第14話 日本の事物誌

 イギリスを発つ前、キャンベルは友人知人や書物を通して日本に関して可能な限りの予備知識を涵養していたが、実際、日本に来て自分の目で確かめ、また体験してみると、日本の謎はより深まり、興味は尽きなかった。マクヴェインの紹介で日本人識者と短期間話す機会はあったが、彼らから明確な答えは得られなかった。とにかく、手書き日誌にそのつど疑問点をメモし、帰国後、関連文献を参照しながら考察ノートをまとめ、書籍版に挿入した。しかし、それぞれ興味深い内容であるが、考察の精緻さに一貫性がなく、また雑多に配置されており、ここでは主要なものだけを簡潔に紹介する。


地質地形と気象の特徴

 1874年12月18日に松井田で、キャンベルは西北方向の浅間山方向から時計回りに関東平野全体を見渡し、この地方の地形を次のように述べた。


「この国の一般的な地形は、川による浸食によるもので、その結果、幻想的な針状岩、峰、山脈ができ、そのうちのいくつかは谷から2000フィート(600メートル)近くも高くなっている。雪が溝になっている遠くの山脈に沿って北東を見ると、その地質構造は、川で見つかった古い地層の傾斜と走向と一致しているように見えた。山脈は北東に走向し、北西に傾斜しているようだ。この大きな火山(浅間山)はおそらく断層上にあり、男体山や富士山とともに連なっている。」(77)


 本州は大きな地層の隆起から誕生し、その後長い年月をかけて降雨によって谷や川ができ、その浸食作用によって現在の姿になり、さらに、地下深くに多くの断層が走っているため、火山がそれに沿って立地していると考えた。中山道沿いのどこにも氷河と氷河の痕跡は発見できず、日本には氷河期はなかったと結論づけた。後述するように、『私の周遊記』第2巻後半の「極地氷河の時代」と題する部分において、第12章で太平洋の気象、第13章で日本の地質地形、第20章で断層と火山、第34章で地震についてより詳しく論考している。


細工文様

 1874年12月29日、キャンベルは中山道の本山宿に滞在した際、ある店先ですばらしい茶瓶置きteapot restを見つけた。今日は彼自身の53回目の誕生日なので、その記念品として購入することにした。理由はこの編み目文様がケルトのそれとよく似ていたからで、書籍版のこの日の頁に次のような考察を付け加えている。


「芸術的デザインの共通性は、人類の諸民族に共通の起源がある証拠として広く認められている。西洋の墓石や古代の写本には「ケルト美術Celtic art」や「古代北欧の結び目Runic knots」と呼ばれる絡み合った文様が施されている。こうしたデザインはアイスランドの彫刻、特定の希少な陶器、ビザンチン教会、ペルシャの青銅器にも見られる。これら全てのデザインは籠細工を連想させる。日本では、この種の籠細工模様を竹や均一な太さの丈夫な長い繊維で編んだ例を発見した。この見本では、籐椅子の細工のように、長い蔓を裂いて円形に編み上げている。この輪の七箇所で、二重の線に二重に巻きつけることで、繊維が絡み合った開いた籠細工模様を形成している。二本の巻きひげが七つの二重ループを作り、中央に七角形を形成。端部は重なり合う。これは日本のやかん置きKettle restだが、その文様はケルズの書Book of Kellsなどアイルランドの装飾写本の文様と一致する。私はこの文様を銀で複写した。

 物事の性質上、この種の木工編みは長い繊維が豊富に生育し、桶や杯のような既製の容器が生育しない地域で始まった可能性が高い。ココナッツ、ひょうたん、大型の貝殻といった既製の道具類は北方では生育しないが、カバノキの根、ツタ、スイカズラなど籠細工に適した長い繊維はそこで生育する。熱帯地域にはあらゆる種類の蔓植物が豊富に存在するが、籠細工は北方が最も優れている。私は全く同じ文様が、スウェーデン北部のサーミ族によって樹木の根で編まれた網袋に、またマン島のケルト人によって編まれた網袋に用いられているのを目にした。」(78)

図55. 「紙が貼られた竹骨組のデザイン」の拓本、Manuscript.p.131.


