第2話

 トラは次の瞬間、地を蹴った。


 低く沈めた腰から、ばね仕掛けのような踏み込み。


(速っ――!)


 反射的に、太郎は喉の奥で短くつぶやく。


「《岩躯がんく》……!」


 身体に刻まれたルーンが、うろこの下で橙色だいだいいろにきらめき、全身が堅牢さを宿す。


「今、トカゲ光ったにゃ?」

「身体強化じゃねーか。ガチのやつだ」


 ざわり、と人垣の空気が揺れた、ほぼその瞬間。


「おらぁ!」


 風を裂く音とともに、トラの拳が飛び込んでくる。


 避けきれない、と悟った瞬間――

 熱い衝撃が、太郎の腹を穿うがった。


「入ったぁ!」

「トラ兄のボディ、もろにもらったぞ!」


「……っが!」


 肺の空気が一気に押し出され、太郎は二歩、三歩と後ろによろめく。

 腹部のルーンが、じりじりと明滅した。


(いってぇ……! これ、《岩躯がんく》なかったら普通に死んでたろ……)


 観衆から、歓声とどよめきが入り混じった声が上がる。


「さすがトラ兄!」

「あいつ、まだ倒れてねーぞ?」

「今、腹から岩みたいな音したにゃ……」


 トラは追撃に移ろうと、一歩大きく踏み込む。


「どうした“竜様”、そんなもんかにゃ?」


 太郎は奥歯をみ締め、無理やり身体を前へ倒して踏みとどまると、平静を装うように口元だけで笑ってみせた。


「クク……蚊ほどには効いたぞ、猫よ」


 本音では、腹筋が盛大に悲鳴を上げている。

 だが、“竜的行動指針”には、はっきりこう書いてある。


『第六条 いかなる時も余裕をまとえ』


 太郎は右足で地面を強く踏みつける。ほこりっぽい路地の土が、ぱらりと小さく跳ねた。


「お返しだ……《竜爪りゅうそう》!」


 《岩躯がんく》で補強された硬さを乗せ、ボディ目がけてフックをたたき込む――


 だが、そこにトラはいなかった。


「おっそいにゃ」


 トラの身体が、ひらりと横へ滑る。

 しなやかで無駄のない身のこなし。太郎の拳は空を切り、毛先をかすめただけで終わる。


 続けざまに放った蹴りも、しゃがみ込んだトラの耳上を虚しく通り過ぎた。


 すぐさま、反撃が飛んでくる。


 重たい拳が、肩や脇腹に次々とめり込んだ。


「くそっ……!」


 太郎は一度、大きく距離を取る。

 荒くなりかけた呼吸を抑えながら、細く目をすがめた。


(力押しじゃ分が悪い……“視えて”ねえ。動きが読めてない)


