第2話 獣人クロウ

男に手を引かれ、リコリスは夜の森を歩いていく。


獣人である彼は自然に慣れているのだろうか、

足元も見えない薄闇の中を迷うことなく進む。


しかし研究室に閉じこもる毎日を過ごしていたリコリスは、踏み固められていない地面というだけで緊張する。


根に足を取られそうになったり、

小石に躓いたり……


そのたびに小さく声をあげていた。


「ついてこい、離れるなよ。」


男が低い声で言うが、表情は暗くて見えない。

その言葉に頷きながらも、

リコリスは胸に広がる不安を抑えられなかった。


「あのっ…すみません……」


「何だ?」


「まだ、お名前を聞いてません…」


「クロウ。」


「クロウさんですね、どうして私の事知っていたのですか…?」


「……静かにしろ。」


突然クロウがピタリと足を止めた。

リコリスも慌てて踏みとどまった。


「えっと……ごめんなさい。」


変な事聞いちゃったかな…?

怒って見捨てられちゃったらどうしよう……


リコリスの心配をよそにクロウは無言を貫く。

ただ耳をピクリと動かし、森の奥に視線を向けた。


 ――グルルル……


低く湿った唸り声が、木々の隙間から響いてくる。


「魔物だ。」


クロウの言葉に、リコリスの背筋が一気に冷えた。


研究所の本で読んだだけの存在。

凶暴で、人も亜人も等しく捕食する怪物。

その魔物が今ここにいる…?


やがて木々の間を押し分けるようにして、

巨大な影が姿を現した。


赤黒い毛並みと鋭い牙。血を思わせる赤い目。

まるで凶暴な狼を巨大化させたような姿だが、

その体表からは瘴気が立ち昇っている。


「逃げるぞ。」


クロウは冷静にリコリスの手を強く引いた。

二人は暗い森を駆け出す。


だが、魔物の脚力は想像以上だった。

地響きのような勢いで距離を詰めてくる。


リコリスは必死に走る。しかし…


「はぁ……っ、もう、むり……っ」


胸が苦しい。脚が重く、頭がクラクラする。

運動不足のせいか体力があまりになかったのだ。


「くそっ…これだから人間は…」


そんなリコリスを見てクロウが舌打ちする。


「しかたねぇなぁ、下がってろ!」


クロウはリコリスの腕を引っ張り、

太い木の陰へ突き飛ばすように押しやった。

そのまま身を翻し、魔物の前に立ちはだかった。


魔獣が咆哮し、猛然と突進してくる。


クロウはわずかに身をずらし、横から蹴りを叩き込む。

魔物の腹にめり込んだ蹴りは強烈で、体が大きく揺れた。


だが、魔物は倒れずすぐに振り向き、鋭い爪を振り下ろす。


クロウは後ろへ跳んで避ける。

木の幹が爪でえぐられ、木の皮が飛び散った。


リコリスはその光景を見つめることしかできない。


私はなんて無力なんだろう……

あの日の悔しさが胸に刺さる。


もし自分に力があったなら、

同僚達を、ネロリを助けられたのかな……


魔物が大きく跳び上がりクロウへ襲いかかった。

クロウは拳で迎え撃つが体格差は圧倒的だった。

勢いのままクロウは弾き飛ばされ、

背後の木へ激突する。


「クロウさん!!」


リコリスが叫ぶ。

クロウの身体がぐらりと揺れ、

そのまま地面に崩れ落ちた。


「や、やめて……!」


クロウを助けに行きたいのに、脚が震えて動けない。

仮に、彼に駆け寄れたところで何もできない。


……リコリスに出来ることはない。


赤い目が、獲物を見る獣の光を帯びている。


ああ、終わりだ……


魔物は低く咆哮しながら、ゆっくりと近づいてくる。


ーーその瞬間だった。


胸の奥で、何かが燃えるように脈打った。


熱い。


痛いほど熱い何かが、体中を駆け抜ける。

視界が一瞬、白く染まった。


これは──あの研究所で浴びた薬物の影響?

それとも、自分でも知らなかった何か?


リコリスは息を呑んだ。


掌の先から、淡い光があふれ出していた。

魔獣が唸り声をあげる。光に怯えている……?


「……やめて……来ないで……!」


震える声とともに、魔物に向かって手をかざす。

すると、光が一気に強まり辺りを包みこんだ。


次の瞬間、魔物の悲鳴が森に響いた。

風が巻き起こり、木の葉が舞う。


光が収まると、魔物が崩れ落ちた姿が見えた。

その上ではクロウが魔物の脳天にトドメを刺していた。


静寂が森を包むーー


「……わ、たし……今……何を……?」


力が抜け、リコリスはその場に膝をついた。


「クロウさん…クロウさん!!大丈夫でしたか……?」


「……ああ……なんとかな」


ふたりとも生きている。その事実にリコリスは涙が滲んだ。


「お前…今の……?」


「なんだったのでしょうか……勝手に体が……」


クロウはリコリスをじっと見た。


リコリス自身も、自分が何をしたのか分からない。


ただ一つ確かなのは…


自分の中に、未知の“力”が芽生えているということだった。

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