 このやかん置きを銀で複写したとあり、手書き日誌の12月29日の頁にその拓本(図55)が挿入されている。この拓本のやり方は不明であるが、数日後、中津川あたりでシダの葉っぱも複写した。ところで、説明書きにはこの拓本が「紙が貼られた竹の骨組み」とあるが、これはやかん置きではなく、余りにも粗い編み方で、ケルズの書などアイルランドの装飾写本の文様と比較しにくい。とにかくは、キャンベルは「籠細工や籠に由来する工芸における意匠の共通性」を発見し、それは「ケルト人と日本人の起源の共通性を示すのか、あるいは人類に共通する本質が、同じ過程を経て独自に同じ発明に到達したことを示すのか」と逡巡し、まったく決断はできなかった。


神話

 キャンベルは、1860年に『西ハイランドの民話集』をまとめる際、世界各地の民話神話との比較に関心を持つようになり、特に日本とセイロンのそれに関しては友人知人や書籍から情報を集めた。また、来日後は、マクヴェインを通して東京在住の日本人識者たちと対談する機会を持った。しかしながら、涵養した予備知識はあまりにも表面的で断片的過ぎて、実際にフィールドワークに出かけるとほとんど役に立たなかった。さらに、旅の途中で疑問に思うことがあれば、通訳を通して現地の古老や僧侶などとも問答を重ねたが、腑に落ちるような回答は得られなかった。その理由を、キャンベルは日本が今まさに西洋化を突き進んでおり、日本人が過去の神話・民話に興味をなくしているのは無理からぬことだと想像した。

 そうはいっても、マサナオを通して下諏訪で龍の口や八岐大蛇退治の絵馬を発見し、マサナオから素戔嗚尊による大蛇退治の話しを聞いたことは大きな収穫であった。この話しはキリスト教の聖ジョージ神話(79)とのよく似ていることに大変驚いた。さらに、最後の目的地であったセイロンでも大蛇神話に出くわし、それが『リグ・ヴェーダ』の中のヴィリトラ(アヒ)の物語に由来することを知った。そして、旅行中、なぜこれらの地域にドラゴン(大蛇)に関する昔話が定着したのかという疑問が頭を離れず、帰国後、地球儀を眺めながら思いを巡らせた。


「読者が学校の地球儀を見て、スコットランドのバラ岬からセイロンのゴールまで、そして極東の日本まで糸で測ると、これらの地点を結ぶ線が正三角形の形になるであろう(図56)。そのほぼ中間に位置するのが、中央アジアの「アーリア人」と「ツラン人」の国であり、「ロブ」湖、韃靼、トルキスタン、チベットなどである。西ハイランド地方の民話を集めているうちに、このドラゴンの物語に多くのバージョンがあることが分かった。次の段階は、私が知っているすべての言語で、利用可能なすべての翻訳で、この伝説のすべてのバージョンを読むことだった。」(80)p.327


 前述したように、1863年に出版した『西ハイランドの民話集』の中で、キャンベルは中央アジアに起源をもつインド・アーリア語の神話が各地に広まり、それらがヘブリディーズと日本とセイロンで行き止まりになったのではないかという仮説を立てていた。その後、1872年に建築史学者のジェームス・ファーガソンは『樹木と大蛇の神話Tree and Serpent Worship, or Illustrations of Mythology and Art in India, (1868)』(81)の中で、インド南部からセイロンにかけて大蛇信仰が色濃く残っていると記していたので、それをキャンベルは1875年4月に現地で確認した。そして、日本では八岐大蛇や妙見の話しに出くわし、そして、ドラゴン神話の特徴を次のように整理した。

図56. キャンベルが考えるドラゴン神話の三角形, Google.map.


「1. 赤い目をしたドラゴンが雨雲の中にいて、そして、再び海の水煙の中から荒々しい水龍として登場する。

2. 私は八岐大蛇の尻尾に、ゲール民話における「光の白色刀」を見つけた。これは日本を照らすことになった。

3. 西ハイランドの巨人と魔法使いの特質を持つ、お守りのリューグleug(宝石)を見つけた。それはさまざまな形態を持っている。

4. 私が知るドラゴン神話では、勇者はいつも多頭の民を打ち負かし、彼らから覗き眼鏡を奪う。この特質は日本の海の蛇女である弁天に与えられている。彼女は太陽なのだろうか。

5. ドラゴンを征服する人間の力の中に酔わせる酒がここにあった。ここでは日本酒だった。ノルウェーではエールであり、聖ジョージの物語ではワインに浸した樹脂である。ヴェーダ讃歌の多くは「ソーマ」ジュースに捧げられている。

6. 日本人の敵は7つの頭を持つ神として崇拝されている。ここではそれは8つの頭と一本の尻尾を持つ。」(81)p.329.


