卷二 幽映

鴨川で月のやうな男に出會つたあの夜から幾旬か過ぎた頃も、私は相變はらず夜ごと月を描き、繪を電子の海に投げ込み續けてゐた。そんな折、久しく連絡の絕えてゐた學窗の友から、唐突に消息が來た。

『鏡花、最近の投稿どうしたの? あんたの投稿、急に古い言い囘しばかりで、ちょっと怖いよ』

『繪は相變わらずきれいだけど……讀んでると、なんだか別の世界に連れて行かれるみたいで、息苦しくなる』

 玻璃の畫面の中で、友人の聲は無味乾燥な文字の列に削がれてゐる。私は指先でその行をなぞりながら、自分がこれまで書き散らしてきた言葉の軌蹟を遡つた。短い感想のつもりで打ち込んだ文は、何時の間にか夜と月と沈默の語で埋め盡されてゐる。平假名で書いてゐた筈の場㪽に、何時からか見覺えの薄い漢字の棘が立ち始めてゐた。

 何時からだつたのだらう。あの夜の歸途を境に、鏡花という呼び銘が少しづゝ遠のき、『我』という字だけが紙の白を汚すやうになつたのは——。私の夜は少しづゝ貌を解き放ち、常の輪郭を失ひつ。月明かりの濃さに從ひ、世界の象は靜かに解けてゆく。川邊を步む。殘り香、既にして蹟絕え、街の燈りすら薄紙の彼方。幽かに、總て靄裡に融けゆき、微光の裡に世界沈む。私の目は夜を織るために生まれ變わつたのかもしれない。夜の氣配は愈々深邃に沈潜せり。空氣薄く冷え、息ごと胸の奧がゆるり收縮す。步く度石疊の凹みに溜まりたる雨水の冷たさを足裏に覺ゆ。雨上がりの土と苔の匂ひ、幽微なる香氣の流れとなり、指の罅から仄かに滲み入る。道端に咲く月下美人が零れ落ちた雫を吸ひ上げ、白さをより濃くしてゐた。耳を澄ますと遠くの家竝みより誰かの笑ひ聲微かに聞こゆ。然れどもその聲も直に夜風に攫はれ、此夜の證として遺るは唯月光のみ。聲は一旦奪はれて不復返。闇は底に濃き黑を沈殿させつゝ、乾ききらぬ息の匂ひのみ微かに淀み殘る。

 石段に腰掛け、暫し目を閉ぢる。骼を裂くかのやうな軋みが黯黑へと淡く滲み、音もなく闇に溶けてゆく。右の瞼の裏ばかりに蒼白の光輪が仄かに浮かぶ。幼き日の記憶、滿月の夜。あの頃も亦、孤獨にありけり。世界はほんの僅かな隙間から、音もなく裏返る。一刹那、鼓動は音もなく途絕へり——。

——寂滅、聲もなき夜。

 此の夜、此の場㪽にゐる自分が本當に現實なのかどうか、判らなくなる瞬間がある。ふと見遣る。地に落ちし我が影、今淡し。月盈つるごとに影は愈々儚く、靄に融けて何處なるやも知らず。影の殘り火は黎の底に溶けゆく。竹林の夜路を行けば、足元の闇、徐ろに白みぬ。軈て我が影形をすら保たず、靄の裡に判然とせず。或る宵、竹林を拔けて街燈の下に出でし刹那、總ての街燈のまはりに同じ大きさの白き月輪が滲み出づるを見たり。瞬きを重ねども消えず、行き交ふ人々の頭にも、肩にも、靴にも、輪は淡く乗りて光りぬ。聲を發するを得ず、我が足ばかりは石疊に縫ひ留められたるが如く動かざりき。


 彼と相見ゆること何時しか常のこととなりぬ。その度に私は何處か異國の、時代の隔たりの中を步いてゐるやうな心地になる。彼の姿、月華に觸れどもなほ淡く、輪郭朧也。言の葉殆ど交へず。然れど沈默の裡、彼が目を細むるやうに、世界の淵より古き水音幽かに響きたり。幽光の如き薄き聲が、耳の奧を掠めては消ゆる。影の溫もり、夜に解く。

