第3話

 ついさっきまで「猫人びょうじん、にゃめんにゃー!」と大合唱していた連中も、衛兵の姿を見た途端、一斉に視線をそらして屋根や塀の影へと散っていく。鼠人そじんたちは素早く賭け札やメモをかき集め、どぶの陰へと身を滑り込ませた。


「へっ、逃げ足だけは相変わらず早えな、この辺の連中はよ」


 犬人けんじんの衛兵が、トラの腕をぐいっとつかむ。


「そのトカゲもだ。一緒に来い。派手にやってくれたな、おい」


 別の衛兵が太郎の肩をがしっとつかんだ。分厚い手の重みが、うろこの上からでもずしりと伝わる。


 逃げようと思えば、逃げられなくもない。


 けれど――横目で見れば、トラは堂々と腕を取られたまま、逃げる素振りも見せていなかった。


(……ここで一人だけ逃げるのは、“竜的行動指針”に反する)


太郎は小さく息を吐き、観念してその手に身を預けた。


「待ちにゃ」


 色あせたエプロンを締めた猫人の女が、店の陰から滑り出る。三毛柄の毛並みは、艶があり、よく手入れされている。小柄な体つきだが、細い手足には無駄のない筋肉が浮かび、その身のこなしにはしなやかさと油断のなさがにじんでいた。

 

「このトカゲは、うちに転がり込んできたばかりの新参だにゃ。

 ケンカ売ったのはトラの方。連れてくなら、トラだけにしときにゃ」

 

「おいおい、ミケねえさんよ。あんたんとこの前で派手にやらかしてたのは、このトカゲもだぜ?」


「見りゃ分かるにゃ。でも最初に手を出したのは、そっちの茶トラ。

 うちの“看板”がケンカ売った形になるんだ。責任の取り方は、こっちでも考えとくよ」


 さらりと告げながら、ミケは太郎の方をちらりと見る。

 太郎は何も言えずに口をつぐんだ。


「トラはまた説教コースだな」

「おうよ。こっちも毎回、書き物が増えてかなわねえんだ」


 犬人けんじんたちが顔をしかめ合う。

 一人が太郎の肩から手を離し、ミケへと向き直った。


「……新顔は、今回は見逃してやる。ねえさん立ち会いってことで、口頭注意だけだ」


 ミケが口の端をにやりと上げると、衛兵たちも苦笑いを返した。


「よし、じゃあトラ。行くぞ」

「チッ……」


 トラは舌打ちしながらも、大人しく腕を引かれて歩き出す。


 茶トラ模様の背中が、夕暮れ色の路地の奥へと小さくなっていく。


「おい、トカゲ」


 衛兵の一人が、振り返りもせず怒鳴る。


「次はないと思えよ」


「……俺は竜だ。トカゲではない」


「うるせえ。次やったら、おりの中で竜ごっこさせてやるからな!」


 犬人たちの笑い声が、足音と一緒に遠ざかっていく。


 横でミケが、ふうっと長く息を吐いた。


「……行くにゃ。日も暮れる」


 そう言って、太郎の袖を軽く引く。


 迷い猫横丁の石畳は、夕焼けと、頭上に渡された洗濯物の影でまだら模様になっていた。

 さきほどの喧騒けんそうは一段落し、代わりに安酒と煮込みの匂いが、路地のあちこちから立ち上っている。


 太郎は腹を押さえながら、ミケの少し後ろを歩いた。

 うろこの下までずきずきする鈍痛が残っているが、足が止まるほどではない。


(あの猫……バカ力にもほどがあるだろ……)


「で?」


「なんであそこで『猫ごとき』なんて言葉が出てくるかにゃ」


「事実を述べただけだ。竜はすべての頂点――」


「はい竜様、そこまで」


 ぴしっ、とミケの指が太郎の額を小突いた。


「いっ……!」


「ここは猫人びょうじんのシマ。言葉選びくらいは覚えとくにゃ。

 あんたは、客筋から見りゃ“よそ者”にゃんだから」


(……よそ者、か)


 その言葉は、前世でも今世でも、どこかずっと自分につきまとっている気がした。

 クラスの中でも、街の中でも、そして今、この迷い猫横丁の真ん中でも。


「…………気をつける」


 ミケはふうと、もうひとつため息をついた。

 けれど、その横顔は、さっきよりほんの少しだけ柔らかい。


「まあ、逃げ出さなかっただけマシかにゃ」


「……え?」


「トラ相手に、立ってられたなら。

 腕は、本物かもしれにゃいね」


 何でもないことのように言い捨てて、ミケはまたくるりと背を向ける。


 曲がり角をひとつ抜けると、見慣れた二階建ての木造家屋の影が、夕焼け空を背に浮かび上がる。


 外壁の板はところどころ剥げ、継ぎ足した板と鉄の補強金具が夕陽を受けて鈍く光っている。

 屋根の縁には、猫人びょうじんたちの小さな足跡がまだれて残っていた。


 入口の横では、手書きの木札が風に揺れている。


 ――「何でも屋・ミケ

   日雇い/雑用/寝床 相談可」


太郎はミケの背中を追って、きしむ扉の向こうへと足を踏み入れた。






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