 科学者としてキャンベルは、「ドラゴンのような多頭身の生物は、あらゆる自然史や地質学の記録を見てもこの世には存在しないが、それはある崇高な力を持つものを表現するために現実的モデル」として創造されたと考えた。


「その何かとは川である。ユーラシア大陸の水の分枝については古い時代から神話があった。山では(降った雨水が平野を)蛇のように枝分かれてして流れ、そして海に流れ込む。それらはすべて雲からやってくる。水龍の姿を、多くの頭を持つ蛇行した川の姿になぞなえることは妥当なことだ。」(82)p.332.


 八岐大蛇退治のような神道に関係する神話以外、キャンベルが興味を持っていたのは、軽井沢の三面地蔵、身延山の七面大明神、三井寺の妙見伝説などのヒンドゥ・仏教に関わる神話であった。彼はマックス・ミューラーやジェームス・ファーガソンから古代インドの神話についてある程度は知っていたが、日本に伝わった仏教に関してはほとんど知識をもっていなかったようだ。ちょうどキャンベルが離日する頃から、日本アジア協会機関誌やジャパン・ウィークリー・メール誌などが日本の歴史文化に関する記事を積極的に取り上げるようになっていた。帰国後、キャンベルはそれらを熟読し、特に後者の週刊誌におけるチャールズ・フォンデス(Charles James William Pfoundes, 1840-1907)(83)による「扶桑耳袋」を日本仏教理解の参考にした。彼は身延山の信仰と軽い座の三面石像について、仏教神話に関する記事は1875年4月24日号としているが、正しくは同年4月10日号である。


「摩利支点は、老若を問わず、書き方、読み方、踊り、歌、または職業を学ぶすべての人々の偉大な守護神である。この偶像の一般的な形は、疾走する猪の背中に立っている人物である。6本の腕と3つの顔がある。猪は12星座の最後の星座であり、最初の星座である子(ネ)の前にあるため、繰り返して「始まりの前」を意味する。つまり、3つの顔と表情はあらゆる方向に向いていることになる。6つの手は、すべての作業における器用さを表す。猪の日、すなわち亥の日は彼を称えて祝われる日である。」(84)297-298


 三面六臂の摩利支天は猪の上に乗るはずなので、軽井沢の三面地蔵は馬頭観音であり、上記考察は、キャンベルが下諏訪で見た摩利支天のことなのかもしれない。数多くの社寺を見てきて、その立地が周囲より少し高く、木立に囲まれているので、日本の人々はまず「大樹と高い場所を信仰対象」にしたのであろうと考えた。日蓮宗の身延山は七面大明神(七つの頭を持つ龍)を祀っているので、南アジアのシェシャ・ナーガSheshanaaga(難陀龍王)との関係を推測するようになった。しかし、これらに明確な答えは見つからず、「すべてを教えることのできる師を欠くこの学問で、他の学者に助言してもらうために、いつの日か私が学んだ教訓を繰り返すことになるだろう」と結んでいる。


製粉機(水車小屋)

 キャンベルは今回の世界一周の旅以前に、ロシア西部を含むヨーロッパ大陸全域、アイルランド、アイスランドを旅しており、「いたるところで石器が見つかっているのは、世界の大部分で石器を使う人々が居住してきたことの証明」であり、彼らは「知性を持つ生物なので、応用できる特別な機械的原理」を用いて、硬い殻を持つ穀物や果実類を割るなり、砕くなりして食してきたと考えていた。実際、アメリカ・インディアンの女性はドングリを小石で割って、さらに乳鉢と乳棒で粉砕しドングリ粉を作っており、また、ジャワでは女性たちが長くて重い棒で臼の中の米を叩いて脱穀精米しているのを見てきた。

 ところが日本では、そのような単純な乳鉢と乳棒ではなく、大きな臼に大きな杵を用意し、屈強な男が杵を高く持ち上げ、それを穀物の入った臼めがけて決まったリズムで落として脱穀精米していた。さらに、信濃路で「少年が梃子の原理を応用し、長い柄を支点の上に架け、片端に自分の体重を乗せ、向こう端に取り付けられた大きな杵を持ち上げていた。彼がその踏み台から降りると、杵は穀物が入った大きな穴に落ちる」光景を見て、その技術的工夫に感心した。さらに、望月では人力に代わり水の重量を利用した梃子式製粉機(ししおどし)を発見し、感心しながらその姿をスケッチした。これはししおどしを少し大きくしたやりかたで、「私は他のどこでもこのような装置を見たことがないので、これは工学における固有の発明」であると賞賛した。

