心地よくて、とにかくもうすでに幸せだった。
あまりにも早すぎる。だってまだ、バスも着ていないのに。この先、わたしはどうなっちゃうのだろう。
嬉しい悲鳴のようなものが心の中で木霊する。そんな頃合いに、バスは時間ぴったりにやってきた。
いちばん後ろの席に一緒に座って揺られる間もまた、わたし達はひそひそ声でお話を続けた。
バスの騒音に負けず、それでいて、周囲の人の迷惑にならないほどの絶妙な声。ふたりきりのお喋りに集中するその空間はまるで、いつもの教室のよう。
賑やかなクラスメイトの声も、瞳ちゃんと話している間は全く耳に入ってこない。一緒に乗ったバスの車内でだって同じだった。
「ねえ、瞳ちゃん。今日はまずどこに行こうか。お店とか調べようって思っていたんだけど、ちょっと忘れちゃってて……全然調べられてないんだ」
「そっか。それなら、とりあえずバスを降りたあとで、気になるところにふらっと入ってみようよ。大丈夫、安心して。佳奈ちゃんと一緒なら、わたしはきっと楽しめるから」
そう言って微笑む瞳ちゃんはあまりにも綺麗だった。きっと、この県のどの美術館に展示されている彫刻や絵画よりもずっと美しかっただろう。そう思うくらい、この時のわたしは瞳ちゃんに見惚れていた。
──いけない。
わたしは慌てて目を逸らした。あまりにもじっと見つめすぎたらどうかなってしまいそうだ。それに、瞳ちゃんも不審に思ってしまうだろう。それが怖かった。
「それなら良かった」
動揺を悟られまいと笑いながらわたしは言った。
バスはまだわたし達の地元を抜けていない。土曜日だからか乗る人は多いし、中には同じくらいの年頃の人達もいたけれど、幸いなことに知り合いなどは見当たらなかった。
バスが通るのはいつも二人で歩く通学路だ。いつもよりずっと早いその景色をさりげなく眺めていると、ふと瞳ちゃんが囁いてきた。
「佳奈ちゃんはよく街に行ったりするの?」
「えっ、えっと……ううん、あまり行ったことないかも。瞳ちゃんは?」
「わたしはたまに。一人で気ままにね。よく足を運ぶ喫茶店があるから、よかったらお昼はそこで食べない?」
「うん、ぜひ教えて」
瞳ちゃんの気に入っているお店なのだから、きっと素敵な場所なのだろう。何の根拠もないけれど、そう信じてやまなかった。
それにしても、一人で気ままに街へ行くなんて。ついこの間まで中学生だったのに、ずいぶんと大人な気がした。
わたしなんて、地元を一人きりで歩くのも誰かの目線が気になってしまってすごく怖いというのに。
いいな。瞳ちゃんは。
自信に満ち溢れていて。輝いて見える。
どうして、わたしなんかと仲良くしてくれるのだろう。
思考が内向きになるのと急に怖くなってくるのが、やっぱり他人の視線だった。
わたしと瞳ちゃんは果たして釣り合っているだろうか。バスの車内でさえも、同じ年頃の人達が近くにいるっていうだけで変に意識してしまう。
こういう時の対処法は知っている。無心になって車窓を見つめるのだ。
バスはいつもの通学路を通り過ぎていく。
瞳ちゃんと一緒に入った学園の入り口も過ぎていく。そのままぐるぐると坂道を降りていくと、その先には中学生の頃まではあまり馴染みのなかった隣町の景色が広がり始める。
繁華街はもっと先だ。けれど、なんだかすでに楽しかった。
「ねえ、佳奈ちゃん」
と、瞳ちゃんが再び話しかけてきた。
「佳奈ちゃんはもう進路とか決めているの?」
「し、進路?」
「うん。トップクラスに来たってことは、やっぱり大学への進学も考えているんだよね? 志望校とかはあるの?」
「じ、じ、実はあまり決めていなくて……ただ文系の四年大かなぁってことしか……」
「そっか」
「ひ、瞳ちゃんは? 瞳ちゃんは何か行きたいところとかあるの?」
「わたしも特には。でも、ここの大学もいいなぁって思っているよ」
そう言って瞳ちゃんが眺めたのは、バスの車窓から見える景色だ。地元の国立大。そのキャンパスの一部である。
「そっか。瞳ちゃんは地元を出ないつもりなのかな?」
「そう決めているってわけじゃないけれどね。何処でも良いなら、ここも楽しそうだなって。人も多いし、色んな人がいそうだし」
そう言って、ふとわたしの顔を振り返り、彼女は付け加えるように言った。
「ああ、でも、やっぱり女子大も捨てがたいよね。白蘭大はお城みたいなキャンパスだし、あれはあれで楽しそう」
「そうだね。あのキャンパスだときっと、瞳ちゃんによく似合うだろうな……」
