第4話 横浜、箱根、東京、日光
旅は1874年7月6日のリヴァプール出港から始まり、大西洋を渡って北アメリカのボストンに7月16日に到着した。最初の目的地は9年前に訪れたことのあるナイアガラの滝で、その視察調査を短期間で済ませると、ロッキー山脈の麓のソルトレイク・シティに向かった。ここは初めての土地であったが、アメリカ合衆国地質調査所の友人の案内で、2ヵ月ほど周辺のロッキー山脈やグランド・キャニオンを見て回った。手書き日誌の方には、その地形を写した15枚の六切判の写真が貼り付けられており、キャンベル自身がカメラを持参し撮影したものと思われる。10月6日、サンフランシスコに到着すると、北アメリカでの調査記録やカメラ機材は自宅に送り返し、そこからグレート・リパブリック号に乗って太平洋を渡り、10月29日に横浜に到着した(図11)。
図11. キャンベルの世界一周の旅程
日本での予定
地質地形調査の他にいくつか日本での予定が述べられており、その一つは金星日面通過観測(38)であった。金星日面通過は1872年頃からイギリス科学界を賑わせており、キャンベルはかつて月食を観測撮影したことがあり、またそのために必要な望遠鏡やクロノメーターなどを持ってきていた。二つ目はドラゴン神話の採集(39)で、前述したように、友人のローレンス・オリファントとアルジャーノン・ミットフォードから情報を集め、特にミットフォードは『古き日本の話しTales of Old Japan, 1871』を著してくれた(40)。これら友人の助言により、キャンベルは日本にドラゴン神話が存在することは分かったが、それ以上のことは「多少なりとも英語を話す日本人識者とに会って、彼らからドラゴン神話についての情報を集める」ことにした。というのも、1872年8月にキャンベルはイギリス政府代表の一員として、駐日公使パークスや工務局副事務局長のミッドフォードらとともに岩倉使節団を歓待し、そこで副使の木戸孝允にイギリス王室のあり方を説明したらしい。実際、キャンベルが東京に到着すると、後述するように木戸邸を訪問している。
三つ目は、本書には明記されていないものの、キャンベルの日本での行動を見ると美術工芸品購入が目的にあったことは間違いなく、キャンベルの周りにはアーガイル公キャンベルを含め多くの日本美術愛好家がいて、彼らのためにも逸品を購入してくることになっていた。キャンベルは美術品の目利きができ、帰国後、彼らに贈呈しり、展覧会を開いた。
日本の第一印象
横浜ではグランドホテルに投宿し、母親宛の10月29日付けの手紙で「1841年に初めて外国の町であるヴィーゴに上陸して以来、これほど愉快なところはない」と第一印象を書き記している。
「男も、女も、子供も、木も、魚も、犬も、家も、鳥も、すべてが新しく、奇妙だった。彼らはG.W.Rから送られてきたような紙製の傘を差していたが、もっと大きく、華やかな色彩だった。彼らは下駄をはいて歩き、頭は模様に剃られ、髪は角や器具で縛られ、ピンや装飾品でいっぱいだった。彼らはニヤリと笑い、私もニヤリと笑った。黄色い紙でできたフードを装着した二輪車があちこちにあった。」(41)
G.W.R.とは甥のジョージ・キャンベル(George William Robert Campbell, 1835-1905)のことで、ながらくセイロンの警察署長を務めており、後述するようにセイロンで大変世話になっている。キャンベル自身、多くの国を旅行してきて、またオリファントやミットフォードらから聞いてはいたが、実際、日本を目の当たりにするとその独特さに驚嘆してしまった。それに拍車をかけたのが人々の反応の仕方で、それらは異質であったが、キャンベルは何か通じるものを感じてしまった。
翌日の10月30日、駐横浜イギリス領事館に挨拶に行き、数日間、荷物整理や手紙の執筆をしながら横浜居留地を見て回った。11月2日、キャンベルは他の7人のイギリス人(30)とともに駐横浜領事のロバートソンの引率でパークスに会うために汽車に乗り東京に向かった。新橋駅につくと、キャンベルらは1台の人力車につき3人の車夫を雇い、総勢27人でイギリス公使館に向かった。ペイン氏の人力車は、3人の車夫の息が合わず、ペイン氏は前に放り出されてしまった(図9)。あいにくその日、パークスは天皇誕生日の宮中祝賀会に出かけて公使館を留守にしていたので、後日、パークスが横浜にやってくることになった。新橋駅までの帰り道、焼失した旧江戸城跡、「著名な外国人が宿泊する庭園と宮殿」の浜離宮、通称「ソー・ユー・キャン」ホテルの長応寺、芝増上寺など見て回り、東京の初日の印象を興奮気味に1枚のスケッチに描いた(図10)。新橋駅で車夫に運賃を支払う際、疲れを知らずに一日中12マイル(約19.2キロメートル)も走ってくれたのに対し「3シリングほど払うのが恥ずかしくなり」、余計に運賃を払おうとした。
図9.「ベイン氏、不幸にみまわれる、1874年11月2日」。手稿. 図10. 「市中の様子, 月曜, 1874年11月2日」. 手稿.