 心を鎮めるように、ほんの一瞬だけまぶたを閉じた。


「……水の理、静謐せいひつの鏡面――」

「揺らぐことなき映し身を、我が心に――《明鏡めいきょう》!」


「今度は目が光ったぞ!?」

「さっきと雰囲気違くねえか?」

「トカゲ、急に落ち着いた顔してるにゃ……」


 視界が、すうっと澄んでいく。


 野次馬たちのざわめきが遠のき、耳に届くのは自分の鼓動と、トラの足音だけ。

 色彩はわずかにせ、その代わり、輪郭だけがくっきりと浮かび上がった。


 トラが鼻を鳴らし、再び踏み込んでくる。


「今度は――避け――」


 言い終えるより先に、トラの肩の筋肉がぴくりと強張る。

 右が来る。そう“視えた”。


 太郎は半歩だけ、左へ滑るように動き、その流れに合わせてカウンター気味に右ストレートを突き出した。


 鈍い音とともに、拳がトラの頬をとらえる。


「当てた!?」

「今の見たかにゃ!? トラ兄の踏み込み、読んでたぞ!」

「正面からカウンターとか、ハンパじゃねえ……」


 トラの頭がわずかに振られ、頬の毛並みにひと筋、血がにじむ。


「血、出てる……」

「あのトカゲ、ただ者じゃないにゃ」


 トラは一歩、二歩と後ろへ退き、拳で口元をぬぐった。


「……チッ。調子に乗りやがって……」


 目つきが、ほんの少しだけ鋭さを増す。

 茶トラの尻尾が揺れた。


「なら、こっちも遊びは終わりだにゃ」


 ナックルを構え直し、低く詠唱する。


「白き息、凍てつく牙……俺の拳に宿れ――《氷牙ひょうが》!」


 次の瞬間、革のナックルがきしむような音を立て、青白い霜がじわりと浮かび上がった。


 拳の周囲の空気が、一気に冷え込む。

 路地のほこりが、きらりと白く光った。


「……ッ!」


 太郎の背筋に、ぞわりと戦慄が走った。


(やべえやべえやべえ……! よりによって氷属性かよ!)


 太郎が半ばやけくそで構えを取り直した、そのとき――


「おいおいおい! またお前らか!」


 よく通る怒鳴り声が、路地の入口から響いた。


 乾いた金属音が路地に響く。

 振り向いた太郎の視界に、青い腕章を巻いた犬人の衛兵たちが飛び込んでくる。革靴のかかとを小気味よく鳴らし、腰の警棒を打ちつけながら、早足でこちらへ迫ってきていた。


 先頭を歩く大柄な犬人は、短く刈り込まれた三角耳をぴんと立て、つり上がった目で人垣をねめつける。ひくつく鼻面が、血とほこりの匂いを嗅ぎ分けているのが、遠目にもわかった。


喧嘩けんか騒ぎは、だいたい顔ぶれが決まってるんだよなあ……トラ、またお前か」


「タイミング悪いときに来やがって……チッ」


 ナックルにまとわせていた《氷牙ひょうが》の魔力をふっと解く。

 青白い冷気が霧散し、路地の空気が、ほんの少しだけ元の温度を取り戻した。


 野次馬たちは「あーあ」「解散だ解散」「続きいつだにゃ」と口々に言いながら、名残惜しそうに散り始める。

 鼠人そじんたちはそそくさと賭け金の清算を始め、猫人びょうじんの子どもたちは「トラ兄また怒られるにゃー」と笑いながら、屋根から次々と飛び降りていった。


 太郎は、わざと肩を揺らして笑う。


「フッ……巡回の犬が来なければ、たたき伏せていたところだがな」


 内心では(マジで助かった……! あの氷の拳、一発でももらってたら泣いてた自信がある)と全力で思っている。


 トラがすっと太郎のほうへ歩み寄った。

 近くで見ると、頬に入れた太郎の一撃の跡が、じわじわと赤く腫れ上がってきている。


 トラは、すぐそばまで来ると立ち止まった。


 にらみつけるでもなく、かといって目をそらすでもなく、太郎を見る。

 尻尾の先が、ぱたぱたと落ち着きなく揺れていた。


「……チッ」


 低く舌打ちすると、いきなり太郎の胸ぐらをつかむ。


「お、おい……!」


 ぐい、と力任せに引き寄せられた太郎の鼻先に、トラの顔がぐっと近づく。

 黄色い瞳が、間近でぎらりと光った。


「ひとつだけ、言っとくにゃ」


「――猫人、にゃめんにゃよ」


「……さっき、散々聞いた台詞だが?」


 太郎は肩をすくめてみせる。


 トラは、ふ、と鼻で笑った。


「……まあ、さっきのカウンターは……ちっとは、効いたにゃ」


 そう言うと、頬の腫れかけている場所を、親指でぐりっと押してみせる。


 太郎は、一瞬ぽかんと目を瞬かせる。


「…………おみゃえな」


 トラは太郎の胸ぐらを放すと、一歩分だけ距離を取った。

 耳が、ほんの少しだけ寝ている。


「別に、おみゃえのこと、認めたとか、そんなんじゃねーにゃ」


「ほう」


「ただ――“竜”っつう看板掲げてイキってるトカゲが、口だけの腰抜けだったら、”何でも屋・ミケ”の名折れだにゃ。それだけだ」


 路地の入口では、衛兵たちが野次馬を散らしながら、こちらへじりじり近づいてきている。


「おーいトラ! お前また説教コースだかんな!」


 一番前を歩いてくる犬人の衛兵が、うんざりしたように声を張り上げた。






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