第二章

プロローグ②

 3月11日、日の出前。


 国道沿いの24時間ファミレスは、夜明け前特有の、妙に薄い静けさに包まれていた。

 厨房からは油の弾ける音、ホールには清掃用ワックスの匂い、そしてどこか眠たげなBGM。客は、新聞を広げたトラック運転手と、ノートPCを開いた学生が一人ずつ。


 窓際のテーブル席には、場違いに整った二人組が向かい合って座っていた。


 一人は、白シャツに薄手のニット、黒縁の眼鏡という気の抜けた格好の青年――フィース・ラグランジュ。

 対面には、夜の明かりを一身にまとったような、黒髪の女が座っている。


 腰まで伸びた黒髪は、光を吸い込むような艶を帯びて背中に流れ落ちている。

 目は切れ長で、どこか哀しげな“観察者の静謐”を宿していた。視線を向けられると、見透かされているのに責められているわけではない、そんな不思議な圧と優しさが同居している。

 高身長だが細身の体躯を包むのは、黒のロングコート。その縁と袖口には、月光を思わせる銀のラインが控えめに走っている。


 ルゥ・クレア。

 異域の観測者の一人。


 テーブルの上には、飲みかけのブレンドコーヒーと、食べ終わったミニパフェのグラスだけが残っていた。


「……ずいぶん、甘いものに逃げたね」


 フィースが、パフェの空グラスを顎で示す。


「糖分は、短期的な判断能力を補強してくれるからね」


 ルゥは、スプーンの柄を指の間でくるりと回しながら答えた。

 声は低めだが、耳に心地よい透明さがある。


「それに、こういう夜更かしには、それなりの雰囲気を合わせる必要があるだろう?」


 フィースは小さく笑って、マグカップを傾けた。

 コーヒーはもうぬるくなっていたが、それでも苦みははっきりと舌に残る。


 ――3月6日。

 百貨店のフードコートで、フィースがユノに海鮮丼を奢らされた、その日の夜。


 ルゥは、フィースのところへ直接やってきて、ひとつの依頼を持ちかけていた。


久瀬轟馬くぜ ごうまを――殺してほしい』


 観測者の口から出るには、あまりにも直截的な言葉。


 フィースは、その依頼を正面から引き受ける代わりに、ある種の迂回ルートを選んだ。

 自分が手を下すのではなく、自分の観測対象たる人間たち――暮上玲司たち三人組を、久瀬の進路上へと「さりげなく」誘導する。


 結果は、数時間前にこの目で見た通りだ。


 久瀬轟馬は、自らの血とグリップに呑み込まれながら、神社の境内で崩れ落ちた。

 その決定打を放ったのは、臆病者を自称する少年と、ミントグリーンの髪の少女と、遠くの塔から矢を放った少女――フィースにとって、いま最も観測しがいのある「三人組」だった。


「……で」


 コーヒーを置きながら、フィースはルゥを見た。


「わざわざ、こんな時間に直接の感謝をしに来たってことは、つまりそういうことなんだろう?」


「そういうこと、だね」


 ルゥは、わずかに微笑んだ。

 笑みの形は穏やかだが、その奥にある瞳は静かに冴えている。


「改めて――ありがとう、フィース。君が彼らをうまく誘導してくれたおかげで、久瀬轟馬は、こちらの想定に近い形で脱落してくれた」


「近い形って言うには、だいぶ派手だったけどね」


 フィースは肩をすくめる。


「昼間の大通りであれをやられた時は、こっちの胃が痛くなったよ」


 ルゥは素直に頷いた。


「君のところだけじゃない。各地の観測線で『一般人への影響が大きすぎる』という報告が上がっている。久瀬轟馬のような破壊衝動とグリップの適合率が極端に高い例は、我々の観測に悪影響を及ぼす」


 指先でカップの縁をなぞりながら、ルゥは言葉を選ぶように続ける。


「現に、グリップ使い以外の被害が尋常の範疇を超えているからね。本来、我々が観たいのは『武器と持ち主がどう変わっていくか』であって、『都市の崩壊』じゃない」


「まあ、そうだね」


 フィースは窓の外をちらりと見た。


 街灯はオレンジ色の光を落とし、コンビニの看板が夜空に浮かんでいる。

 遠くの方で、まだうっすらと赤と青の点滅が見える気がした。緊急車両の尾を引く光。


「毎回、あの規模で暴れられると、いくら情報の改竄や隠蔽をしても綻びが出る」


「だからこそ、だよ」


 ルゥは、真っ直ぐフィースを見る。


「君の観測対象たちの成長の機会として、久瀬との戦闘を組み込む。その戦闘の結果として、久瀬を盤面から退場させる。観測者としての介入としてはギリギリだが――全体最適としては、これがマシな選択だと判断した」