これらの梃子式以外に、信濃路から木曽路にかけて多くの水車式製粉機を見つけ、キャンベルを最も驚かせたのは回転式の臼(ひき臼)であった。これは杵をたたき落とすのではなく、二個の臼車を上下に重ね、上の臼車だけを回転させ、その隙間から粉が出てくる仕組みであり、キャンベルはフェロー諸島とスコットランドでこのようなものが使われているのを見たことがあった。そして、帰国後、キャンベルは世界旅行の途中で見つけたさまざまな脱穀製粉方法を、技術発展の視点から一枚のイメージにまとめた(図57)。

図57. 脱穀製粉方法の発展イメージ。M.p.122.


 第1段階は、人が石のくぼみに穀物を置き、石で叩きつぶし、第2段階では、屈強な男が臼めがけて杵を落とし、第3段階は、前段階の方法を、梃子棒の片方に体重を乗せて行い、第4段階は前段階の方法をししおどしの原理を使って行い、そして第5段階は、水車の動力で石臼を回転させて行う。このような発展が起こったのは、技術が伝播したというより、各地で「健康的な身体と正常に機能する脳というエンジンを持つエンジニアたちがたゆまぬ努力によって粗野な石臼や石槌を発展させてきたことを示しているようだ。人間は「トライ」と「キャン・ドゥ」という哲学によって実用的な機械技術を向上させてきた」と、キャンベルは考えた。


美術工芸品

 キャンベルは、イギリスで日本美術工芸品に関する予備知識を持ってやってきたが、それは実際のものとは多少異なっていた。その大きな原因は、キャンベルが東京や京都などの大都市以外に、日光街道と中山道沿いの地方都市や宿場町で見聞を広げたためであろう。興味深い内容なので全文紹介する。


「私は今でも美術品を探し続けており、この私の知識と経験はこれから購入しようという人たちに役立つかもしれない。イギリスには日本製といわれる多数のキャビネットが存在している。日本政府からイギリス王室に贈られたものは、宮殿に所蔵されているからだ。また、船員や商人が持ち帰り、その子孫の家に所蔵されているものもある。古い書物にそのようなものの写真が載っていたので、これらはすべて本物の日本の古い家具なのかもしれない。しかし、私は日本の家々でそのような家具を実際に見たことがないので、これらのほとんどは輸出用に作られたのではないかと思う。

 なぜなら、日本の家屋でそのような家具を見たことがないからだ。また、反対にイギリスでまったく見たことがなかったものがあり、それは木や陶器や真鍮や青銅で作られ、火を保持するための器具である。それを家の中や、縁側に置いたりし、人々はその周りに座って指先を温め、また、小さなパイプに火をつけたりしながら、寒い季節には朝から晩まで、会話をしたり、書き物をしたり、仕事をしたり、ゆっくりと過ごす。この火鉢Shibashiは日本で最も一般的な家具だが、イギリスでは見たことがない。この火鉢fire-boxの装飾には多くの優れた芸術が費やされている。

 食事で磁器の皿や食器を見かけることはほとんどない。魚や食べ物は、たいていそのような皿に載せて売られ、その多くは美しい。甘い肉、砂糖漬けのプラムやドライフルーツは磁器に盛られることもあるが、ごくまれだ。私のところに来た食器はいつも漆器だった。カップやボウル、飯盒の土台は木で、見事に旋盤加工されている。漆は刷毛で塗られ、多くの場合、金や色で鳥、亀、鶴、鷹などの図柄が描かれている。ニスは熱に耐えるので、スープなどは蓋つきの漆のカップに盛られる。魚は漆の盆に盛られ、米は蓋つきの箱に盛られる。

 肉はそれを調理した鉄の器に盛られる。各客は漆塗りかニス塗りの木の小さな盆テーブルを持ち、高さ3インチほどの脚の上に、新しい箸を添えて夕食を並べる。ナイフは出てこない。スプーンは非常に珍しいので、私は自分で使うために磁器のものを買った。漆のカップでスープを飲むのが流儀だが、これは熱伝導率が悪く、唇を火傷することもない。ある地方では、竹の板に貝殻をきれいに鋲で留めたものが料理用のスプーンである。

