勇者戦争恋記−焼け跡から続く旅路

符津倉 潘子 

第1話 焼けた研究所

リコリスは汚れた白衣をぎゅっと握りしめ、

震える足で瓦礫の中を歩いていた。


後ろで束ねていた黒髪はほどけ、

頬には灰がこびりついている。

体型を隠すために好んで着ていた白衣も破れ、

研究者としての威厳など欠片も残っていなかった。


壊れた機械、燃えた建物、同僚たちの遺体……

その光景が脳に焼きついたあの光景を呼び起こす。


悲鳴と爆音。突然現れた、たったひとりの男。

魔王軍幹部、闇騎士に全てを破壊し尽くされた。


そして……

いちばん心残りなのは獣人の少女ネロリだ。


『やだ……いやだ……助けて……』


記憶の中のネロリは、怯えて小さく震えていた。

あの日は獣人化薬の副作用の実験をしていた。


薬の投与中で、分量の制御ができていなかった。

彼女はどこにいるのか、

生きているのかさえ分からない。


「どうして……私は…ごめんなさい……」


誰にも届かない小さな声が漏れた。


そのとき…


「やっと見つけた。」


背後から低く冷たい声が響く。


リコリスは反射的に肩を震わせ、

ゆっくりと振り返る。


そこに立っていたのは…獣人族の男だろうか。

真っ黒な髪の男。

頭上では獣の耳がぴくりと動いている。

鈍い金色の瞳は鋭く、

まるで目の前の女を“獲物”として見据えていた。

 

「あ…あなたは……?」


獣人族はネロリちゃんを除き、

みんな滅んでしまったはず……

だとしたら…魔王軍の人…?


リコリスは喉の奥がひきつり、

まともに言葉も出ない。


男は一歩、また一歩と近づいてくる。


「お……お願い……殺さないで……何でもするから!」


リコリスの目からは自然と涙が溢れ、

情けないほど弱々しく命乞いをしていた。


イヤだ、怖い。助けて、死にたくない。


リコリスの頭はぐちゃぐちゃになっていた。


男の口元から鋭い牙がわずかに覗いている。

彼は私とは違う種族、話が通じる保証はない。


「ネロリに使った薬はどこだ。」


「あ、あの薬は……もうありません!

設備は全部壊れちゃったし、材料だって……!」


必死に訴えるが、男の冷たい反応は変わらない。

ゆっくりと手を伸ばし…

リコリスの首に触れようとする。


駄目だ…私、ここで殺されちゃうんだ……


リコリスは目をぎゅっと閉じ、歯を食いしばった。

ネロリの顔が浮かぶ。罪悪感に潰されそうになる。


ごめんね……


と心の中で呟いた。


だが、予想していた痛みは訪れなかった。


「……ならもう一度作れ。」


リコリスは驚いて目を開けた。


「え……?で、でもざ、材料が……」


「お前は薬を作れる。材料なら集めればいい。」


「で、でも……!」


「従わないなら殺す。」


男はリコリスの手首を掴んだ。

その手は力強く逃げようとしてもびくともしない。

だが、殺意は……感じなかった。


「出発は明日の朝だ。それまでに必要な物をまとめておけ。」


男は焼けた研究所の残骸を見て言い放つ。


「まとめるも何も…ここには何も残ってません……」


「それもそうだな、なら出発するか。」

 

男は冷淡に言い放つ。

リコリスがどう思うかなど関係ないという態度だった。


そのまま腕を引かれ歩き始める。


研究所跡地から離れるにつれ、空気は澄んでいく。

しかしリコリスの胸の中はざわめきで満ちていた。


つ、連れて行かれる……どうなるんだろう……


怖い。


だけど、

ほんのわずかに“救われた”気持ちもあった。


生き残ってしまった時、

どう生きていいか分からなかった。


だが男に手を掴まれた瞬間、

それが恐怖であれ、強制であれ

「生きろ」と言われたような気がした。


そして、彼の旅に巻き込まれることが、

自分の罪を償う唯一の道なのかもしれないとも思った。


歩き出した二人の影は、夕日に長く伸びる。

その先に何が待つのか、リコリスには分からない。

答えなんて分からないまま、

リコリスはただ引かれるように、

焼け跡に背を向けた。


こうして、研究者と獣人族の男――

絶対に相容れないはずの二人の旅が始まる。

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