第4話

 重い扉を押し開けた瞬間、むわっとした熱気と、いりまじった匂いの渦が太郎を包んだ。


 酸っぱく変質しかけた安酒の匂い。煮込み鍋から立ちのぼる脂と香草の匂い。汗と犬人けんじんの体臭、湿った木の床のにおい――それらがごちゃ混ぜになった、迷い猫横丁「何でも屋・ミケ」独特の空気だ。


 ランプの明かりは心もとない黄色なのに、ひしめく客たちのせいで、室内は外よりもずっと明るく感じられる。


 一歩、二歩と足を踏み入れたところで、ざわり、と空気が揺れた。


「……お」


「戻ってきたぞ、“竜様”だ」


 誰かがそう言った途端、視線が、一斉に太郎へと集まる。


 一瞬だけ、酒場が静まり返り――


「おい見ろ、まだ歩いてるぞ」

「兄貴のパンチもらって立ってんのかよ、あのトカゲ」

「顔、すげえ色になってるにゃ。いい具合に腫れてる」


 どっと、笑いと野次が弾けた。

 

 壁際の机では、帳面を抱えた鼠人そじんが、口の端をいやらしくり上げて太郎の顔を値踏みしている。愉快げに、細いひげがぴくぴくと震えた。


「次の賭けは、このトカゲに少し乗せてもいいかもな」


 周囲の猫人びょうじんたちが「にゃはは」と笑い、耳や尻尾を揺らす。


(……愚民どもめ。我が覇気に当てられ、騒ぐことでしか畏怖をごまかせぬか……)


 太郎は、心の中でだけ傲然と鼻を鳴らす。


 だがその実、脇腹の奥では、さきほどトラにたたき込まれた拳の痛みが、ずきずきと執拗しつように自己主張を続けていた。歩くたび、骨の芯まで響くような鈍痛が走る。足元も、ほんのわずかにふらついている。


(第七条 踏みしめる一歩一歩に、誇りと威厳を刻め)


 自分で書いた『竜的行動指針』の一節を、わざと頭の中で復唱する。


「おっかえりー、竜様ぁ」


 頭上から、間の抜けた、しかしよく通る声が降ってきた。


「……うおっ」


 見上げると、すすけたはりの上から、黒い影がひょいと身を乗り出す。全身を覆う真っ黒な毛並みと、短くてぼさぼさの髪。暗がりの中で金色の瞳がきらりと光る――クロだ。


 クロははりから逆さにぶら下がったまま、いたずらっぽく口の端をり上げる。 


「やるじゃん、おみゃえ。バカ兄貴の石頭に一発入れるなんて、最近じゃ誰もやりたがらない芸当だにゃ」


 くるりと身体をひねったかと思うと、次の瞬間には、クロの小柄な身体が音もなくテーブルの上に着地していた。ふわりと揺れた尻尾に、机の上の安酒の瓶がかすかに震える。


「衛兵に連れてかれてザマーミロって感じだけどさ、その顔もなかなかの傑作だにゃ~」


 ぐい、と顔を近づけてきて、太郎の頬をまじまじとのぞき込む。


 金色の瞳が、愉快そうに細められた。


「ほらほら、こっち向きにゃって。あ、ここ、ちょっと切れてるにゃ。こっちは青あざ。うわ、腹のとこは後で見るのが楽しみだにゃあ」


「……人の顔を観光名所みたいに言うな」


「にゃはは。まあ、じっとしてにゃって。これ、母さんが調合した特製だから」


 クロの手にはいつの間にか小瓶が握られていた。どろりとした緑色の液体が、狭い瓶の中でゆらゆらと揺れている。


 歯を使って器用に栓を引き抜き、その液体を布切れの上へと、とくとくと垂らした。


「な、何をするつもりだ」


「決まってるでしょ、竜様。治療だにゃ。さっさとやんないと、あとで動けにゃくなるよ?」


 ニコニコと笑いながらも、その手付きに一切の迷いはない。


 太郎は思わず一歩下がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。


「笑止。我が竜鱗りゅうりんはマグマの熱すら――」


「はい、動かにゃい」


 クロの左手ががしっと太郎の顎をつかみ、顔を固定する。


 右手の布切れが、容赦なく頬の切り傷へと迫る。


「待て、心の準備というものが――」


「にゃっ!」


 ぴた、と傷口に布が当てられた。


 一瞬、ひやりとした感触。


 次の瞬間――


「ぎ、ぎゃああああああああッ!?!?」


 頬から火が出た、と本気で錯覚するほどの痛みが、顔面を貫いた。


「ば、馬鹿っ、これは治療の域を超えて――っ、うおおおおお!」


「じっとしてってば。動くと余計しみるにゃ~」


 クロは尻尾をぱたぱたさせながら、今度はあごの下の擦りむけにも、容赦なく薬を塗りつけていく。


「にゃはは、いい悲鳴出すじゃん、竜様」


 周囲の客席から、どっと笑いが起きた。


「出た出た、ミケ印の特製薬!」

「効くぞ~、あれは。こないだ俺も塗られたけどよ、しみすぎて一日酒がまずかったわ」

「でも治りは早いんだよにゃ。明日にはそのトカゲの顔も、たぶんマシになってるにゃ」


 犬人の傭兵ようへいが、腹を抱えて笑いながら相槌あいづちを打つ。


「ギャハハ、竜様が泣いてるぞ! おい酒だ、もう一杯!」


「……貴様ら……!」


「ほい、顔は終わり。あとは腹だけど……それは二階でゆっくりやるにゃ」


 クロがぱっと手を放すと、太郎はその場にへなりと膝をついた。頬がじんじんと焼けるように熱い。だが不思議なことに、さっきまであった痛みは、いくぶん和らいでいる気もした。


(効いて……るのか、これで……?)


 カウンターが「ダン!」と鳴った。

 

 ざわついていた客たちの視線が一斉にミケのほうへ向く。


 ミケはそのまま、店内をぐるりと見回した。


「酒が空いてる奴はさっさと追加を頼む。飲まないなら席を空けるにゃ。今日の見世物はもうおしまいだよ」


 その一言で、だらだらと居座っていた連中が、どっと動いた。


「じゃ、俺はもう一本」

「おい勘定だ、そろそろ宿に戻らねえと」


 財布を取り出す者、席を立つ者。客たちがわいわいと動き出す中、ミケはカウンター裏に引っ込み、何やら鍋をかき回し始めた。


 ほどなくして、湯気の立つ木椀もくわんがひとつ、カウンターの上に置かれる。


「タロウ、こっち来にゃ」


 呼ばれて、太郎はまだひりひりする頬を押さえながら、ふらふらと近づいていく。カウンター席に腰をおろすと、目の前にその木椀もくわんが差し出された。


「食いにゃ。暴れた後は腹が減るだろ」


 木椀もくわんの中で、茶色く濁ったシチューがとろりと揺れた。






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