 日本では椅子、スツール、ベッドのようなものは見かけなかった。読書や書き物をするための脚の短い机には、かなりの芸術が捧げられている。硯、ペン置き、紙を入れる箱は贅沢品である。私は日本から持ち出したものを見たことはなかったが、現地では多くのものを見た。基本は木と漆である。

 大名の食事用品もまた、現在広く売られている品物である。漆塗りの箱に盆と棚があり、磁器製の徳利が置かれている。日本酒は熱湯で温め、小さな磁器のコップで飲む。このような箱は日本以外では見たことがない。飾り箱は無地のケースに入れられ、全体が竿に吊るされる。流行したのは、丘や滝や、その他の田舎の美しい場所に行き、そこで食べ、飲み、煙草を吸い、詩を書くことだった。各大名には絵描きがいて、その従者や家来が装身具を飾った。特にノリモン(籠)は壮麗な乗り物で、偉い人たちが乗っていた。

 漆は木から抽出される物質である。日本の北部に生育し、樹液は調製されて全国に送られる。柔らかいうちは猛毒である。多くの人はその匂いに耐えられないし、苦しまずに作業場を通り過ぎることもできない。樹液を固めるには、かなりの熟練を要する。固まった樹液は防水性があり、完全に無害である。私は英国製の箱の内側と外側にラッカーを塗った。木、金属、皮革、紙、布地は簡単に漆を塗ることができる。

 武器や鎧には惜しみなく芸術が注ぎ込まれ、大事な装飾品だった。剣の刃には高価な値段がつけられている。有名な刀鍛冶の刻印が入ったものは珍重され、高い値段がつけられた。柄は金で飾られ、鉄の鐔には、武具職人が知っているあらゆる金属や合金がはめ込まれている。私が見た日本美術の最高の見本は、武器や鎧に施されたものだった。

 木の彫刻は素晴らしい。もちろん、最も優れているのは寺院のそれだが、どんな立派な家にも木彫りの装飾がある。一般的な装飾のひとつは、部屋の障子紙の壁の上に置かれた堅い木の板(欄間飾り)で、光が内側から、暗闇が外側から絵を描くように切り抜かれている。影地に白で描かれた絵か、茶色の板に黒い線で描かれた絵のどちらかである。富士山と雲、滝と紅葉、荒れた海と丘などがよく描かれる。これらの絵が売られているのを見たことがないので、実際、これらは家の一部なのであろう。

 角、骨、木、象牙の小さな彫刻、桃の石、桜の石(根付け)は、芸術家たちの技術とセンスを示している。私は、腰の布に通してパイプや財布、バシ-バッグを支える小さなボタンのコレクションを集めたが、これらは現代婦人や古代の家政婦のシャトレーヌのように、すべての日本人の腰からぶら下がっている。これらのボタンの多くは、豊かな意味、想像力、思想を表現した本物の芸術品である。例えば、雄鹿の角の根元には死者の頭が彫られ、その顎から蓮が生えている。これは仏教の復活の紋章である。

 ブロンズの花瓶は日本人の家で見たことはない。横浜の店にはたくさんあったが、最近のものだ。持ち手は花瓶を持ち上げるのではなく、青銅の釘にぶら下がっている。私が見た青銅器はすべて、寺や神社で使われているものだった。それらは独特のスタイルを持っており、取っ手もそれらに属している。これらはセットになっていて、儀式に使われる。ひとつは花を挿すためのもの、もうひとつは線香を燃やすためのもの、そしてもうひとつは明かりを灯すためのものである。仏教が廃れたためか、この模様の小さな祭壇用ブロンズが大量に売りに出されていた。私は持ち運びができ、気に入ったものを買った。現代の青銅品もすばらしい芸術品であり、日本的であるが、しかしつい最近作られたものである。

 大きな陶器の壺が大量に作られ、条約港で売られている。国内で使われているものを見た記憶はない。

 男性も女性も装飾品を身につけることはない。私が見た中で、装飾品にふさわしい金細工は、サンザシmayflowerの花の小枝の形をしたペン立てで、金の上に珊瑚のつまみが付いているものだけだった。女性たちは皆、珊瑚のついた櫛とヘアピンをいくつかつけている。あるクラスの女性は、亀の甲羅のピンの束を看板の太陽の光のように突き出してつけている。日本の太陽は女性である。

 日本製のアクセサリーは私の目に触れることはなかった。彼らは外国市場向けにロッククリスタルの装飾品を作っている。私の金のペン立てを作った芸術家たちや、ブロンズ像や金属象嵌を作る芸術家たちは、美しい作品を作ることができる。

