第1章 誰かが一緒にいるっていう幸せ
1.
私立
中高一貫校で、少し離れた敷地には短大や大学もある。女子ばかりが集められたその場所は、お嬢様学校と呼ばれるに相応しい雰囲気ではあるし、実際、白蘭にはお嬢様と呼ぶにふさわしいお家柄の子たちも多く在籍しているので、ここでの学園生活には周囲からも一定の憧れがあるらしい。
しかし、何のことはないようなわたしのような普通の生徒だってたくさんいる。実際、中を知れば、周りがイメージしているほどの高貴な花園というわけでもない。そんな場所だ。
他の学校の噂とかを聞く限り、悪くない環境だとは思うけれど、すごくいいとも言えない。結局のところ、どこの学校だって輝けるのは一部の子だけ。その場の空気を掌握できるような強い子だけなのだから。
でも、高校からは何かが変わるかもしれない。そんな期待だってあった。
一学年七十名ほどの少人数制の中等部と比べて、高等部は外部から多くの新入生を受け付けることもあって二百名近くの大人数になる。
新しい子たちが増えれば、どうあがいたって新しい空気になるものだ。そんな予感を、わたしは新学期早々感じていた。
三十数名からなるこのクラスの中で、内部進学者はわたしを含めて五名しかいない。同じくトップクラスである隣とその隣のクラスを足しても、内部進学者は十五名のみ。つまり、中学生時代にいた七十名の生徒のうち、十五名しかここに入らなかったのだ。
わたしがその中の何位だったのかまでは分からないけれど、頑張った甲斐があったし、それに運にも味方された。
だって、このクラスには──。
「強く思えば願いは叶うのかな。一年間よろしくね、佳奈ちゃん」
瞳ちゃんがいるのだから。
席はわたしのすぐ前。教室の窓際という最高の位置。
一緒に登下校できるというだけでも嬉しかったのに、まさか本当に瞳ちゃんと同じクラスになれるなんて。その幸福は、学校生活が始まると同時にじわじわとわたしの心身に浸透していった。ああ、これが学校で仲の良い誰かと穏やかに過ごせるという贅沢なのだ。
しかし、ある昼休み、ついにわたしはある事実を白状せねばならない時を迎えた。それは、ふたりきりでお昼ご飯をつついていた時の事だった。
「ところでさ、佳奈ちゃん」
「ん、なあに?」
「学校が始まってから三日くらい、ずっとわたしと一緒にいるけれど、いいの? 他のお友達だっているでしょうに」
──うっ。
動揺してしまった。購買部近くの自販機で買った紙パックのミックスオレが喉に引っかかりそうになった。危なかった。いや、まだ危機は去っていない。全然解決していない。
入学式からこの三日ほど、先輩風を吹かせて学園の紹介をしてきたりもした覚えがあるのだが、実のところまだ瞳ちゃんには言っていないことがある。中学生の頃にあまり……というかほぼ友達がいなかったという事実を。
「なんなら、今日くらいは皆と話してきてもいいんだよ」
「ひ、ひひひ瞳ちゃんは?」
「わたしは一人でも大丈夫だよ。本でも読んでいるからさ」
心配しないで、と、微笑む彼女の顔に、わたしはますます焦ってしまった。まさか、わたしが一緒だと迷惑なのだろうか。そんなそこはかとない不安が頭を過ぎってしまい、気が気でなかった。
「わ、わわ、わたしが一緒だともしかして……め、迷惑?」
我ながら挙動不審で嫌になる。でも、やっぱり怖かった。せっかく一緒に過ごせる相手が出来たのに、たった三日で失う事になるわけにはいかない。
そんなわたしの言葉が予想外だったのだろうか、瞳ちゃんは意外そうな表情を浮かべた。
「え、いや、迷惑とかじゃないけれど……」
「じゃあ、一緒にいる。いいよね」
「勿論……佳奈ちゃんがそうしたいのならね」
こちらを安心させるような包容力のある笑みに、わたしはお母さんに抱かれた赤ん坊のようにホッとしてしまった。
「ありがとう」
けれど、このまま説明もなく誤魔化すのも何か違う気がする。心の中で何度か深呼吸を繰り返してから、わたしは瞳ちゃんに白状した。
「あのね……瞳ちゃん。実を言うとわたし……友達があんまりいないんだ」
瞳ちゃんは首を傾げる。その仕草にドキっとしてしまった。
あんまりいない、というのすらだいぶ盛った気がする。本当は全然いないのだから。何かしらの作業なんかで二人きりになった時に会話が続く相手なら何名かいたものだ。でもそれを友達としてカウントしていいのかと問われると微妙としか言えないし、いずれにしたってみんな別クラスだ。