箱根、小田原、鎌倉
11月11日付けの母親宛の手紙には、11月4日、パークスがわざわざ横浜にやってきて、キャンベルは彼の賓客として食事のもてなしを受けたと記している。今後の予定やパークスへ便宜依頼など、その場で話しをしたはずであるが、それについては何も述べていない。おそらく、キャンベルがイギリスを発つ前に、パークスに手紙で日本での行動計画を知らせていたことは間違いなく、さらに、おそらくキャンベルの義弟にあたる外務相グランヴィルから紹介状が届いており、パークスはキャンベルの目的と日程をよく知っていたのであろう。
横浜は外国と経済的関係、東京は最新の政治中心であり、彼の目的地ではなかった。ミットフォードを含め、在住外国人から名勝地として人気の箱根と日光へ旅行するように勧められていたが、
まず、横浜在住外国人から風光明媚でよく知られていた箱根、小田原、江ノ島、鎌倉に小旅行にでかけることにした。
日誌の中で、キャンベルは見た物をどのように記憶し、人に伝えるかということを考えた。
宮ノ下は箱根山の麓にあり、そこから相模湾や関東平野を見渡しながら本州の成り立ちを考察したかったようだ。11月5日、宮ノ下に向けて馬車で出発し、途中、小田原で一泊した。翌日、駕籠に乗り換え宮ノ下の奈良屋に至り、そこで3泊し、周辺の地形地層を視察して回った(図11, 12)。11月9日、宮ノ下を後にし、小田原から鎌倉まで海岸域の地形地層を見ながら横浜に帰り着いた(図13, 14)。この間、苦力(車夫)、大仏、織物、人力車、郵便配達、ケルン、温泉、按摩、お歯黒、巡礼、大仏などについての考察文があり、地形地層については第2巻後半の「極地氷河の期間について」の中で報告されている。
宮ノ下の奈良屋ではキャンベルも温泉を楽しんだが、キャンベルはこの湯がどうのようにしてやってくるのか疑問に思った。日本人の案内で竹のパイプをたどって渓谷を登っていくと源泉地に至り、盛大に蒸気が噴出している様子を見て驚いた。日本が火山地帯であることと、日本人が活火山の近くで生活していることを再認識した。「お湯について発見すべきことはたくさんあったし、宮ノ下についても新しい発見がたくさんあった」と語っており、地質地形学に関する知見を得たのであろう。
図11.「宮ノ下ニ於テ杜の景、1874年11月6日」。手稿。
図12.「寺の小僧たち、宮ノ下、1874年11月6日」。手稿。
図13.「小田原から富士を望む、1874年11月9日」。手稿。 図14. 農耕作業の風景. 手稿.
