2.
二〇〇四年三月。春休み。
高校進学を控えたわたしは、どことなくアンニュイな気持ちでベランダに出ていた。
見つめるのは家の近所の公園である。小学生の頃には、毎日のように遊んだあの場所。子どもから大人までたくさんの人達が集うその場所も、夜が更けると落ち着いてくる。
とはいえ、たまにはやんちゃなお年頃の人達が集うことだってある。やや近所迷惑なボリュームでおしゃべりに夢中になっていたりしているのだってざらにある。
だけど、その日はひたすら静かだった。
静かな公園は好きだ。それに、なんだか懐かしくなる。口ずさむのは、小さな頃からずっと変わらず聞こえてくるミュージックサイレンの「アマリリス」のちょっと不気味なあの音色だ。
そうすると、どことなくノスタルジックな気持ちになる。
思い出すのは赤い色が似合っていたあの美少女の事。小学生の頃の思い出の一つだけれど、今となっては貴重な宝物のような記憶にもなっている。
というのも、ここ数年のわたしは散々だった。中学校の三年間は、可もなく不可もなく……と言いたいところだけれど、それはだいぶ甘い評価と言わざるを得ない。だいぶ悪かったし、もう二度と戻りたくない。
別に虐められていたとかそういうわけじゃないのだけれど、これが反抗期ってやつなのかな。一年生の初めの頃は小学校の延長みたいに優しく無邪気だったお友達が、いつの間にかちょっぴり怖いお姉さんに成長していって、その空気についていけなかったわたしは、事あるごとに背中から刃物で刺されるような苦しみを覚える瞬間が多々あったのだ。
一言でいえば、中学校生活に失敗した。
キラキラ輝くスクールライフなんてそこにはなく、ただただクラスの中心的な人々の顔色を窺い、なるべく視界に入らないように過ごすことばかり考えた三年間だったのだ。
わたしが通っているのは中高一貫の女子校。
他の高校に進学することも一瞬考えたのだが、三年でようやく学校の空気にも慣れてきたと言えなくもない。
ここで新しい学校へ飛び込むのは、わたしにはちょっとキツそうだった。それに、救いがないわけでもない。
中学校三年間でとても気まずい関係となってしまった人々とわたしは希望する進路が全く違ったのだ。
というか、わたしが異なる道になるように三年生の後半で努力をした。内部進学者と外部からの新入生からなるトップクラスに入れるように受験勉強を重ねたのだ。お陰で希望は叶い、少なくとも内部進学者に関しては比較的マシな生徒たちで構成されたそのクラスに何とか滑り込むことができた。
あとは先の三年間を無難に過ごし、無難な進路へと進むだけ。
異様な覚悟と共に過ごす春休み。ここのところ、ふと思い出すのが楽しかった小学生の頃の日々だったのだ。
あの頃はよかった。無邪気に友達と楽しむことだけを考えていたし、それが許される環境だった。その中でも特に印象深かったのが、瞳ちゃんと過ごした日々の事だ。あれから、わたしの世界からは赤色が抜け落ちたままになっている。
いや、見えてはいるのだ。赤信号も、赤いリンゴも、赤いランドセルも、赤ペンも。でも、印象の残る赤がない。そういったものは全て、十歳の夏の終わりに瞳ちゃんが持っていってしまった。
「……瞳ちゃん。元気かな」
中学校三年間を通い、これからもまた三年通うことになる学園には女子しかいない。あれだけの女子が集まれば、さすがに美人だって結構いる。それでも、わたしの心をくすぐる美少女は瞳ちゃん以外にいなかった。
それに、赤が似合うのだって瞳ちゃんだけだ。
──赤。
不意にわたしの視界に赤色がちらついた。変だな。そう思ってわたしはそのちらつきを目で追った。
東屋だ。誰かがいる。さっきまでは確かに誰もいなかったのに、と思いながら、わたしは何となくその人物を見つめた。女の人らしい。小さな子どもではない。年の頃は、同じくらい。ただ、気になるのは彼女のまとう色だった。
──赤い。
