第30話
3月12日、19時。
「ブーランジェリー・ミモザ」の看板の灯りが落ち、シャッターが半分だけ下ろされていく音が、店の奥のロッカールームまで響いてきていた。
玲司は、制服のポロシャツを脱ぎながら、小さくため息をつく。
(……落ち着け。別に、変なことじゃない)
ロッカーに掛けてあった自分の私服を引っ張り出しながら、頭の中では、どうしても二日前の光景が蘇る。
スーパー銭湯。
男湯と女湯の入口前。
『ボク、女の子だよ?』
あの時の、楽の顔。
悪びれも、照れも、一切なかった。
(……いやいやいや)
パーカーを頭から被りながら、玲司は顔を手で覆いたくなる。
ミントグリーンの髪。
中性的な顔立ち。
仕草も、言葉遣いも。
「どっちとも取れる」要素は山ほどあったのに――そこに「女子」という答えを置いて考えたことは、一度もなかった。
(俺、どんだけ鈍感なんだよ……)
そんなセルフツッコミを心の中でしていると――。
「おつかれ、玲司」
ロッカールームのドアががちゃりと開いて、件の本人が入ってきた。
バイト用の白シャツにエプロン姿。
ミントグリーンの髪は、店のときと同じようにバンダナでまとめている。
あの日のカミングアウト以来、楽の態度は一ミリも変わっていない。
「……お、おう」
変に意識すまいと、玲司はロッカーの中をごそごそいじるフリをする。
楽はそんな様子など気にした様子もなく、さっさとエプロンの紐をほどき、制服のボタンに手をかけた。
「よいしょっと」
「ちょ、待て待て待て待て」
反射的に、玲司はその手首を掴んでいた。
「ん?」
楽が、きょとんとした顔でこちらを見る。
「普通、女子は男子と一緒に着替えないんだよ」
「へえ」
心底不思議そうな声。
「ボクが女の子だって気づいた途端、恥ずかしがるんだ。不思議だね」
楽は、掴まれた手をひらひらさせながら軽く笑った。
言われてみれば、今までもこのロッカールームで一緒に着替えていた。
でもその時は、「そういうもの」として頭のどこかで処理していたのだ。
「そうだ、俺は鈍感なバカだよ」
自分で言いながら、玲司は頭をかく。
「でも……知ってしまった以上は、これまでと同じってわけにはいかない」
意識の問題だけじゃない。
世間的なルールとか、マナーとか。
そういうものが、否応なしに頭をよぎってしまう。
「……ふうん?」
楽は、どこか興味深そうに首を傾げた。
からかうでもなく、責めるでもなく。
ただ純粋に、「へえ」と観察している目。
(この人、ほんとマイペースだよな……)
「と、とにかく。俺は先に出てるから。鍵閉めるときに声かけてくれ」
それだけ言って、玲司はロッカールームから逃げるように出ていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、楽はぽつりと呟く。
「……あれが、思春期ってやつ?」
誰にともなくそう言って、今度はゆっくりと自分の制服のボタンを外し始めた。
◆
夜の空気は、まだ少し冷たかった。
街外れの神社。
数日前まで戦場だった場所は、今は嘘みたいに静かだった。
石畳も、拝殿の階段も、手水舎も。
あの時、
桜の木の下も、きれいな砂利が敷き詰められているだけだった。
「……やっぱり、全部なかったことにされてるんだな」
境内の中央で、玲司は小さく息を吐いた。
10日の戦闘。11日のオフを挟んでの今日、12日。
いつものようにバイトを終え、夜、またこの神社に集まった。
「まあ、ボクらが片付けたわけじゃないのは確かだよね」
楽が、石畳をつま先で軽く蹴る。
「グリップ関連の痕跡は、向こうが処理するってフィースが言ってたし」
「でも、久瀬の血……本当にどこにも残ってないんだ」
澪が、拝殿の横のあたりをじっと見つめる。
彼女の矢が貫いた右目。
顎の骨を砕いた光の軌跡。
思い出そうとすると、喉の奥がきゅっと締め付けられる。
その感覚は、玲司も同じだ。
(——初めて、人を殺した)
久瀬轟馬。
グリップに侵され、人間としての形を保てなくなりかけていた男。
それでも、最後の一太刀を放ったのは、自分だ。
鎖剣を引き抜いた時の感触。
背骨をなぞる骨の固さ。
あれは、一生消えない。
消えちゃいけない。
(俺は、この手で命を奪った)
だからこそ、そのぶん背負う。
これから先、何があっても。
自分が戦うたび、自分の選択で誰かの生き死にが左右されるたび――その重みを、忘れない。
胸の奥に、そんな決意だけは静かに沈んでいた。
「……あの、その」
ふいに、澪の声が横からした。
振り向くと、彼女が何故かもじもじと楽を見上げている。
「どうしたの、澪?」
楽が首を傾げる。
「やっぱり、楽くん……じゃなくて、楽
「ああ、その話」
楽は、あっさりと笑って肩をすくめた。
「ボクと澪は裸の付き合いをした仲でしょ? ボクが女の子だってことは、見て分かったはずだけど」
「だ、だよね……そうなんだよね……」
澪の顔が、見る間に真っ赤になる。
スーパー銭湯。
女湯。
当然だが、そこに入ったのは澪と楽だけだ。
二人で脱衣所に入り、湯船に浸かり――そこで楽の身体を見て、澪は「あ、やっぱり女の子なんだ」と理解したのだ。
その「裸の付き合い」というワードが、玲司の耳にも突き刺さる。
(裸の——)
思わず、楽の身体を見てしまった。
視界の端で、細身のシルエット。
—―いやいや、見てどうする。
「……玲司くん?」
冷たい声が、すぐ横から降ってきた。
澪の目線。
いつものおどおどした雰囲気とは違う、「ジトッ」とした圧を含んだ眼差し。
「い、いや、今のはその……反射というか……ごめんなさいほんとすみませんでした」
秒速で土下座しそうになったところで――。
「はいはいそこまで」
ふわりと柔らかい声が、境内に滑り込んできた。
気配もなく現れた白シャツの青年。
フィース・ラグランジュ。
「せっかく青春の甘酸っぱい香りが漂い始めたところ悪いけどね、今日は別件もあるからさ」
「青春って言うな」
「甘酸っぱくないです……!」
同時に返す玲司と澪を見て、フィースは楽しそうに笑う。
「ボク、そこまで男の子に見えるように振る舞ってたつもりないんだけど」
楽が首をかしげる。
「そこが問題なんだよ……」
玲司は頭を抱えた。
「で、別件って?」
楽が、表情を切り替える。
フィースはいつものタブレットを取り出して説明を始める。
「単刀直入に言えば、この戦いは個人戦からチーム戦に移行することになった」
楽が、その先を引き取るように言った。
「ボクらみたいな?」
フィース頷く。
「君たちはもう実質チームだけど、今日の時点で正式に『同盟』として登録したい。いいかな?」
「……登録?」
「簡単に言うと」
フィースは立ち上がり、三人を順番に見た。
「これから先、君たちは一つのチームだ。個人で狙われることももちろんあるけど、基本的には『三人セット』として別のチームから見られる。逆に言えば、三人一緒にいれば生存率も上がるってわけ」
「同盟ってことは……俺たちは、今後も三人で動くのが前提ってことだよな」
玲司は少し考える素振りをする。
「うん。もちろん、四六時中一緒にいろってわけじゃないけどね」
フィースは肩をすくめる。
「ただ、いざ戦闘になったときに『誰と組んでいるか分からない』『動きが噛み合わない』って状態にされるのは、観測者側としても望ましくない。だからある程度固定メンバーを決めておくことにしたってわけ」
「……なんか、ゲームみたいだね」
澪がぽつりと言った。
「パーティー組んで、ダンジョンに潜る……みたいな」
「そうそう。で、そのダンジョンが現実の街で、ゲームオーバーが本当の死だってところ以外は、わりと似てる」
「そこが一番大事なとこだろ……」
玲司がぼそっと突っ込む。
フィースは、そんな三人を眺めながら、小さく笑った。
「ともあれ。君たち三人がチームを組むっていうのは、ボクとしては歓迎だよ」
「そりゃ観測的にもおいしいからだろ」
「それもあるけどね」
フィースは、少しだけ真剣な顔になった。
「一人じゃ届かないところに、三人なら届くってこともある。今日の久瀬戦がまさにそうだったでしょ」
楽の足止め。
澪の一矢。
玲司の一刀。
どれが欠けても、あの結末にはたどり着けなかった。
三人は、自然と視線を合わせた。
「……うん」
澪が、小さく頷く。
「じゃあ」
フィースは、両手をぱんと叩いた。
「これで正式に、チーム登録完了。おめでとう、君たちは今日からちゃんとしたチームだ」
「ちゃんとしてるかどうかは怪しいけどな……」
玲司は苦笑しながらポケットに手を突っ込む。
ふと、そこで思い出した。
「そういやさ」
「ん?」
「同盟って言うなら、もう一人くらい誘ってみてもいいよなって」
「もう一人?」
楽と澪が同時に首を傾げる。
玲司はスマホを取り出し、最近追加されたばかりの連絡先を開いた。
そこには、「七夕朱莉」の名前。
「……あの子か」
楽が、すぐに察したように目を細める。
「『
「どうせなら声かけてみてもいいかなって思って」
玲司はメッセージ欄を開いて、指を動かし始めた。
『今、神社にいる。もしよかったら、同盟の話をしたい』
シンプルに、それだけ。
送信ボタンを押した瞬間――既読。
「早っ」
思わず声に出る。
その一秒後。
ぽん、と通知が返ってきた。
『無理』
玲司は、思わず三人に画面を見せた。
楽が「わあ」と笑い、澪が「あ、やっぱり……」と苦笑し、フィースは「うんうん」と頷いた。
玲司は、スマホをポケットに戻した。
断られたのは、正直ちょっと残念だった。
「……さてと。チーム結成も済んだし、今日のところは軽くコンディションの確認だけにしようか」
「うん」
「了解」
楽の提案に、澪と玲司が気持ちを切り替える。
こうして笑っていられる時間が、いつまで続くかは分からない。
それでも――。
三人で戦うと決めた。
三人で生き残ると決めた。
その約束だけは、今、ここに確かにあった。
春の夜風が、神社の境内を静かに撫でていく。
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繚域の鎖剣操者(クロスリンカー) 〜ただの学生だった俺が異域の武器『グリップ』の適合者に選ばれた件〜 馬場大介 @pomeraniandaisuki
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