 絵は独特だ。そのほとんどは長い巻物で、部屋の上部の神聖なコーナー(床の間)に吊るされている。画家たちは、思いついたものを自由にスケッチしたようだ。富士山を半ダースの筆で表現したり、雲をお決まりの曲線で表現したり、龍を蛇のようなタッチで表現したり、雲で始まり、派手なタッチで終わったり。これらの作品には一般的に画家の印章が押され、署名と日付が記されている。ローラーの先端には象牙が使われることも多い。ロールはきちんとした箱に入れられ、絵を見せる時間が来るまでそこに置かれる。他には長いロールもあり、壁に飾ることはできない。床に置かなければならない。鳥を表現したものもあり、非常に「よく描かれている」。私は狩野で鷹の連作を手に入れたが、これは鷹狩りの専門家による芸術作品だ。たくさんの巻物絵を見せてもらったが、中にはとても古いものもあった。絵の代わりに、詩人の引用句やその他の銘文を巻物にして部屋に飾るのが一般的である。戯画の下や横に引用句が書かれているものもある。私が見た中で最高の絵は、良い茶店の襖に貼られていた。寺院の装飾や小さな神社の装飾は、主に大きさや素晴らしさ、年代によって異なる。その様式は同じである。

 私が見た日本の装飾美術の中で、最も印象的だったのは、作品のしっかりとしたタッチと正確さ、そしてそのすべてを貫く楽しさと生命感、表現力だった。楽しさは人々の天才的な表現である。生き生きとした表情は、彼らの芸術的技量を証明している。彼らはいつも笑っていて、冗談を言ったりする。手の正確さは、おそらく文字を書くことの難しさからくるものだろう。子供の頃から、複雑な字を書くには筆を使うことを教わる。間違いがあってはならない。漢字のすべてのタッチ、点、尾、濃淡には意味がある。だから子どもは正確に描くし、人は一生描き続ける。だから、ある芸術家が鳥や葉や花を模倣しようとするとき、彼は何度でもそのデザインを繰り返すことができる。これも一種の筆記である。この習慣は、他のあらゆる種類のデザインにも及ぶ。

 皿を描く人、木を彫る人、鋳物のモデルをする人、金属を扱う人、みんな自分の手が複雑な形で自分の考えを表現するように教えられているので、針と糸を使ってでも芸術的に表現する。日本初の油絵は、私がこの国にいたときに描かれた。これらの芸術家たちが自分たちの発明を守りさえすれば、いつの時代にも新しい優れた芸術の流派を築くことができるだろう。

 日本古来の美術に外国の影響が見られるかどうかは、私が得た知識以上のものを必要とする問題である。日光には確かにヨーロッパ美術の見本がある。ギリシアの鍵の装飾は、日本の多くの青銅器に見られる。多くの古い形はエトルリアの形と関連しているが、より中国美術に近い。国民全体が数年のうちに新しい思想を取り入れ、採用するような場合、ひとつの外国のものがいつの時代にも国の美術に影響を与えるかもしれない。

 今、外国の影響が奇妙な形で働いている。ひび割れた古いドイツ製の皿が、大金に値する貴重な骨董品として私のところに運ばれてきた。非常に精巧な象嵌細工が、イギリスらしい醜悪な洗面器のライン上に形作られている。下諏訪では、暗い店内にきらびやかな模様が目に留まった。中に入ってみると、一巻きの布の端に、布職人の会社の名前が金の糸で細工されていた。ほどなくして、これと同じような縁飾りを紋付袴につけている人夫を見かけた。聞いてみると、この装飾は流行になっており、ヘドルズ・トレドルズ社(Messrs.Heddles, Treddles, and Co.)が日本市場向けに、端に金糸で有名な名前を入れた布を製造し、そのかわいらしさによって多くの利益を上げているとのことだった。今、外国のものを何でも取り入れる人は、その芸術の一部を昔外国から学んだのかもしれない。しかし、日本美術には、旧世界の対極に住む人々の共通の起源を示すもうひとつの手がかりがある。日本美術の一部には、エトルリアの要素のようなものが確かにある。

 日本人は、形だけでなく色彩を見る目を持っている。磁器に描かれた絵がそれを証明している。ダマスク織りのシルクは美しく、刺繍は色彩の調和という点で、中国よりも優れている。長い一日の買い物を終え、ぶらぶらと美術品を眺めながら、私は加納でそう思った。」(85)