このクラスにいる内部進学組の人達は、いずれもあまり話したことがない。この三日の間に、この白蘭学園において内部進学組の一人として先輩風を吹かせた手前、これを白状するのはなかなか恥ずかしかった。
けれど、瞳ちゃんはしばらく何かを考えてから、こう言った。
「なるほど、だからわたしと一緒にいるのね」
「あの……もしかして……失望した?」
うん、と言われたらどうしよう。たぶん、ショックで寝込んでしまうな。そんな不安に心臓を引きちぎられそうになっている中、瞳ちゃんはその愛らしい笑みを崩さぬまま首を横に振ってくれた。
「別に。むしろ、ちょっと安心したかも」
「安心?」
「うん。わたしが誰かから佳奈ちゃんを奪っているわけじゃないのならいいかなって」
「それは、よ……よかった」
ほっと胸をなでおろすも、すぐにまた不安が生まれ、わたしは瞳ちゃんに訊ねた。
「あの、でも、瞳ちゃんはいいの? わたしに気にせず、もっとみんなに話しかけにいってもいいんだよ? たくさん友達作りたいでしょう?」
けれど、瞳ちゃんはまたしても首を横に振った。
心成しか、今度はハッキリと。
「わたしね、あんまり群れるのが好きじゃないんだ。だって狼みたいだから」
狼みたい。
その不可思議なたとえに、正直あまりピンとこなかった。
けれど、言わんとしていることはよく分かる。つまり、大勢で群れたくないっていことなのだろう。
わたしはこれからも何にも心配せずに瞳ちゃんを独占してもいいということ。
「……それなら良かった」
かくして、わたしが中学時代にボッチであったという悲しい過去も、瞳ちゃんに無事に伝えることができた。
笑うわけでもなければ、過剰に肯定するわけでもない。たださらりと流した彼女の空気感がむしろ心地良い。
これからは心配いらないんだ。
これからは瞳ちゃんが一緒なんだ。
登校も、下校も、休み時間も、移動教室も。
わたしには瞳ちゃんという同行者がいる。
それだけのことが、どれほど幸せな事か。
一人には慣れているって思っていた。
友達があまり出来なかった中学校は確かに寂しかったのだけれど、何しろ広い学園だ。
何処かへ行けば落ち着ける場所は見つかったし、先生との関係は良好だった。部活に打ち込んだりも出来た。
けれど、その根底にはやっぱり常に寂しいという感情があったのだろう。
無難という文字で誤魔化してはいたけれど、瞳ちゃんという存在を手に入れてしまった今になってみれば分かる。
わたしはやっぱり寂しかったんだと。
──わたしは一人でも大丈夫。
瞳ちゃんの言葉が何度も頭を過ぎる。
強がりなんかではなく、本当にそうなのだろう。
群れたくないから、敢えて一人でいることが出来るという強さがある。
でも、少なくともわたしは違う。群れることが出来ないから、一人に慣れざるを得ない。この違いはあまりに大きい。だからこそ、瞳ちゃんが何かしらの事情で休んだらと思うと怖かった。
休むどころじゃなくて、何かしらの事情でいなくなってしまったら。
縁起でもない。
とにかく今は、瞳ちゃんと過ごす貴重な時間を楽しまないと。
「ね、佳奈ちゃん。今日は宿題が色々と出たし、少し教室に残って片付けてから帰らない?」
「いいよ。そうしよう」
始まったばかりの高校一年生の各教科の先生たちは、それぞれの授業で出る宿題の総量なんてきっと全く気にも留めずにドカドカと出してくる。
宿題というものが好きな子なんて稀有だろう。わたしも世間一般の女子高生と比べれば変わった方の子ではあるけれど、さすがに宿題が大好きというタイプの変わった子なんかではない。
それでも、一人きりで向き合わねばならなかった中学校時代に比べて、今はそれすらも楽しく感じてしまった。
別に教え合うわけでもないし、話が弾むわけでもない。机を引っ付けて、向かい合って座って、一緒に宿題をしているだけ。
それだけなのに、わたしは安心していたのだ。これが、誰かと同じ空間、同じ時間を共有するという幸福なのだ。
その幸福を感じるからこそ、宿題という存在も苦痛ではなかった。
全て片付けるのには小一時間ほどかかってしまった。
けれど、おかげで明日までは何も気にせず過ごすことが出来る。その解放感と共に、わたしは瞳ちゃんと共に学校を去ったのだった。