「言墜於水底、悲矣」

 水音、耀、輪郭、皆遠くなりけり。


 或夜、嵯峨野の竹林にて、我は蒼白き畫布に筆を滑らせてゐた。月を掬ふやうに、心の底に沈む色を探りながら。竹の葉の擦れる音、土の冷たさ。月明かりの白、闇の奧に隱れる無數の氣配。彼が傍らに立つその刹那、氣微かに動く。月も聲も凪に搖れず、世界は一枚の薄氷のやうに靜まり返る。袂にゐて指の間に遠し。衣擦れの響きも殆ど聞こえず、吐息すらも白き影と成らず。靜謐のみが場を滿たし、言の葉すら落ちず。軈て靜寂、萬象を包みぬ。耳を刺すやうな無音ばかりが張りつめ、踏みしめた土の軋みだけが、遲れて骸のやうに響く。我が身薄れゆく樣を、黯澹たる孤獨と甘き恍惚に充ちて覺ゆ。魂は界に彷徨ひ、聲は微塵と化す。遠く、夜汽車の音、幽かに響きぬ。お互ひの視線が交はることは殆どない。只二人靜かに銀の輪を仰ぎぬ。其の刻の流れ絹の如く細く、限りなく伸びて。

 我は只、沈默のうちに畫を描き續けたり。畫布の上に描かれし月の輪郭、夜の白に呑まれ、色は幽かに震ひつつ消ゆ。何度色を重ねても、指の裡に殘るは冷たき月華の片鱗のみ。つひに描き終へし畫布は、指先の力拔けてふと地に落ちぬ。草上に搖蕩ふ淡影、一枚の夢のやうに浮かび、白銀の靄に融け消えたり。白き影は雫の如き指先の搖らぎにて解け、黎黑の深淵より密やかなる光一筋、微睡みつつ浮かび來ぬ。それは夜の涯に佇む、かぎろひの殘影也。光と闇、いづれぞや、その狭間にて聲は薄紙一枚ほどの厚みに痩せてゆく。


 幾重にも月の畫を重ねるうち、油彩の層は夜露の如き厚みを增し、指先には夢の殘滓のやうな重みと鈍い滑りが殘りたり。描き終へし畫を鏡板に映すその手の㪽作すら、最早現し世の㪽業に非ず。夢の氣配に煙り、我が身も亦映し繪の如く搖らぎぬ。現實と虛ろと綾なす間にて、指は最早孰のものとも知れず。ふと氣付けば報せの響き絕ゆることなく鳴り、鏡板の內側にて見知らぬ囀どもが月の幻を囁き合ひたり。見知らぬ誰彼が「美しい」「異樣だ」「月の夢を見た」と呟く。だが彼らの詞も、玻璃に觸れる指の感觸も、現實さへ失せたり。彼らの贊辭は畫布の緣に貼り付く紙片の如く、光に觸るゝこともなく早くも色褪せぬ。寧ろ我は孰にも見らるゝことなき淵の極に於て、沈みゆくことそのものを欲すと、或る日悟りぬ。其の欲する處、唯孑然として己が畫を誇りつゝ、聲無き深淵へと沒して行かむとするのみ也。朧光、悉く影を呑みぬ。闇の底より來たりし聲。我は其の時、己が存在の總てが夜の空氣に融ける感覺を覺ゆ。世界は呼吸を止めた屍體のやうに硬直し、沈默は鼓膜の裏側でざらつく砂のやうに擦れ合ふ。

 其の夜も亦、聲も息も沈默の裡に沈みゆく。夜風に押されて竹林がざわめき、彼方に鳥の響き一つ。石疊へ殘された僅かな水鏡に一滴の白銀が浮かび、軈て音もなく消え失せぬ。ふと瞼の裏に光輪滲む。指先の感覺次第に薄れ、皮膚と夜のあはひ、輪郭滅失。筆を握るその手すら最早孰のものとも覺えず。爪の罅より冷やかなる群靑が深く沈み入り、膚か夜か、痛みの源も曖昧に滲みぬ。光は只白き濁流の如く滿ち溢れたり。

 我は立ち上がり、重たき畫架を抱きて白銀の夢の中を步み出す。背後に殘れる彼の氣配は遠き鈴のやうに、靜かに消え失せぬ。氣付けば我は畫室の扉の前に立ちゐたり。掌には鍵が食ひ込み、微かに震えてゐる。如何にしてここまで步み來たりしか、その道程の記憶のみすつぽりと拔け落ちてゐた。頭の內には竹の葉擦れのざわめきと、白き月輪の殘像ばかりが靄のやうに充ちてゐる。扉の前の石疊にも街燈の光は銀鱗の如く散り敷かれてゐた。晝とも夜ともつかぬ夢幻のあはひにて境界は悉く裂け、虛ろなる月が萬象を照らすかのやう也。描き手も銘も輪郭滅して夜に融く。月華は總ての色を柔く滲ませ、闇の深層は震へ囁きすら沈みたり。一雫の光は石に融けゆき、夜風に鳴る枝の音のみが誰かへと傳はらうと欲す。


——此夜、萬象靜寂裡沈沒、不復返

  ——闇光一瞬相觸、其間唯此在

    ——唯、夜融沒、畫中結月

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