人力車と車夫(苦力)
キャンベルは横浜で初めて人力車を見て、さらに東京でも多数の人力車が走っているのを目撃し大変驚いた。というのは、日本滞在の経験のある友人からの助言や数年前の写真によれば、日本における人間の乗り物は駕籠しかなかったはずなのに、突然、雨後の竹の子のように人力車が出現し、そこかしこを走っているからであった。「ある独創的なイギリス人が車輪と肘掛け椅子を手に入れ、ポーターが浴槽チェアを引くように、苦力を雇って引いてもらった。しかし、この横浜の乳母車は偉大な発明の種であり、適切な時期に適切な場所に植えられると、竹のような速さで芽を出し、成長し、日本中が人力車で溢れかえるまでになった。」と人力車の由来を述べている。
驚くのは人力車そのものだけではなく、それを引く車夫の姿だった。市中では警察の規則があって衣類は脱がなかったが、市街地を外れると彼らは衣服を脱いで座席の下にしまい、入れ墨を見せて疾走する(図15, 16)。「一見すれば入れ墨はグロテスクであり、西洋では人目をはばかれるが、ここ日本では卑俗さがない」と述べている。
図15.客待ちをする車夫。手稿。 図16. 雨宿りする車夫。手稿。
測量師長マクヴェイン
11月11日、キャンベルは東京のイギリス公使館にパークスに会いに行き、再び彼に旅行の詳細を話して助言と便宜を求めた。この場にはもう一人の人物が同席しており、彼から親切な申し出を受け、その様子を母親に次のように知らせている。
「これからハリー・パークス卿と会い、その後、今後のことを決めるつもりだ。マル島ロス教区のフリーチャーチ牧師の息子で、ここで測量師長を勤めるマクヴェインが、江戸(東京)にある彼の家に滞在しないかと誘ってくれた。私は彼の家に滞在するつもりだし、彼が出張に出かけるときには一緒に旅に出るかもしれない。私はこの奇妙で野生的な国を大いに楽しんでいる。今まで見たことも夢見たこともないような国だ。人々はとても礼儀正しい。家主は四つん這いになり、地面に額をたたきつけ、そしてにやりと笑い、客人ひとりひとりにみやげを贈る。」(31)
この人物は内務省測量師長を勤めるコリン・アレクサンダー・マクヴェイン(Colin Alexander McVean, 1838-1913)(32)で、アイラ島の北側に位置するアイオナ島に生まれ、1868年5月にヘンリー・ブラントン(Henry Richard Brunton, 1840-1905)らとともに灯台建設のために来日し、1871年10月からは工部省発足と共にその測量師長に就任していた。測量司は旧松平大和守の江戸屋敷(現ホテルオークラ東京)(図17)を用地とし、その一角に外国人技師の住居があった(図18)。ここは大和屋敷Yamato Yashikiと呼ばれ、都心の官庁街近くにあったため、また、マクヴェイン夫妻が社交的であったため、在京外国人がよく集まる場所になっていた。キャンベルは、アイオナ島で牧師を勤めるマクヴェインの父親ドナルドとも、また、エジンバラ市長(1872-1874)を務めるマクヴェイン夫人の兄ジェームス・コーワンとも知り合いであり、事前に東京訪問を伝えていたらしい。当時、外国人が安心して泊まれるホテルは品川の長応寺しかなく、虎ノ門の大和屋敷は都内見学には便利なところだったので、夫妻は喜んでキャンベルに東京の宿を提供することにした。
図17. 東京虎ノ門の大和屋敷(旧松平大和守屋敷)
図18. 虎ノ門の大和屋敷におけるマクヴェイン夫妻。1872年11月頃。MVA。
図19.「横浜駅で時刻表を眺める僧侶」。手稿p.87.
キャンベルは一旦横浜に戻り、11月13日、グランドホテルに預けてあった荷物を携えて横浜駅に向かった。駅舎の中で僧侶が時刻表の見方がわからず困惑し(図19)、また乗車すると、「育ちの良い礼儀正しい日本人は皆、下駄を脱いでホームに並べて置いた。エンジンが唸り、列車が動いた。すると、乗客たちから悲痛な叫びと笑いが入り混じった声」を耳にした。横浜・東京間に汽車が開通して2年になるが、初めて乗る日本人は乗車の前に履き物を外に脱ぎ、発車してから置き忘れたことに気づいたというのである。
汽車が新橋に到着すると人力車の車夫に「ヤマトヤシキ、イチバン!」と声をかけ、それに荷物を積み込み、キャンベル彼自身は歩いてマクヴェイン宅に向かった。虎ノ門の大和屋敷に到着するとマクヴェイン夫妻が出迎えてくれ、これからマクヴェインとの会話はゲール語になった。マクヴェイン夫人のマリーにとってもキャンベルを迎えることは名誉であったらしく、日記に彼の行動を詳しく書き記し、それは『私の周遊記』の内容と一致する。
東京
大和屋敷は少し高台にあり、東側眼下には愛宕山と新橋の町が広がり、北側には旧江戸城を望むことができた。旧江戸城の西ノ丸御殿が1873年に焼失し、住み手のいなくなった城跡は野鳥の楽園になっていた。また、かつての大名たちは明治維新とともに江戸屋敷を政府に返納し、江戸を離れる際には武具や趣味の品を骨董屋に二束三文で売りさばいた。11月15日、キャンベルはこのような古美術品を買い漁り、またマクヴェイン夫妻の案内で芝居を観て、音楽を聞いて楽しんだ(図20, 21)。キャンベルの記述によれば、彼が観た歌舞伎の演目は宇都宮城釣天井事件のようで、1874年秋に新富町の守田座が上演していた。シェークスピアーの劇を観るように、ストーリーを追いながら役者の仕草を観察している。
図20. 「東京の芝居小屋、1874年11月15日」。p.86.