通いなれた道。少し疲れる通学路。隣町からわたし達の暮らす町までの道のりは、坂や階段が多くて行きも帰りもそれぞれ疲れてしまう道だ。
中学生の頃は、そこを黙々と歩んだものだった。三年も通った道。景色も歩道の感触も、もうよく覚えている。
だが、隣に瞳ちゃんがいるというだけで、だいぶ印象が変わった。何処となく薄暗く感じていた並木道の木陰も、爽やかな木漏れ日ばかりが目に留まるようになった。
何気なく通り過ぎるコンビニも、スーパーも、喫茶店も、道端にいつもいる焼き鳥の屋台も、それぞれが過去三年より鮮やかに見えたし、ちょっとくらい寄ってから帰ってもいいかなと思えるくらいには親しみ深く感じられるようになってきた。
たった三日で、わたしの日常はガラリと変わってしまったのだ。
瞳ちゃんがそこにいるだけで。
「今日も楽しかった。佳奈ちゃんのおかげだね」
いつも待ち合わせるあの思い出の公園の入り口までたどり着いた時、瞳ちゃんは立ち止まってそう言った。
「ねえ……せっかくだから、今日もちょっと喋っていかない?」
「いいよ。瞳ちゃんのおかげで宿題も終わったことだし!」
そのまま向かったのは、わたし達が再会した公園の東屋だった。
わたしの家のベランダからよく見えるその場所は、いざ座ってみるとあまり人目が気にならなくなる。
実際には誰かに見られているのだとしても、落ち着ける空間には違いなかった。
そんな場所で、わたし達は二人並んで座って、取り留めもないような事を語り合った。
程なくして聞こえてきたのは、ずっと変わらぬあのミュージックサイレン「アマリリス」の音色だった。
何となく喋るのをやめて、その音色に二人で耳を傾ける。やがて、音楽が止むと、瞳ちゃんがぽつりと言った。
「懐かしいな。あの音色、ちょっと不気味だけれど、でも好きだった。一度引っ越した先ではね、『夕焼け小焼け』だったの。そっちの方が多いらしいね。あれはあれでよかったんだけど、でもやっぱり小さい頃に何度も聞いたからかな。しばらくは『アマリリス』の音色が恋しくて泣いちゃったこともあったんだよ」
恥ずかしそうに語る瞳ちゃんは可愛かった。
「佳奈ちゃんはどうだった?」
「ど……どうって?」
「わたしがいなくなって、寂しかった?」
こちらを窺ってくるその目に、わたしはしばし惚けてしまった。
思い出すのは、小学四年生の秋のこと。
寂しい。
瞳ちゃんを見送った時の感情はまさしくそれだっただろう。
でも、それだけじゃない。何かもっと深刻で、根深い思いに苛まれたような気がする。たとえるならば、喪失感のような。
「わたしね……瞳ちゃんがいなくなった日から、世界から赤い色が抜け落ちちゃったみたいな、そんな気持ちで過ごしてきたんだ」
「赤色……?」
「ほら、瞳ちゃん、あの頃はお洋服とか、赤いリボンとか赤い靴とか、いつも赤い何かを身に着けていたでしょう」
「そうだったかも」
「だからね、わたしにとって赤は瞳ちゃんの色だったの。瞳ちゃんが転校しちゃったあの日、その色が抜け落ちちゃったって……」
「それは、寂しい事だった?」
「……うん」
でも、たぶん、もっと深刻だっただろう。そこまで言う勇気はちょっぴり足りなくて、わたしはそのまま黙り込んでしまった。
しばしの沈黙の後、瞳ちゃんは再び口を開いた。
「今でも、赤は好きなんだ。あの頃はお母さんの趣味が入っていたかもしれないけれど、今は自分の好みで赤いアイテムやお洋服ばかり選んでいる」
「そっか。じゃあ、これからも赤は瞳ちゃんの色だね」
そう言って瞳ちゃんに笑いかけたその時、わたしはふと疑問を覚えた。
赤色。前にも見たことのあるその色が、瞳ちゃんの目に重なって見えたのだ。
まるで猫の目の光のようなそれ。
だが、それも一瞬の事だった。気のせいかもしれない。新学期新生活の緊張やらなんやらで、頭や目が疲れてしまっていたのかも。
「どうしたの、佳奈ちゃん」
「ううん。なんでもない。ちょっと疲れちゃったのかも」
「そっか」
その後、わたし達は日が暮れるまで他愛もない会話を続けた。
中身があるような、ないような話ばかり。それでも、そんな話を出来る相手が出来たという幸せに、ひたすら浸れる贅沢な時間だった。
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