 キャンベルは来日する前、ロンドンの王室や主要博物館が所有する数多くの日本美術工芸品を見ており、また周りには多くの日本美術工芸愛好者がいた。再従弟のアーガイル公キャンベルはもちろん、名前は出ていないが王立芸術協会やアティナニウム・クラブの友人たちであろう。キャンベルは、イギリスにもたらされた美術工芸品と、実際日本人が愛好する美術品と常用する工芸品とでは、材質とデザインが異なることに気づき、海外にもたられたものの多くは輸出用に作られたものではないかと想像した。イギリスで日本製キャビネットとしてよく知られている物には脚が付き、いくつかの小さな飾り棚を持つ華奢な作りであったが、そのようなものはキャンベルは日本人の家屋の中で見たことがなかったといっているのである。そもそも、日本の家具の代表である箪笥は何かを隠し仕舞う道具であり、室内の装飾装置の一つである西洋のキャビネットとは異なっていた。

 その代わりにキャンベルが日本で最もよく目にしたものは火鉢で、初めて目にしてその実用性と芸術性を高く評価している。それは人が冬に手を温めだけでなく、一年を通してその周りでお茶を飲み、煙草を吸う場所装置でもあり、日本人の生活習慣に結びついたものだった。特に、冬の中山道を旅したキャンベルは至る所で目にすることになった。この火鉢には趣向を凝らした装飾が施されており、キャンベル以前にそれに興味を持った西洋人がいたとしても、西洋ではまったく実用性がない重量物を日本から持って帰ることはしなかったのであろう。

 書、絵画、彫刻、象嵌などの日本の美術工芸品を美的にも技術的にも高く評価しており、手書き日誌の購入リストから分かるだけでも数百点持ち帰った。東京の骨董品屋からもいくらかは購入したが、キャンベルが本当に気に入ったのは土地の名士の仲介で購入したもので、日光では仏寺から、また、加納と大津では旧藩士から売りに出された品々であった。1875年というのは、廃仏毀釈の機運が浸透し、また翌年の秩禄処分を控え、前代の支配階層が新時代を生き延びるために手持ちの価値ある物を売りに出した時期であった。キャンベルは、もっとお金を持ってきていれば、気に入った逸品をすべて購入し、イギリスに持ち帰り日本美術館を作ることだってできたであろうと述べている。

 日本人は新しい物好きで、特にこの時期は開港都市から外国製品が入り込むようになり、それらが安物の粗悪品であっても日本人はありがたく受け入れ始めていることに、キャンベルは無念さを感じた。


書籍

 キャンベルは、街頭で書籍が売ってあるとそれらに興味を示し、マサナオの説明と挿絵からその内容を判断して購入し持ち帰った。そして、前述したように、これらの書籍を翻訳させるために、マサナオをイギリスに連れて帰りたかった。しかし、それは叶わなかったので、マサナオにそれ相当のお金を渡し、日本の民話神話関連の書籍を集めて翻訳しいてロンドンに送ってくれるように頼んだ。


「日本を去る前に、人々を楽しませ、私をも楽しませてくれた書籍について一言述べておこう。古代の学問を誇りとする一国の文学を正当に評価するには、小さな一冊の本と多くの翻訳者、そして多くの研究が必要だろう。旅人にはそれはできない。私はただ、彷徨い、思い巡らす中で心に響いたことに触れることしかできない。店で鮭を買うのは面白くないが、ノルウェーの川で鮭を釣るのは実に楽しい。奇妙な知識も同様で、その真髄は困難を乗り越えて追い求める過程にある。私が去ってから日本アジア協会は多くの物語を刊行したが、誰も民話を真剣に扱っていない。これは私が収集を任せた従者との会話から知っていることだ。」(86)


 書籍の装丁について、日本の正式な文書は巻物で、右手で巻きを延ばして、右手から左手に読んでいき、これは「約200年前にスコットランドで結婚契約書が書かれた長い巻物に似ている」のに対して、一般に流布する書籍は片側がひもか糸で閉じられ、頁をぱらぱらとめくる装丁になっていると述べている。キャンベルはこの巻子装のものにあまり関心を示さず、後者の冊子装の中でトイ・ブックToy bookは大変気に入り、膨大に購入した。トイ・ブックとはいわるゆる地本のことであろう。


