月に帰る、君の場所

@Kasinoki19

第1話 街にそそいだ光

 東京の朝は、いつも少しだけ忙しない。


 けれど、菜月(はづき)が暮らす下町の一角には、昔ながらの静けさがまだ残っていた。古い家屋の並ぶ路地に朝日が差し込み、ゆっくりと影が伸びていく。その光の中で、菜月はゆっくりと目を覚ました。


「……おはよう、ばあちゃん」


 座布団に座って新聞を読んでいた祖母が振り向き、目尻を下げた。


「おはよう、菜月。今日は撮影の日だろう? 朝ごはん、できてるよ」


 祖父母と暮らし始めて十年以上になる。まだ幼い頃、事故で両親を亡くし、突然世界が暗闇に沈み、孤独に閉じ込められた時に手を差し伸べてくれたのが、この家の温かな灯りだった。


 菜月は、祖母が作った味噌汁の湯気を胸いっぱいに吸い込みながら、今日の予定を確認する。雑誌の表紙撮影。都内のスタジオは午前中からフル稼働だ。


「忙しいのはいいことだよ。あんたの顔を見ると、みんな元気になるんだって」


 そう言って笑う祖母の言葉に、菜月は照れ笑いを浮かべた。


 (元気になっているのは私の方だよ。)

 

 ばあちゃんとじいちゃんがいるから、私はどこにいても帰ってこられるんだ。


 そんな気持ちを胸に秘めながら、菜月は玄関で靴を履いた。


「行ってきます。今日もちょっと帰りが遅いかも」


「気をつけるんだよ。無理はしないでね」


 祖母の声を背中に受け、菜月は朝の街へと踏み出した。


 タクシーを降りてビルに入ると、すでにスタッフたちが慌ただしく動き回っていた。

 撮影スタジオの扉を開けた瞬間、眩しいライトの下が菜月を待っている。


「おはようございます、菜月ちゃん!」


「今日も綺麗だね、ほんと。肌の調子いいねぇ」


 メイクスタッフやカメラマンが次々と声をかけてくる。


 仕事が嫌だったことは、一度もない。

 モデルという仕事は、菜月にとって“生きている”と実感できる場所だった。


 鏡の前に座り、メイクが始まる。

 ライトの反射で、自分の瞳が少し金色に輝くのが見えた。


 (ああ、今日もちゃんと“菜月”でいられる。)

 そんな安心が胸に広がる。


「ねぇ菜月ちゃん、最近すごいんだってね。SNSのフォロワー、また増えてるじゃない」


 メイクさんが何気ない調子で言うと、他のスタッフたちも頷いた。


「このまま行けば、国内モデルでトップクラスじゃない?」


「だってさ、綺麗すぎるもん。会った人、全員ファンになっちゃうよ」


 菜月は苦笑して肩をすくめた。


「ありがとうございます。でも、あんまり実感ないんです」


 内心では、不思議な感覚がいつもあった。

 有名になればなるほど、自分がどこか現実から浮いていくような


 月の光だけがやけに鮮明になるような感覚。


 鏡の中の自分が、ときどき別の世界のだれかみたいに見える瞬間がある。


 スタッフに促され、衣装のフィッティング室に入ると、既にカメラマンの渡瀬が待っていた。


「今日のテーマは“光”。菜月ちゃんの透明感が一番出ると思ってね」


 “光”。

 

 その言葉に、小さな胸の疼きが走った。


 どうしてだろう。

 

 光って言葉、ずっと前から好きなんだ。


 そんなことを思いながら衣装に袖を通す。


 スタジオに立つと、ライトが一斉に点灯する。


 「はい、菜月ちゃん。もう少しだけ顎を上げて……そう、いいね、今日も完璧だよ」


 カメラのシャッター音が鳴り響き、世界が一瞬ごとに光で切り取られていく。


 撮影が終わる頃には、スタッフ全員がため息混じりに口をそろえる。


「素敵だね……」

「菜月ちゃんみたいなモデル、あと何十年出てこないよ」

「いや、もう“伝説”の域だね」


 菜月はそのたびに、ただ困ったように笑うしかなかった。


 私は、そんな大層なものじゃない…。

 ただ祖父母に胸を張れる生き方をしたいだけ…。


 それだけなのに。


 撮影が終わった帰り道。

 夕暮れが街を朱色に染める頃、菜月は歩きながらスマホの通知を確認した。


「……ん?」


 数万人単位でフォロワーが増えている。


 理由はすぐにわかった。

 トレンドには、ある男性の名前が並んでいた。


 IT業界の若きカリスマCEO、朝倉翔真。


 「菜月さんの美しさは世界を変える」とテレビで語ったらしい。


 コメント欄は騒然としている。


「朝倉社長が菜月にプロポーズ?」

「業界トップが本気で狙ってるらしい」

「次のパートナーは菜月だって!」


 菜月の心は、ざわつかなかった。

 むしろ、とても静かだった。


 どうして、みんなは“私”を好きだと言うんだろう。


 自分でもつかめない何かが、胸の奥でふわりと揺れた。


 その震えが、このあと訪れる“5つの求婚”の始まりであることを、菜月はまだ知らなかった。

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2025年12月17日 21:00
2025年12月20日 21:00
2025年12月23日 21:00

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