第5話

「食いにゃ。暴れた後は腹が減るだろ」


 ミケが差し出した木椀もくわんの中で、茶色く濁ったシチューがとろりと揺れた。


 一見して、美味そうとはとても言えない。野菜くずらしきものと、どこの部位かも分からない肉片が、煮崩れて原形を留めていない。しかし、鼻先をくすぐる香りは、太郎の胃袋を強烈に刺激してきた。


 出汁の深い匂い。香草のさわやかな香り。脂の甘やかな匂い。


 横には、固そうな黒パンの切れ端が二つ添えられている。


「……いただく」


 ぐう、と不意に鳴った自分の腹を押さえながら、太郎は木のスプーンをつかんだ。


 一口、すくって口に運ぶ。


 煮込まれた野菜が、舌の上でほろりと崩れ、溶け出した肉の脂と混ざり合って喉へと流れ込んでいく。肉片は驚くほど柔らかく、みしめるたびにじゅわりと旨味がにじみ出た。


(……うまっ)


 心の中で、思わず素の声が漏れる。


 気づけば太郎は、夢中でスプーンを動かしていた。シチューをかき込み、パンを浸してはちぎり、ひたすら口へと運ぶ。その間だけは、脇腹の痛みも頬のひりひりも、遠いどこかへ置き去りになっていた。


 木椀もくわんの底が見える頃には、全身にじんわりとした温かさが広がっていた。


「……ごちそうさま」


 スプーンを置き、深く息をつく。


 ミケは何も言わずに見ていたが、太郎が食べ終えたのを確認すると、小さくうなずいた。


 そして、その隣に――どん、と分厚い帳簿を置いた。


「さて」


 くたびれた革表紙を指先で軽くたたきながら、ミケは琥珀色こはくいろの瞳を太郎へ向ける。


「腹も膨れたところで、勘定の話だにゃ」


「……勘定?」


 ミケは帳簿をぱらりと開き、さらさらとページをめくっていく。


「まず、本日のシチューと黒パン。大銅貨二枚」


「……払うとは、聞いていないが」


「タダメシなんて、どこの貴族様だにゃ? うちは慈善事業じゃにゃい」


「で、さっきのミケ印・特製薬草軟膏なんこう。銀貨二枚」


「高っ……」


 今度は、思わず口から素の声が漏れた。近くの客がくつくつと笑う。


「私の技術料込みだにゃ。安物の薬でんで腕が腐るより、ちょっと痛くてもきっちり治った方がいいだろ?」


 カウンターの端から、クロがひょこっと顔を出した。尻尾をぱたぱた揺らしながら、トレイの上には空の皿が山のように積まれている。


「さっきの手当て、あたしの手間賃も乗っかってるからにゃ。割増料金だにゃ」


 金色の瞳を細めてにたりと笑い、クロは皿を抱えて奥へと引っ込んでいった。


 ミケは帳簿の端にさらさらと書き込みながら、まとめるように言う。


「あと、宿代銀貨一枚、朝食代大銅貨二枚。合計――銀貨三枚と大銅貨四枚」


 太郎は固まった。


 数瞬遅れて、ようやく口が動く。


「……そんなにかかるのか」


「かかるにゃ」


 ミケは即答する。


「屋根の下で寝て、温かいメシ食って、ケガしたら薬が出る。そんな贅沢ぜいたくがタダで転がってると思ったら、大間違いだにゃ」


 太郎は言葉を失った。


 ポーチに手をやってみるが、指先に触れるのは、底にまった砂利とホコリだけ。

 

「……ツケで頼む。竜たるもの、現世の貨幣になど執着せぬゆえ、今は手持ちが――」


 ミケはふん、と鼻で笑った。


「ツケなら、もう最初からついてるにゃ」


 ぱらり、と別のページを開いてみせる。


 太郎の名前の横に、細かな字がずらりと並んでいた。


 薪割り:大銅貨五枚

 水汲み・酒樽さかだる運び:銀貨一枚

 床磨き・皿洗い:銀貨一枚

 トラの喧嘩けんか相手(特別手当):銀貨一枚


「本日の日当合計。銀貨三枚と大銅貨五枚」


 ミケはなぞるように数字を指で追う。


「ここからさっきの請求額、銀貨三枚と大銅貨四枚を引くと……」


 チャリン、と、カウンターの上に一枚のコインが弾かれた。


「残り、大銅貨一枚。これが今日のおみゃえの給料だ」


「……いち、まい」

 

「はぁ……情けない顔するにゃ」


「一枚残っただけマシだと思いにゃ。普通、怪我人は治療費でマイナスからスタートだにゃ」


 カウンターの端で、客の一人がどや顔でうなずいた。「俺なんざ先週、三日働いてもマイナスだったぞ」と語り始め、別の客が「それ自慢にならねえだろ」と突っ込みを入れる。


「……竜ともあろうものが、銅貨一枚で一喜一憂しているとは。笑止千万だな」


「その顔。ちょっとは分かったみたいだにゃ」


 ミケは口の端だけでかすかに笑うと、カウンターの下に手を伸ばし、ガサゴソと何かを探り始めた。


「……?」


 太郎が顔を上げるより早く、一通の封筒が、ぺたりと目の前に滑り込んできた。


 茶色い薄紙。端は折れ曲がり、ところどころに油染み。封蝋ふうろうもなければ、凝った紋章もない。ただの、薄汚れた封筒だ。


「明日、これを持って冒険者ギルドへ行くにゃ」






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