「私はたくさんのトイ・ブックを買って、従者と一緒に勉強した。日本人の生活が忠実に描かれている。例えば、私が日本で気づいた粉挽き機の発明の手順と、私が見ることのできなかった手順がすべて載っている。通常の荷車の車輪のように作られた一対の車輪が、バケツ(桶)を作るように板で接合されている。この原始的な水車の下部は水の中にあり、人は組んだ腕を2本の直立棒の間の横棒にかけ、あるいは棒で体を支え、灌漑用または家庭用にバケツの水をより高い水位まで上げるために、水車を上っていく。ここまで来たら、次は落下する水で車輪を逆回転させ、この踏み車での人力労働を節約することにした。これは、何事も最初は逆回転させ、最後には正回転させる日本の芸術の特徴である。大工は鉋(かんな)を手前に引き、鋸(のこぎり)の歯を手前に引いて木を切るが、他の大工がどのように作業しているかを知りたがり、斬新さに改善の道を見出せば、自分のやり方をより良いものに変えようとする。日本のあらゆる技術やエンジンがそうだ。彼らは挑戦し、そして成功する。

 日本の大きな町には、本屋や印刷屋がたくさんある。新しい版画が次々と発表され、国中に広まり、時代の息吹を伝えている。私が買ったのは、街道沿いの茶屋で流行っていた新たらしい欧亜混合風の版画セットだった。ギルレイの風刺画に近いもので、劇場の幕が男によって開け放され、彼の脚が舞台上に現れ、観客は不条理な災難に見舞われるというものだ。「リンゴ、オレンジ、ジンジャービール、ポーター、エール、サイダーのたぐい」のように、お茶を運んでくる男が転倒した。やかんにやけどを負わされた人が一場面、散乱した弁当箱の雨に打たれた人が一場面、笑った人が一場面。このシーンには、私がこれまで見たあらゆる中国美術よりも多くの表現がある。下品だが、非常に巧妙だ。ボートが橋の下を通り過ぎる。傘売りが荷を手すりに預けると、ボートのうねりは落ちてくる傘に槍で突かれる。ギルレイは、大掛かりな茶番劇ではこれ以上のことはしなかった。

 テーブル脇の椅子に座った制服姿の当時の若者たちが、炭酸水のペットボトルで悲嘆に暮れている。呆然と驚くティーガール。日本の古い世界と新しいBとSである。苦力がペール缶を落としてしまい、人力車の男が動揺して運賃を取られている。バターの滑り台を使ったパントマイムのトリックだが、セリフの端々に現代の日本が感じられる。赤ら顔の猿が脱走して電信柱に登り、絵は驚き呆れる風刺画でいっぱいだ。ベランダでケンカしている2匹の猫が矮小な植え木をひっくり返し、それが苦力の目の上に落ちている。この絵はそれ自身の物語を見事に語っている。鉄道駅付近での路上の喧嘩や、苦力の混乱はアクションと表現が素晴らしい。

 グロテスクなのだ。この本は、現在の首都の生活を、起こりうるあらゆる災難や不運を交えて、異常なまでのグロテスクさで戯画化している。不思議なのは、写真カメラ、馬車、馬、ヨーロッパの衣服が、昔の日本の風俗や習慣、衣装とごちゃ混ぜになっていることだ。すべて自然に忠実なのだ。あるページにはポロが描かれ、別のページには現地住民の裸が描かれている。それが現代的なテイストだ。ギルレイの精神が日本にあり、ドイツとフランスの風刺画によって修正されている。

 1875年1月に私の従者が京都で説明してくれた、別の種類の近代仏教書をもう一度見てみよう。それは「人間の一生」である。「誰でもこのようにすればうまくいく」。タイトルページは本の東の端にあり、ページの右側にある最初の行は上から下に向かって読む。日本の他のすべてのものと同様、読書は西洋の読書の逆であり、装丁はまったく対極的で独創的である。」(87)


 キャンベルが手に取ったのは江戸時代に出版された地本の類で、一般向けに書かれた技術書にはさまざまな工夫が紹介されていた。キャンベルは、中国から押す方式の鉋や鋸を導入しても、日本人はそれに手を加え、結局、引く方式に変えてしまったように、彼ら日本人は日々より良いものに変えようと努力・工夫することを指摘している。草双紙には悲喜劇や風刺などが巧みに描かれ、それは当時のイギリスの風刺画家の作品を越えるものだった。

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ドラゴンと氷河を探して、1874年キャンベルの日本旅行 @hideboo

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