第4話
重い扉を押し開けた瞬間、むわっとした熱気と、いりまじった匂いの渦が太郎を包んだ。
酸っぱく変質しかけた安酒の匂い。煮込み鍋から立ちのぼる脂と香草の匂い。汗と
ランプの明かりは心もとない黄色なのに、ひしめく客たちのせいで、室内は外よりもずっと明るく感じられる。
一歩、二歩と足を踏み入れたところで、ざわり、と空気が揺れた。
「……お」
「戻ってきたぞ、“竜様”だ」
誰かがそう言った途端、視線が、一斉に太郎へと集まる。
一瞬だけ、酒場が静まり返り――
「おい見ろ、まだ歩いてるぞ」
「兄貴のパンチもらって立ってんのかよ、あのトカゲ」
「顔、すげえ色になってるにゃ。いい具合に腫れてる」
どっと、笑いと野次が弾けた。
壁際の机では、帳面を抱えた
「次の賭けは、このトカゲに少し乗せてもいいかもな」
周囲の
(……愚民どもめ。我が覇気に当てられ、騒ぐことでしか畏怖をごまかせぬか……)
太郎は、心の中でだけ傲然と鼻を鳴らす。
だがその実、脇腹の奥では、さきほどトラに
(第七条 踏みしめる一歩一歩に、誇りと威厳を刻め)
自分で書いた『竜的行動指針』の一節を、わざと頭の中で復唱する。
「おっかえりー、竜様ぁ」
頭上から、間の抜けた、しかしよく通る声が降ってきた。
「……うおっ」
見上げると、
クロは
「やるじゃん、おみゃえ。バカ兄貴の石頭に一発入れるなんて、最近じゃ誰もやりたがらない芸当だにゃ」
くるりと身体をひねったかと思うと、次の瞬間には、クロの小柄な身体が音もなくテーブルの上に着地していた。ふわりと揺れた尻尾に、机の上の安酒の瓶がかすかに震える。
「衛兵に連れてかれてザマーミロって感じだけどさ、その顔もなかなかの傑作だにゃ~」
ぐい、と顔を近づけてきて、太郎の頬をまじまじと
金色の瞳が、愉快そうに細められた。
「ほらほら、こっち向きにゃって。あ、ここ、ちょっと切れてるにゃ。こっちは青あざ。うわ、腹のとこは後で見るのが楽しみだにゃあ」
「……人の顔を観光名所みたいに言うな」
「にゃはは。まあ、じっとしてにゃって。これ、母さんが調合した特製だから」
クロの手にはいつの間にか小瓶が握られていた。どろりとした緑色の液体が、狭い瓶の中でゆらゆらと揺れている。
歯を使って器用に栓を引き抜き、その液体を布切れの上へと、とくとくと垂らした。
「な、何をするつもりだ」
「決まってるでしょ、竜様。治療だにゃ。さっさとやんないと、あとで動けにゃくなるよ?」
ニコニコと笑いながらも、その手付きに一切の迷いはない。
太郎は思わず一歩下がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。
「笑止。我が
「はい、動かにゃい」
クロの左手ががしっと太郎の顎をつかみ、顔を固定する。
右手の布切れが、容赦なく頬の切り傷へと迫る。
「待て、心の準備というものが――」
「にゃっ!」
ぴた、と傷口に布が当てられた。
一瞬、ひやりとした感触。
次の瞬間――
「ぎ、ぎゃああああああああッ!?!?」
頬から火が出た、と本気で錯覚するほどの痛みが、顔面を貫いた。
「ば、馬鹿っ、これは治療の域を超えて――っ、うおおおおお!」
「じっとしてってば。動くと余計しみるにゃ~」
クロは尻尾をぱたぱたさせながら、今度はあごの下の擦りむけにも、容赦なく薬を塗りつけていく。
「にゃはは、いい悲鳴出すじゃん、竜様」
周囲の客席から、どっと笑いが起きた。
「出た出た、ミケ印の特製薬!」
「効くぞ~、あれは。こないだ俺も塗られたけどよ、しみすぎて一日酒がまずかったわ」
「でも治りは早いんだよにゃ。明日にはそのトカゲの顔も、たぶんマシになってるにゃ」
犬人の
「ギャハハ、竜様が泣いてるぞ! おい酒だ、もう一杯!」
「……貴様ら……!」
「ほい、顔は終わり。あとは腹だけど……それは二階でゆっくりやるにゃ」
クロがぱっと手を放すと、太郎はその場にへなりと膝をついた。頬がじんじんと焼けるように熱い。だが不思議なことに、さっきまであった痛みは、いくぶん和らいでいる気もした。
(効いて……るのか、これで……?)
カウンターが「ダン!」と鳴った。
ざわついていた客たちの視線が一斉にミケのほうへ向く。
ミケはそのまま、店内をぐるりと見回した。
「酒が空いてる奴はさっさと追加を頼む。飲まないなら席を空けるにゃ。今日の見世物はもうおしまいだよ」
その一言で、だらだらと居座っていた連中が、どっと動いた。
「じゃ、俺はもう一本」
「おい勘定だ、そろそろ宿に戻らねえと」
財布を取り出す者、席を立つ者。客たちがわいわいと動き出す中、ミケはカウンター裏に引っ込み、何やら鍋をかき回し始めた。
ほどなくして、湯気の立つ
「タロウ、こっち来にゃ」
呼ばれて、太郎はまだひりひりする頬を押さえながら、ふらふらと近づいていく。カウンター席に腰をおろすと、目の前にその
「食いにゃ。暴れた後は腹が減るだろ」
────────────────────────────────
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
「面白かった!」「続きが気になる!」と少しでも感じていただけたなら、
目次下の【☆☆☆】を【★★★】にカチッとして応援していただけると、
作者は路地裏の片隅でひっそり全力ガッツポーズして喜びます。
ブックマーク(フォロー)や感想コメントも、今後の更新の大きな支えになります。
ぜひ、あなたの応援でこの作品をいっしょに盛り上げていただけたら
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます