第7話 中山道② 松井田から望月
12月19日、松井田、碓氷峠、軽井沢
凍てつく朝9時、松井田の宿を出発し、街道を上り下りしながら坂本に到着し、そこで「ちょっとすばらしい」昼食を取った。しばらく歩くと碓氷峠の入り口に達し、軽井沢まで険しい山道を14マイル(約22.53キロメートル)歩いた。「日本でも最も有名な場所」だったので、休息のたびに標高と距離を克明に記録している。碓氷峠の茶屋で一休みし、キャンベルらは「ガタゴトと早足で宿泊地まで下っていった」。すでに夕暮れ時となっており、眼前は「どこからどこまでが空なのか丘なのか、(境目が)分からなくなっていた」。人通りの少ない碓氷峠を越えてきたにもかかわらず、軽井沢の町は年末を控え、北国街道を経て日本海側からの物資を運ぶ人たちで思いの外賑わっていた。
「海藻や魚や菓子を運ぶ人夫もいれば、二人のかごかきに担がれた紳士もいた。そこには、麦わら靴を付けた荷馬の列、長刀を持った侍、田舎者、農民、女性、そして赤ん坊がいた。要するに、それは土着生業の生きた日本のパノラマであり、見ていて楽しく、素晴らしい一日の歩きであった。私たちは、卵、スープ、鶏肉、ジャガイモ、米、ケーキ、お茶、日本酒、オレンジピールなどを腹一杯食べた。マサナオ、カガヤマとコイケは自分の義務(中間搾取搾)を果たした。北極星の位置と大熊座の様子を観察した後、紙の家の中で氷点下の気温のところ、積み重なった掛け布団の下で眠った。」(56)
12月20日、軽井沢
昨日、難所の碓氷峠を無事に越えてきてきたので、今朝、キャンベルは休息しながら記録を整理するつもりだった。彼が部屋の真ん中のこたつの中に足を入れ、旅日誌を書いていると、二人の日本人猟師があたふたと入ってきた。ここ軽井沢では、外国人客が肉食を所望することが広く知られており、猟師たちはキャンベルたちに仕留めた雉を買ってもらおうとやってきたのであった。通訳を介して値段交渉したところ、1羽1シリング(1分)半で交渉が成立し、夕食にその料理が提供された。この猟師に浅間山の様子を聞いたところ、火山の頂上まで12時間ほど歩けば往復できるという話しであった。しかし、今はあまりにも寒く、雪が深いために、登頂を断念し、代わりに周辺を少し歩き回ることにした。というのも、その風景になにか心惹かれるものがあった。
「ここは不思議な場所なので、偶像を探しに出かけた。野原で一つの素朴な祠を見つけた。中央の石像はかかと座り(あぐら)、黄色い木綿のナイトキャップ(頭巾)をかぶり、肩には黄色い木綿のショールをかけ、首には傷んだ漆のコップが4つ紐で吊るされ、足元には現金が置かれている。私はアイルランドやスコットランドの聖なる井戸で、同じようなお供え物をたくさん見てきた。膝の上には、黒い火山石で彫刻された奉納品が置かれている。その両側には、祈りの姿勢でドレープをまとった2体の装飾が施された像が、蓮を模した台座の上に立っている。廃墟の木の下には大きな石灯籠がある。
3つの大きな石像が、何の塗装もされない木造の社寺の下にある。仏陀とその弟子の石像が2列に並んで、小川にかかる小さな橋へと続く舗装された道を守っている。全体として、神道と仏教が他の力への崇拝と混ざり合った、生きた崇拝の奇妙な一片として私には印象を受けた。その場所の近く、幹線道路の脇に、碑文の刻まれた大きな石が立てられた塚がある。少年の1人が「仏陀への朝の祈り」だと言った。私はそこに座り、非常に冷たい指で浅間山のスケッチに取り掛かりかかった。スケッチが終わると、丘は雲と霧の中に消えた。道に沿って歩いて戻り、小川の近くに立てられた背の高い石像をみつけた。それは布をまとって直立し、3つの頭と6本の腕、2本の足がある。2 本の腕は祈りの姿勢で、残りの腕にはさまざまな紋章がある。ヒンドゥー教の偶像に関する私の知識では、この偶像を特定するには不十分だったが、明らかにヒンドゥーの起源であろう。名前は後で知った。村に戻って村を通り抜け、さらに冷えた指で石に刻まれた文字の大まかな鉛筆スケッチを描いた。大勢の静かで礼儀正しい人々が通り過ぎていった。荷馬を連れた田舎者、二本差しの侍、徒歩やカゴに乗った旅人などだった。
