第13話 京都、神戸、長崎

1月12日、京都

 翌朝、天候に恵まれ、京都の名勝を見ながら買い物をすることに決め、まず東方の丘陵地に向かった。


「快晴。買い物に出かける。東の丘の上まで700フィート(210メートル)歩いて登った。将軍が埋葬された将軍塚(Shogun’sga)から眺める京都は、とても興味深い。町は広い川沿いの平地にある。家々の高さはすべて同じで、屋根の色もすべてこげ茶色をしている。茶色の風景の中に無数の白い破風が点在し、遠ざかるにつれて小さくなり夕日に映えている。平野の三方は、高さ1000~2000フィート(約300〜600メートル)の山々に囲まれている。南西側の三方には桂川が霞んだ空気の中で輝いている。町外れにある数軒の大きな建物だけが町並みの高さ越えており、また、陶磁器工場から煙がたなびくのが見える。丘の上の寺院からは、劇場の太鼓、鐘、銅鑼の音、カラスの鳴き声、凧の鳴き声が、また、下の方から日本語の話し声が、さらに丘陵部からため息のような竹林や松林の間を吹く風音が聞こえてきた。

 私は1873年にフィレンツェとモスクワを訪れたことがあったが、このすばらしい京都の景色に匹敵するものは他には思い浮かばなかった。どちらかといえば、建築物のないフィレンツェにより似ているかもしれない。上り坂で通り過ぎた寺はとても立派だった。靴を脱いで中に入った。太陽の光が、ひざまずく男、女、子供の信徒と、一列目にひざまずく3、4人の僧侶のつるつるの頭を照らしていた。読書机の後ろでは、金色の扇子を手にした法衣姿の老僧侶が、舞台で俳優が使うような不思議なファルセットで説教をしていた。やがて僧侶は説教を終えると、金箔を貼った柱や漆や歯車が暗い背景に映える祭壇の前に退いた。

 お辞儀の位置が低かったのが、この儀式における大きな違いだった。それから彼は机に戻り、絹の表紙を広げて本を開き、2回目の説教を始めた。私は理解できなかったので、丘の上にある日本一大きな鐘のところへ行った。直径は9フィート4インチ(約2.8メートル)、縁の厚さは11インチ(27.5センチメートル)、高さは10フィート(約3メートル)あると思う。外側には奇妙な装飾が施され、内側は型から取り出した荒々しいものだ。ケンギ(Kengi)15年に鋳造された。夜になると、その轟音は壮大だった。下山後、茶畑を抜けて、梁に彫刻が施された壮大な木造の塔がある別の寺院に行き、日没とともに美しく清潔な宿屋に戻った。大阪の商人が歌のお姉さんを呼んできて、隣で琴を鳴らしている。女性の老商人が包丁を持ってやってきたので、私はたくさん買った。」(74)


 キャンベルは三条河原町から東方に向かい、祇園と八坂神社を越えて将軍塚に登ったらしく、その標高を実際のもの(216メートル)と非常に近い値を測定している。そこから京都市内を遠望すると、茶色の甍の間に白色の破風が点在し、まるで波間に小さな白波が立っているような印象を受け感嘆した。大きな鐘楼に立ち寄り、その鐘の大きさを記しているが、将軍塚の手前にある知恩院のそれと考えられる。マサナオが間違えて教えたらしく、実際の鋳造年は寛永13年(1636年)である。キャンベルは現在の円山公園を迂回し、法観寺の五重塔を見た後、祇園を通って宿屋に戻ってきたことがわかる。

 1月13日と14日も市内を買い物しながら市内を散策し、その夜、購入品のリスト(75)を手書き日誌に記している。15日の朝、正午発の蒸気船に乗るため、伏見まで5マイル(約8キロメートル)歩くことになった。大きな仏像のある寺院に入ったところ、猿回し芸人がいて、猿の芸があまりにも見事で時間を忘れて見入ってしまった。乗り場に着くと、船は11時に出発してしまい、しかたなく船を借り切って川を下り、夜の10時頃に大阪に着いた。フランスホテルに投宿した。


1月16日〜22日、大阪〜神戸

 造幣局へ行ってキンダー少佐(Thomas William Kinder, 1817-1884)(76)に会い、19日までここでも買い物と散策に時間を費やした。18日は汽車に乗って神戸に行って、日曜日の朝の船便の切符を購入した。1月20日、荷造りをし、大阪から汽車に乗り、神戸に引っ越した。グリーンホテルに投宿し、翌日の1月21日、領事に挨拶に出かけ、その後、荷物を税関に預けた。1月22日、神戸最後の夜は領事と会食をし、その後、日本での目的をすべて無事成し遂げたことを祝って、飲んで歌い踊った。


マサナオとの別れ

 神戸から出港する直前、キャンベルは献身的に通訳兼従者を務めてくれたマサナオに一緒にイギリスに来る気はないかと尋ねた。彼にイギリスで英語教育を受けさせながら、日本で買い求めた膨大な書籍の解読をロンドンの自宅で手伝わせようと考えた。マサナオがその申出を喜んでくれたので、すぐに叔父に電報で了解を求めたが、「すぐに戻れ」という返事であった。キャンベルは「また一人旅になる」と寂しく思った。


旅と健康

 キャンベルは、徒歩によるフィールドワークが性に合っていたらしく、「出発前の体重は258ポンド(約116.9キログラム)で、裏側の日本では208ポンド(約92キログラム)、神戸では191ポンド(約86.5キログラム)だった。47ポンド(約21.3キログラム)(27ポンドの誤り)の減量は自分でもわからないほどで、体型はとても上品になり、足は軽くなった」と喜んでいる。西ロシアとヨーロッパ大陸の旅行から帰ってきてから一年近く、セント・ジェームス宮殿の事務所に勤務し、その間、体重は増え、キャンベルは自身の健康を懸念していたのであろう。19世紀後半のロンドンで、ウィリアム・バンティング(William banting, 1796-1878)という人物が高血圧や痛風を予防するために、炭水化物の摂取を減らし適度な運動によるダイエット法を提唱していた。キャンベルは「パンなし、砂糖少なめ、ジャガイモ少なめ、そして長時間の徒歩が私に効いたので、バンティングを目指す人にとってこの処方を推奨する」と述べている。


心残り

 日本の旅を終えて、キャンベルは「彼ら(日本人)は習慣を変え、服装を変えた。鉄道、ガス、電信、蒸気船を導入し、陸軍と海軍、国債、紙幣を持ち、そしてつば広の帽子をかぶるようになった。10年前、彼らはよそ者を切り倒し、檻に入れたというのに」と、オリファントやミットフォードから聞いた日本があっという間に変わってしまったことに驚いてしまった。さらに、これから10年後、日本はもっともっと変わり、どのようになっているのか知りたいと思った。しかし、キャンベル自身、再び大旅行にでることは叶わず、代わって、この文章に興味を持つ外国人旅行作家やジャーナリストが現れ、いますぐ日本を目指すように期待した。


神戸〜瀬戸内海〜長崎

 1月23日の夜にコスタリカ号に荷物を積んで乗船し、翌朝3時に神戸を出港した。風は強かったが、晴天に恵まれ、美しい瀬戸内海の島々と町を眺めながら、24日午前4時頃に下関を通過し、夜半に長崎港到着した(図54)。26日夕方の出港までの間、長崎の町で珍品を探し歩いた。1月27日の早朝4時に出港し、東シナ海を渡り上海に向かった。



図54. アーチ型の岩、長崎から13マイル(約20.8キロメートル)、1875年1月24日

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