「うーん」


 フィースは、マグカップを指先でくるくる回した。


「でも良かったのかい? 間接的とはいえ、観測者の意向を戦いの結果に反映させて。君はそういうの、あまり好きじゃないタイプだと思ってたけど」


「好きじゃないよ」


 ルゥは即答した。


「本来なら、参加者たちが自主的に殺し合いをしてくれて、その中から“面白い変化”だけを拾うのが理想だ。私たちは舞台装置であって、脚本家じゃない」


 けれど、と彼女は静かに続けた。


「今回の久瀬は、“舞台装置を壊し始めた役者”なんだ。舞台そのものが崩れたら、芝居は続けられない……だから、少しだけ、袖から台本を差し込んだ。そのくらいは、許容される範囲だと信じているよ」


 観察者の静謐。それは、冷たさだけを意味しない。

 壊れては困るラインをきちんと見積もるための、距離と目。


 フィースは、ふう、と小さく息を吐いた。


「まあ、ボクとしても、あの男には早めに退場してもらいたかったしね。毎回あんなに盛大に一般人を巻き込まれたら、こっちの保存領域がパンクする」


 監視カメラの映像。

 SNSに上がる動画。

 ニュースの編集方針。


 人間たちの認識から、グリップの存在を外すための、水面下での調整。


「その後処理に追われてたせいで、全体会議に出られなかったんだよね、君」


 ルゥが、ストローの袋を指先で丸めながら言う。


「だから、今日はその決議事項の共有も兼ねて、こうして来てもらった」


「そう、それ」


 フィースは、カップをソーサーに戻して、姿勢を少し正した。


「気になってたんだよ。全体会議、結局どうなったの?」


 ルゥは、テーブルの端に置いてあった紙ナプキンの束から一枚を抜き取ると、ペンを取り出した。


 さらさら、と。


 そこに、簡単な数字を書き込みながら言う。


「まず——参加者の減少ペースが速すぎることが問題視された」


 ナプキンの上には、いくつかの数字が並んでいく。


「最初は150名弱」


 グリップを与えられた人間の数だ。


「それが、3月11日未明時点で残り79名。既に約半数が脱落している」


「……まあ、そうなるか」


 フィースは、目を細める。


「このペースだと、3月末まで観測対象が持たない」


 ルゥは、ナプキンに引かれた線を指先でなぞった。


「そこで観測者たちは、対策を打つことにした。戦いの構造を、個人戦からチーム戦に変化させる」


「……チーム戦?」


 フィースが目を瞬いた。


「具体的には?」


「グリップ使用者たちに、三名程度のサイズで同盟を組ませる。観測者が意図的にグループを作り、対立構造を個人間ではなくチーム単位に変える」


 ルゥは、さらさらとナプキンの上に三つの丸を描き、それを線で結んだ。


「生存率を少しでも底上げするために。単体では淘汰される参加者にも、役割を与えるために。それが、会議で決まった方針だよ」


 ルゥは、意味ありげに微笑む。


「君のところの子たちも——ね」


 玲司、楽、澪。


 三人。


 フィースは、ほんの少しだけ視線を伏せた。


「まあ、あれは正直、誰かが手を回さなくても自然とくっついてただろうけどね」


「そういうこと」


 ルゥは、頷く。


「ともかく、我々の目標は変わらない。『期限いっぱいまで、グリップの観測データを集める』。そのために、参加者を適度な数で生かし続ける構造にシフトする——というわけだ」


 ルゥが、わずかに口角を上げたのち、椅子から立ち上がった。

 黒のコートの裾が、静かに揺れる。


「――さて。そろそろ戻らないと」


 伝票を取ると、軽やかな足取りでレジの方へ向かう。


 途中で、ふと振り返った。


「感謝の証に、今日は私がおごらせてもらうよ」


 フィースは、そこで初めて目をぱちくりと瞬いた。


「……まさか」


 眉をひそめ、テーブルの上を見回す。


 あるのは、空のパフェグラスと、飲みかけのコーヒーカップ。


「コーヒー一杯で、この件のにしようとしてる?」


 ルゥは、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた。


「……ダメ?」


 その顔が、観測者にあるまじき財布の薄さを滲ませていて、フィースは思わず額を押さえた。


(やれやれ……)


 こういうところの抜け具合が、ルゥ・クレアという女の、妙な人間味でもある。


「まあいいや」


 フィースは、小さく微笑んで肩をすくめた。


「じゃあ、ありがたくパフェとコーヒーのおごりということで。一応言っておくけど、借りはこれでチャラだからね?」


「了解」


 ルゥは、いつもの静かな顔に戻り、会釈一つでレジの方へ消えていった。


 窓の外では、ようやく東の空がほんのりと白み始めている。


 新しい一日と、新しいルールの始まりを告げるように。

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