わたしの脳内に浮かぶのは、お城の中をひとりで優雅にお姫さまのような瞳ちゃんの姿だ。美しすぎる。出来る事ならば、わたしはその従者として地味ながらも気品ある格好で侍りたいところだ。
そんな理由で進路なんて決めていいのかという心の問いかけが聞こえてくる気がするけれど、まだまだ先の事だし、今この場で深刻に悩むことでもない。とにかく今日は、瞳ちゃんとの二人きりの時間をとことん楽しまないと。
人知れず意気込んでいる間に、バスはさらに進んでいく。小学生の頃に友達と遠出をしたつもりになっていたショッピングセンターの前へとやって来た。
「そういえば、瞳ちゃんとはここに来たことあったっけ?」
何となく訊ねると、瞳ちゃんは軽く笑った。
「忘れちゃった?」
「えっ、やっぱりあった?」
「わたしはちゃんと覚えているよ」
「そ、そそそっか……ご、ごめんね」
瞳ちゃんとよく遊んだのは小学三年生から四年生の途中までだ。だから、記憶も曖昧だったのかもしれない。
通学路や家の周辺……特にあの公園で遊んだことはよく覚えているけれど、小学生にとってはこんな遠出を一緒にしたことがあったなんて。
「何ならその日は向かいの科学館だって行ったし、市立図書館だって行ったんだから」
「えっ、えっ!」
「佳奈ちゃんったら、忘れっぽいんだね。でも、二人きりじゃなかった。色んな人と集団で来たの。だから、あの時はそんなにたくさんは話さなかったかも」
「そ、そっか。複数でね……」
そう言われてみれば、そんな事もあったかもしれない。
複数のクラスメイトと一緒に、科学館や図書館、そしてショッピングセンターへ行ったという思い出。
薄っすらと記憶の断片が残っていた。あれが小学三年生から四年生の途中の思い出であるならば、その集団の中に瞳ちゃんが一緒にいたって確かにおかしくはない。
瞳ちゃんの言う通り、きっとその時はあんまり瞳ちゃんと会話をする事が出来なかったのだろう。
それにしても、科学館や図書館か。と、わたしはバスの車窓からその二つの建物を眺めた。いずれも落ち着く空間ではある。
特にプラネタリウムなんかは、久しぶりに行ってみたいと思わなくもない。この先、瞳ちゃんと並んで見ることが出来たなら、きっと美しい思い出になる事だろう。
──今後、機会があったら誘ってみようかな。
そんな未来の予定を心の手帳に密かに書いてウキウキしているうちに、バスは再び動き出した。
しばらく走って有名な神社や病院やらを通り過ぎると、市内でもっとも賑やかな駅に到着する。
今年の秋、大きな駅ビルが出来る予定のそこは、現在、工事中となっていた。バスの車窓から何となく眺めていると、横からそっと瞳ちゃんが話しかけてきた。
「駅の名前も変わっちゃって、なんだか慣れないね」
「うん……でも、さらに賑やかになりそうだね。映画館も入るらしいし」
「オープンしたら一緒に行ってみる? まだまだ先の事だけど」
瞳ちゃんの軽いその誘いに、心が躍った。
オープンは九月。まだまだ先の事だ。けれど、そのなんと楽しみな事か。
「うん、ぜひ一緒に行こう!」
思わず瞳ちゃんの手を握ってしまった。はしゃいでしまうわたしはきっと、高校生のお姉さんらしくなかったかもしれない。でも、瞳ちゃんは特に気にせずにっこり笑ったままだった。
その眼差しが、わたしは心地よかった。馬鹿にするわけでもなく、ただ優しく受け止めてくれる。まだまだ遠慮があるからかもしれないけれど、そんな瞳ちゃんの横にいると、それだけで幸せな気持ちになる。
降りる人が多かったようで、少しだけ長くバスは停まり、再び走り出す。ここから目的地まではあと少しだ。
住んでいる町よりも賑やかな道路を眺めながら、バスに揺られてほんの十分足らず。目的地は見えてきた。財布から出した小銭を握り締めて、わたしは早くもそわそわしていた。
親とならば何度か歩き回ったことのある繁華街。デパートや映画館くらいしか知らないそのアーケードが見えてきた。
音声案内が流れると同時に、瞳ちゃんがためらいもなくボタンを押した。
初めて大人の同伴なしに降りるバス停だったからだろうか。妙に緊張しながら、わたしは席を立ったのだった。
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わたしの愛しい瞳ちゃん ねこじゃ・じぇねこ @zenyatta031
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