何故、そう思ったのか、分からない。春物のコートが赤かったわけでもないし、小さな子どものような赤いリボンを髪につけていたわけでもない。カバンが赤かったわけでもないし、レーザーポインターなんかを振り回していたわけでもない。
ただ、気になる色が見えたのだ。場所的に言えば、目のあたり。まるで、目が光ったかのよう。まさか、そんなはずはない。ただ、そう見えたってだけだ。たとえるなら、猫。普段は青い目が写真では赤く光って映っているような感じで、その人の目が赤く光ったように見えたのだ。
どうしてだろう。
素朴な疑問を抱きながらしばらくわたしは彼女を見つめていた。段々と、その顔を見ているうちに、胸騒ぎがしていった。
──あれ。あの人って。
まさか、そんな事ってあるだろうか。でも、見れば見るほど、そうとしか見えなくなっていく。
気づけばわたしは家の中に戻っていた。バタバタと慌てて部屋を飛び出し、どうしたのと驚いて訊ねてくるお母さんには適当に誤魔化して、玄関を飛び出して向かったのは公園だった。
ハアハアと息を切らしながら東屋に向かうわたしはどう見たって不審者だ。事実、そこに座っていた女性は驚いたようにこちらを見つめてきた。
だが、わたしの方は必死だった。近づけば近づくほど確信へと変わる。東屋まで近づくと、わたしは息を整えながら、そこに座っていた彼女に声をかけた。
「ね……あの……瞳ちゃん……夢咲瞳ちゃん……だよね?」
彼女はなおも驚いたようにこちらを見つめてくる。
沈黙が少しだけ流れ、わたしは怖くなった。
もしかして、人違いだった?
わたし、ただの不審者になってしまった?
そんな恐怖に冷や汗が垂れる。けれど、恥じらいと不安で気がおかしくなってしまうより前に、彼女は答えてくれた。
「……佳奈ちゃん?」
やっぱりそうだ。
息が詰まりそうになる中、わたしもまた東屋に座った。
「うん。そうだよ。百合野佳奈。覚えていてくれたんだね!」
興奮気味にはしゃぐわたしを前に、彼女──夢咲瞳ちゃんは軽く目を細めた。
そこで、少しわたしは冷静になった。公園の外灯の明かりが、瞳ちゃんの姿を照らしている。
そこにいたのは恐ろしいほどに綺麗な女の人だった。落ち着いた色合いのコートの中に来ているのは、えんじ色のワンピース。
そして、きっとこれが赤い目の光に見えたのだろう、ルビーのようにキラキラとしたネックレスをつけていた。
外灯の明かりを受けて煌めくネックレスの色を見ているうちに、わたしの脳が刺激された。久しぶりに赤という色を見ることができた気がしたのだ。
しかし、そんな事よりも、わたしは瞳ちゃん自身に見惚れていた。美少女だったのは確かだったけれど、こんなにも順当に美しい人になるものだろうか。
まだ十歳だった少女時代に淡く抱いていたあの憧れが、時を経て再び燃え盛るような……そんな気持ちになる。
そんなわたしの卑しい心などつゆ知らず、瞳ちゃんは落ち着いた声で言った。
「良かった。佳奈ちゃんがまだここに住んでいて」
口元に笑みを浮かべると、あの頃とはまた違った大人の女性のような色気を含んだ目でわたしを見つめてきた。
「知っている人が誰もいなかったらどうしようって不安だったの。わたしね、この春からまたこの町で暮らすんだよ。前に住んでいたお家に戻ってきたの」
「ホントに? 嬉しい!」
我ながら無邪気すぎるわたしの反応に、瞳ちゃんは目を細めた。
「高校はこっちに進学することが決まったの。佳奈ちゃんは?」
「わたしは……中高一貫だから、中学校までとあまり変わらないんだ。この町と隣町の境くらいにある女子校なんだけど……」
「……それって……わたしと一緒だ」
「えっ?」
「わたしも四月からそこに通うの。トップクラスに入れるんだって」
「えっ……えっ! そこもわたしと一緒だ!」
まさかすぎる展開。だけど、喜ぶにはまだ早かった。選抜クラスは三つあると聞いている。
そこに内部進学者と外部からの新入生が均等に分けられて一年を過ごすのだ。そして、二年からはそれぞれの希望する進路に合わせてコースが変わるらしい。