図21. 「東京の音楽会、1874年11月15日」p.90. 図23. 「芝の辻占い」。p.87.
図22. 「芝の増上寺」。P.88.
翌日から数日間は、芝の増上寺界隈で寺院の建物や墓地をスケッチしながら見て回った(図22, 23, 24)。建物について、「寺院や神社は、日本の最高級の家具のように彫刻が施され、仕上げられている。黒と赤と金の漆塗りの建物はかなりの大きさで、アルト・レリエーボの鶏や菊、金の雉や怪獣が描かれ、金銅やエナメルで飾られている。これらは本当にこの種の驚嘆すべき芸術である」と驚嘆している。明治維新と廃仏毀釈の影響は将軍の墓地にも見られ、その印象を継ぎのように語っている。
「以前は、僧侶と鎧を着た家来が一日中階段にひざまずいていたが、今は誰もひざまずかないし、神道や仏教にあまり関心がない。以前、外国人は門内に入れなかったが、今では、数少ない僧侶に6ペンスか1シリングのわずかな拝観料を払うだけで、好きなように出入りできる。政府はすべての仏教を神道に変えるよう命じた。神道は日本古来の宗教であり、主に祖先を崇拝することで成り立っている。激怒した仏教僧たちは、変更される日に一番良い寺を燃やしてしまった。」(33)
日光旅行から戻ってきて、11月27日、マクヴェインはキャンベルに会わせるために日本の友人を自宅に招き、宴会を開いてくれた。「昨夜、マクヴェインはキルトを着込んで夕食会を開いた。主賓は元大名のクロダ(34)で、かつては3万人の軍隊を持ち、地方を治めていた。今は外務省が彼の屋敷に入居してしまった。収入も多く、鴨猟や鷹狩に明け暮れている。彼は確かに偉大な紳士に見えたが、残念ながら私は彼と話すことはできなかった!代わりに私は彼にゲール語の歌を歌い、剣の舞を踊ってあげた。彼は喜んでくれた。私たちは楽しいパーティと楽しい夜を過ごした。あと10日間は手紙を書かないことにする。」(35)マクヴェインが招いた人物は黒田長溥(図25)で、黒田は鳥類ばかりではなく博物学全般に造詣が深く、東京を離れるまで親密な交流が続いた。
図24. 芝の寺院。P.92. 図25. 黒田長溥。MVA。 図26. 「木戸邸の庭師」。P.85.