この日もそうだったが、日本各地を歩き回って気づいたのは、巨石建造物があふれているということだ。ストーン・サークルはどこにも見なかったが、大きな一個の石が目立つ場所にごく普通に置かれており、スコットランドの島々で石の十字架が植えられている塊のように、石をくり抜いた塊の中に階段状に置かれているのが一般的だ。階段のようなもの、あるいは無骨な四角い囲いのようなものが石を取り囲み、刻まれているのが一般的だ。これらの偶像や紋章、記念碑について明確な説明をしてくれる人は、集落にも町にも見当たらなかった。私は、この痕跡をたどるためにできる限りのことをした。」(57)
この行程を再現してみると、キャンベルらまずは町の南側にある靑松寺か諏訪神社に行き、そこで頭に黄色の布頭巾を被った一体の座像とその両側に立像を見て、その後、街を振り返りながら浅間山をスケッチした(図40)。画面手前の行き交う人馬は南側の道(現在、ショー通り)を歩いていると思われる。ここから街をかすめ北上し、二手橋近くで三面地蔵を発見する(図41)。この地蔵は三面馬頭観音と考えられ、現在は別な場所に移設されているが、もともとはここにあった。そして、街を通り抜けたところで社寺の境内に入り、そこで文字が彫られた奇妙な形の石碑をスケッチした(図42)。これは妙順寺の題目石であろう。多くの不思議な造型の石像や石碑に出会い、キャンベルはその由来を周囲の者に尋ねたが叶わなかった。ただ、日本にはストーン・サークルはないが、確かに巨石文化の痕跡が色濃く残っていることを知った。
図40. 軽井沢から浅間山を望む.M.p.114.図41. 三面地蔵. 1895年Gubbins Collection.(58)
図42. 軽井沢の石碑(妙順寺の題目石と思われる).M.p.116.
12月21日、軽井沢から追分
早朝、外は新雪に覆われて純白の世界だった。出発の直前、宿の主人が剣や水晶玉などを持ってきたので、キャンベルらはそのいくつかを買った。防寒ブーツを履いて10マイル(約16キロメートル)ほど歩くと小田井に到着し、そこで昼食をとり、その後更に進み、もっと大きな町の追分の「綺麗に装飾され、絵や彫刻が施されたすばらしい茶屋」で宿泊した。ここから噴煙を噴き上げる浅間山がよく見えた。
12月22日、追分、岩村田、望月
「雉肉と卵、それに酒とお茶が出て、王様のように朝食」を取った後、キャンベルらは浅間山を背にして街道を歩き、岩村田で昼食にした。浅間山はまだきれいに見え、鉛筆でスケッチし、宿に着いてから着色することにした(図43)。これは西念寺の地蔵と思われるが、神仏分離令後に、寺は一度廃寺となったのであろう。11マイル(約17.6キロメートル)ほどの道のりであったが、道は「とても汚くぬかるん」でいたため、疲労困憊の状態で午後3時半に望月に到着し、本陣らしい立派な旅籠に投宿した。岩村田で描いたスケッチを完成させようと筆を走らせていると、キャンベルの脳裏に次のような日本文化に関するいくつかの疑問が沸いてくるのであった。この考察は、『私の周遊記』書籍版では長くまとまった一文となっているが、手書き日誌の方では要点のみが記されており、帰国後、後者の記録を下敷きに加筆修正したものである。
図42. 岩村田から浅間山を望む.M.p.117.
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