大学受験をするか、違う進路や就職を選ぶかで、道は分かれるし、大学受験をするにしても文系や理系などで大まかに変わる。
そうなったら同じ学校とはいえ、あまり関わる事なんて出来ないだろう。
とはいえ、同じ学校に瞳ちゃんが来る。登下校くらいは一緒にできるかもしれない。それだけで、これまで考えもしなかった期待のようなものが芽吹いてしまう。
「そっか。佳奈ちゃんもトップクラスなんだ。同じクラスになれるといいな」
隣で愛らしくそう呟く瞳ちゃんの姿に、わたしはぼうっとしてしまった。
これは夢じゃないのか。
しけた中学校三年間を過ごしてしまい、たまりにたまったストレスと願望が生み出した悲しい夢なのではないか。
そう思わずにはいられなかったのだが、隣に座る彼女のどことなく甘い香りとその存在感は、夢にしてはやけにリアル過ぎた。
じゃあ、夢じゃないのだ。せめて醒めてしまうまではそう信じて癒されたい。
「ね、ねえ、瞳ちゃん。それならさ……」
と、わたしは勢い任せて勇気を振り絞り、瞳ちゃんに言った。
「春からは……その……一……緒に学校に行かない? もし良かったら、だけど……」
挙動不審を隠し切れない。冷や汗が出てしまう。そんなわたしの事を、不審がることもなければ特に面白がることもなく、瞳ちゃんはじっと見つめてきた。
「いいの? それなら、せっかくだしご一緒したいな」
軽く首を傾げ、目を細める彼女の仕草を前に、わたしはまるで楽園にでも導かれたように浮かれてしまった。
やった。やった、やった。
四月からは瞳ちゃんが一緒だ。クラスまでは一緒になれなくても、しばらくは……そうしばらくはきっと、一緒に登下校が出来る。
あの頃と変わっていない……いや、順当に綺麗に成長した瞳ちゃんと一緒に。
ふと客観視してみれば我ながらなかなか気持ちが悪い。けれど、そんな事には構わずに、半ば浮かれながら、わたしは瞳ちゃんと連絡先を交換したのだった。
小学生のあの頃は一部の大人しか持っていなかった携帯電話も、今や高校生の半数くらいは自分専用のものを持たせてもらっていた。
わたしもそうだったし、瞳ちゃんもそうだった。お互いの連絡先を交換して登録し合うと、試しにメールのやり取りをする。
『これからよろしくね、佳奈ちゃん』
『こちらこそ』
目の前で送り合って他愛もなく笑い合っていると、心が一気に軽くなった。
ああ、もしかしたら、これからの日々は、わたしが思っているような無難なものとはまた少し違うかもしれない。
そんな明るい可能性を覚えながら、わたし達はお別れした。
その後は、突然出掛けた事をお母さんに軽く咎められても、あまり気にならなかった。というか、気にする余裕がなかった。頭の中は再会したばかりの瞳ちゃんのことでいっぱいで、胸は期待で膨らんでいた。
そして、寝る前に、わたしは折り畳み式の携帯電話を開いた。見つめるのは、瞳ちゃんから届いた短いメール文だ。
『これからよろしくね、佳奈ちゃん』
とても短い文だけれど、何度も繰り返し読んでしまった。そのメールを黙って保護すると、わたしは携帯をパタリと閉じてため息をついた。
「佳奈ちゃん、か」
家族以外でそんな風にわたしの事を呼んでくれる人も久しぶりだ。小学校が一緒だった人達はもうすっかり話さなくなっちゃったし、トップクラスに入る人のリストにだっていなかった。
同じ進路にいたのは、無難な人達だけれど、特に仲が良いってわけじゃない。
「瞳ちゃんと同じクラスになれたらいいな……」
そんな事を呟きながら、その日、わたしは眠りについた。
そして、二〇〇四年四月六日。
入学式。
あの春休みからあっという間に時は過ぎ、高校生活が始まった。
緊張しながら見つめたクラス表。わたしの名前──百合野佳奈のすぐ上には、夢咲瞳の名前があった。
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