芝以外に、江戸の名勝である江戸城周辺、浅草、日本橋、築地などをスケッチ用具を抱えて見て回り、「奇妙で野性的な国」を堪能した。菊花展に合わせて、キャンベルはマクヴェイン夫妻らを伴い木戸孝允邸に向かった。六義園を通って木戸邸に入り、木戸に面会できたかどうか不明だが、木戸夫人からは「お茶と栗」の温かいもてなしを受けた(図26)。
日光
日光からは関東平野を一望できるため、内務省地理寮は全国測量事業に向けて基線測量を予定しており、11月19日、マクヴェインはキャンベルを伴い事前調査に行くことにした。彼は、頼りになる通訳、従者、人力車と車夫を探しだし、また、日本人の同行者を誘った。通訳のカタタという青年と、キャンベルの従者であるツネの二人の他、2組の人力車車夫を雇った。車夫の親方は話し好きな人物で、「良い家柄の紳士」であるカタタの出自を聞くと頭を抱えてしまったという(図27)。このカタタは、もと幕府軍の指揮官の息子であると語り、そうすると父親は武田昌次(旧名塚原昌義)(36)ということになる。後述するように、マクヴェインはこの親子とても親しかった。さらに、途中で「宮内庁関係者のヨシイ」と「海軍相らしきオイマ」が合流し、前者は吉井友実(37)、後者は大山巌(38)に間違いない。
一行は草加で昼食を取ったのち、「感動的パノラマ」の農村風景を見ながら、夕方には粕壁に到着した。キャンベルが道すがら最も興味を示したのは農具類で、アイスランドやスコットランドにある碾臼や、またハイランド地方の古いCaschrom(踏鋤)が使われていることであった。両者の踏鋤の違いは、「ここではより良い木材が使われていることと、柄を引くための肩が余分に付いて」いるだけで、ユーラシア大陸の北西端のヘブリディーズと人東端の日本の間の共通性を考えずにはおられなかった。翌月、キャンベルは同じような農耕道具を中山道の下仁田付近でも目にし、より深い考察をすることになる。
その日は粕壁に一泊することにし、そこで用意された部屋と食事について次のように記している。
図27. カタタの出自を聞いて頭を抱える車夫の親方p.98図28.日光街道沿の社寺。P.94.
「煙草を数本吸った後、高さ3インチの四角い御膳が、食事をする人の数だけ運んでこられ、私たちの前に置かれた。各御膳には、箸と酒が紙の上に置かれ、大きな丸いドラム缶のような箱(御櫃)には熱いご飯が入っていた。店からパンが出てきて、女の子は「コオリ・パン」と言った。このようなものは、それまでは現地では見られなかったと思う。魚や海苔、アスピック入りのアイスオムレツ(茶碗蒸し)など、奇妙なおいしいものが手に入った。鳥のように長い嘴でご飯をつまむのは本当に容易ではなく、最初はタンタロスの苦しみを味わったが、練習の甲斐あって鶴のように器用になり、畳を汚すことなく日本紳士のように食事を済ませることができた。夕食が終わり、私たちは火鉢の周りでタバコを吸った。」(39)
このように、キャンベルらはできるだけ上等の旅籠に宿泊しており、この時点の日光街道沿いでは本陣が営業していたことがわかる。翌朝、キャンベルらが乗った人力車は再び街道を疾走し、途中の休息所で社寺の水彩画一枚(図28)と、日光らしき町並みの鉛筆画一枚(図29)しか描かなかった。夕方日が落ちてから日光の街に入り、政府要人と一緒なので名の通った宿屋に泊まったが、具体的には不明である。翌朝、一緒に来た日本人たちは駕籠に乗って日光東照宮に向かったが、キャンベルとマクヴェインにとって駕籠は窮屈すぎるので、二人は徒歩で出発した。この日は東照宮ではなく周囲の地質地形を見ることにし、華厳の滝を見て中善寺湖までかなりの距離を歩いた。キャンベルはこの湖は「古い火山のクレーターか地盤沈下でできたもので、氷河ではない」とその成り立ちを判断した。
22日、この日は、キャンベルらは朝から東照宮の寺廟を見て回り、その彫刻は「全体が力強い動きで、非常によく彫られている」と感嘆した。あまりにも傑作揃いのため、「私はある場所で絵を描こうと腰を下ろしたが、絶望的だとあきらめて町に戻って」きてしまった。町ではたくさんの工芸品や骨董品が売りに出されており、それらを自らの家の食堂や居間に飾るために買い漁り、手持ちのお金が底をついてしまった。旅日誌の方には、購入した品々のリストと神谷・釜屋の領収書(図30)が添付さており、キャンベルは「私たちは日光の宝物庫を空にすることができたかもしれない。しかし、私はそのための十分な金貨を用意していなかったし、そのような日本の宝物をしまっておく家も持っていなかった」と残念がり、「しだいに多くの外国人が日光に来るようになり、まもなくすべての宝物が売りさばかれ日光から消えるだろう」と嘆いた。
図29. 日光街道の町並み。P.99.
図30. 日光の神谷と金屋からの領収書。P.99.
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