第12話 中山道⑦ 加納から京都
1月7日、加納宿〜河渡宿〜美江寺宿〜赤坂宿〜垂井宿〜関ヶ原宿〜今須宿
早朝、商人たちが品物を売りに来たが、キャンベルにはそんな時間はなく、宿に2人分の宿賃3シリングを払い、3台の人力車を雇い次の目的地に向かった。キャンベルとマサナオは別々の人力車に乗り、荷物をもう一台に積んで、それぞれ二人の車夫が交代しながら平均時速4マイル半(約時速7.2キロメートル)のスピードで17マイル半(約28キロメートル)を走りきった。途中、昼食の休みを取った後、渡し船に二回乗ったというのであるから、長良川と五六川を渡ったころになる。雪で覆われた丘陵地帯を過ぎたところの町に投宿することにしたが、宿泊先を見つけるのに苦労した。ここは今須Emasuの小さな宿家で、マサナオと竹の屏風を境に寝た。
1月8日、今須宿〜米原宿
室内華氏42度(摂氏4度)、外気華氏33度(摂氏1度)。朝、下駄をはいた軍服姿の兵士たちが通り過ぎるのを待って、8時にキャンベルらは人力車で出発し、昼前に米原Maiboroに到着し、そこは各地から荷物を携えてやって来る人、荷車、人力車で混雑していた。東京を出るとき、ある人物からこの地に駐屯するイギリス海兵隊将校への手紙を預かっていたので、7マイル(約11.2キロメートル)歩いて届けた。琵琶湖は大きく歪んだ岩盤層できており、どこを見ても氷河の痕跡は見当たらなかった。
旧本陣らしいかなり大きな旅籠屋に泊まり、部屋の中で旅の途中で買い求めた品々を点検し、荷造りし直した。宿の主人と娘にキャンベルがそれまで描きためた絵画を見せたところ、大変喜んでくれた(図51)。
図51. 琵琶湖(米原)の旅籠屋の部屋にて、1875年1月8日
図52. 雨の中、荷物を運んでくれた娘、米原、1月9日
1月9日、米原宿〜大津宿
ここから蒸気船が出ており、宿の娘が土砂降りの中、荷物を船まで運んでくれた(図52)。4年前に米原・大津間に就航し、8人乗りの蒸気船は9時半に出発し、大津まで37マイル(59.2キロメートル)の距離だった。「霧が一日中湖岸を隠していたが、時折霧が晴れて、湖岸の村や町が高い丘陵の麓に見え」、また、「丘の形をした島や、湖面まで段々状になった島をいくつか通り過ぎ」て、午後4時前に大津港に到着した。一等船室には一人の小柄な元武士が乗り込んでおり、マサナオは船中彼と親しく会話した。最近の流行に従い、この人物は髷を切り落とし散切り頭になり、ゆったりとしたズボンをはいていた。
大津は水陸両運の拠点であり、大きな町だった。人夫を雇い船の荷物を寺院近くの旅籠屋まで運んでもらい、人のいい主人のいる旅籠屋に投宿した。1月11日の日記には、「私の部屋は大名などに用意されたもので、とても大きく暗く、二つの刀置き場には壮麗な漆と金の紋章が施されていた」とあり、本陣に宿泊したと考えられる。すぐ近くから「マーラ、マーラ、マーラ、モーラ、オイ、オイ、オイ、マーラ、マーラ、モーラ・・・」とお経と木魚の音がしてきて、礼拝の時間であることが分かった。
図53. 寺院からの眺め、大津、1月10日
1月10日、大津宿〜京都
この日は、午前中に日記や手紙を書き、また絵を描き、午後は宿の主人と一緒に散歩をして過ごした。有名なお寺である三井寺に行き、その能舞台から寺院と町とを眺めたが、霧でよく見えなかった(図53)。その後、ゆっくりと町を歩き回ると、これまで歩いてきた中山道沿いの町とは違い、東海道沿いの町はずっと西洋化が速いことに気づいた。
「この町は東海道沿いにあり、今は軍が駐屯しており、とても賑やかで興味深い場所である。2ヵ月早くやってきていたら、もっと楽しめたであろう。旅行記を書く人がいれば、注意して、早く来た方がいい。大津での感想は手紙に書いたとおりである。観音で有名な三井寺の写真を買った。後数年もすれば、この国のすべてが変わってしまうであろう。」(72)
1874年10月に大阪鎮台管轄下の歩兵第九連隊が大津に移され、東海道沿いに大きな駐屯地が形成されていた。その存在が町の経済だけではなく文化も大きく変えつつあり、キャンベルはある種の無念さを感じた。夕方、再び「ブッダ!ブッダ!ヤー!ヤー!」という掛け声が聞こえたので、マサナオに何かと聞いたところ、僧侶の水修行だという。由来は、妙見Miokenという蛇神が登場する神話であったが、マサナオは十分に英語に訳すことができなった。しかし、キャンベルはそのおおよそのストーリーを聞いて、「日本神話はなんと豊かな物語を含んでいることだろう」と感嘆した。
1875年1月10日付け母への手紙、琵琶湖の大津
キャンベルは、この旅の最大の難所を28日間で安全に踏破し、その「奇妙でワイルドな」旅をとても楽しんだと母親に報告した。それは、通行許可書発行を迅速に進めてくれた公使パークスと、旅の通訳と従者を務めてくれたマサナオのおかげであったが、何よりましてキャンベルの異文化に対する暖かい態度であろう。それはゲール語民話採集によって培われたもので、日本でも旅先々で老若男女にユーモア交えて話しかけ、また現地の習慣を受け入れ、飲食をともにした。
「出発するときには,雪と氷の上を200マイル(約320キロメートル)も歩くとは思っていなかった。足が調子悪い状態で出発したが、歩いたおかげで足の裏は以前と同じように硬くなった。これほど調子がいいのは何年ぶりだろうか。少し前まで体重は238ポンド(約108キログラム)だったが、今は192ポンド(約87キログラム)だ。どんな食べ物も持たず、フォークもスプーンも持ってこなかった。この6週間パンを食べていないし、現地住民のように箸で食べることを学んだ。日本食は悪くはない。どこにでもある米、貝、卵、いろんな種類の野菜、みかん、柿、豆でできたケーキ(豆腐)、その他たくさんの不思議な食べ物がある。
店で雉を見つけるとそれを買い、鹿肉や山羊肉を見つけるとその肉塊を買い、従者がそれをシチューやスープ、ステーキ、フライドポテトを作ってくれた。お茶は砂糖なしで一日中至るとことで飲んだ。コップに日本酒と蜜柑の皮を入れて飲むこともあった。酒は米から作ったワインで、とてもすばらしい。」(73)
手紙の中で、キャンベルは日本での目的をすべて達成したと報告しているが、日本の神話についてはより疑問が増えてしまった。美術工芸品の購入は想定以上の成果があり、母親にそれを飾るために広間を空けておくように依頼した。前述したように、明治8年というのは、本当に困窮した元上級武士や僧侶が最後の貴重品を手放す時にあたり、最高の品々が売りに出され、キャンベルはそれを購入することができた。また、日本人が大変働き者で好奇心旺盛であり、子供たちの鳴き声も、大人が怒鳴り会うのも聞いたことがないと母親に伝えている。間違いなく、この時期の年末から年始にかけて中山道の記録は大変貴重なものである。アイスランドやスカンジナビアを旅行した経験があるので、真冬の信濃路はまったく問題なく、この徒歩による旅は彼の体にとっても良かった。
1月11日、大津宿〜京都
京都まで7マイル半(約12キロメートル)、荷物は人力車に積んだが、キャンベルたちは「酷いぬかるみで混雑した道を歩いた」。途中二人のヨーロッパ人に出会い、なにやら明治政府雇われた将校のようであった。「東海道の橋近くにあるとてもすばらしい旅籠屋に投宿し、勘定を済ませ、昼食を食べ、暗くなるまで通りを歩き回った。この町は直角に作られ、とても良くできている。みんな身なりが良い」と京都の第一印象を述べている。「東海道の橋」というのは東海道の終点である三条大橋のことで、三条河原町の宿に泊まったのであろう。
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