第29話
久瀬轟馬の身体が、桜の花びらの上に崩れ落ちてから——どのくらい時間が経ったのか、よく分からなかった。
境内にはまだ、血と金属と土の匂いが混じった空気が漂っている。
頭のどこかはやけに冷静で、けれど足の裏の感覚はやわらかくて不安定だった。
倒れた久瀬のすぐそばに、
さっきまで、あれが人を、街を、何もかもを叩き壊していた。
その持ち主は——もう、動かない。
楽の
—―久瀬轟馬は、俺たちの手で殺された。
(……俺の手で、か)
柄から伝わってきた、肉と骨を裂く感触はまだ手のひらに残っている。
引き抜いたときの、嫌な重さも。
喉の奥がひりついた。
吐き気がするほどの生臭さと、妙な空虚さが胸の中でぐるぐる回る。
初めての殺人。
それを、ちゃんと自分の言葉で認めた瞬間、玲司は胃のあたりがきゅっと縮まった。
楽と澪がいなかったら、こんな状況まで持っていくことすらできなかった。
でも、最後の一線を越えたのは間違いなく俺だ。
守るためだ、とか。
仕方なかった、とか。
そういう言い訳は、いくらでも並べられる。
けれど、刃を押し込んだ瞬間の感触は、言い訳とは別の場所に刻みつけられていた。
(……そっちから目をそらしたら、多分終わりだよな)
自分で選んだ。
逃げないって決めた。
守りたいって思った。
それを全部ひっくるめた結果が、今、目の前に転がっている死体だ。
俺は、握っていた
鎖が、ほどけていく。
肩から胸、腹へ巻き付いていた紺色の鎖が砂のように崩れ、春の風に溶けるように消えていった。
残されたのは、自分の両手だけ。
少し震えている指先を、ぎゅっと握りしめる。
(これから先も、こういうことは、きっと何度も起きる)
久瀬みたいなやつが、また現れるかもしれない。
グリップの力に吞み込まれた連中も、まだ他にもいる。
戦うって決めた以上——自分の手で誰かを殺す場面は、これで最後じゃない。
そのとき、今日みたいに「他に選択肢がなかった」と言い訳して逃げるのか。
それとも、自分が奪った命もまとめて背負って、前に進むのか。
選べる時間はあったが、今はもう戻れない。
俺は、久瀬の顔をじっと見下ろした。
片目を潰され、顎を砕かれたその顔には、もはや笑いも怒りも浮かんでいない。
ただの「肉」になった元・怪物。
「……あんたのせいで死んだ人たちのことを、俺が全部背負えるとは思わないけどさ」
誰にともなく、玲司はぽつりと呟く。
「少なくとも、俺の手で止まったって事実だけは、ちゃんと覚えておくよ」
あんたが奪った命の分の重さを、俺がどうこう言えるほど軽く扱う気はない。
でも——俺が賭けた命もここにある。
グリップに手を伸ばしたあの日から。
鎖剣を握って戦うと決めたあの日から。
この手に賭けた命も一緒に、自分で責任を取る。
(逃げない。守りたいって言葉からも、守れなかったものからも、殺したことからも)
その全部に目を向けるって、今ここで決める。
玲司がそう胸の中で言葉を結んだ瞬間——。
「——うん、よくできました」
ひどく軽い拍手の音が、境内に響いた。
振り向くと、鳥居の上。
そこに、フィースがあぐらをかいて座っていた。
髪をぐしゃぐしゃとしたまま、頬杖をつきながら玲司の方を見下ろしている。
「最初の『殺し』って、大体もっと取り乱すもんなんだけどね」
彼は片手をひらひら振りながら、ひょい、と鳥居から飛び降りた。
ふわりと、ほとんど重力を無視した着地。
玲司が思わず眉をひそめると、フィースは肩を竦めた。
「テキトーに締めくくるのがボクの仕事だから。あ、そうだ」
ぱん、と手を叩く。
「ひとまず、お疲れさま。三人とも、よく生き残った。労いと、先日のコーヒー代のお返しということで——今日はスーパー銭湯にでも行こうか」
「……は?」
あまりにも空気を読まない提案に、変な声が出た。
楽も「え、そこで銭湯?」という顔をしている。
遠くの五重塔から戻ってきた澪も、拝殿の影に立ったままぽかんとしていた。
「ちょっと待て。こんなに傷だらけの人間がお湯に浸かるのはマナー違反だろ」
玲司の服の下は、かすり傷と打撲と、さっき覇剣に殴られた肩の痺れで満ちている。
血は思ったほど出ていないけど、普通に考えたら「風呂どころじゃない」状態だ。
「大丈夫大丈夫」
フィースは、いつもの調子で笑う。
「もうエネビス器官が過剰に稼働した後だからね。到着する頃には、外側の傷はほぼ塞がってるだろうし、内臓もある程度は落ち着いてるはず」
たしかに、言われてみれば——。
朱莉との戦いのときも、翌日には動ける程度には回復していた。
完全ではないにせよ、「人間の治癒力」としては明らかに尋常じゃない。
それに。
戦いの直後のこのままのテンションで家に帰って、普通の顔をして晩飯食べる自信は、正直あまりなかった。
どこかで、いったん「日常」の温度に戻しておく必要がある。
楽が、ふっと笑った。
「ボクは賛成かな。汗も血も、全部流したいし」
澪も、おそるおそるという感じで頷く。
「……私も。正直、膝ガクガクだから。湯船で伸びたい……」
「だってさ」
フィースが、こちらを見る。
「ほら、主役。多数決だよ」
「お前、観測者じゃなくて仕切り役なのかよ……」
玲司はぼやきながらも、反論する気力はもう残っていなかった。
久瀬の死体については、すでにフィースが「処理しておくよ」と言っている。
久瀬による被害者や死傷者についても同様、「上手いことやる」らしい。
……どうにも信用ならないが、俺たちが今やるべきことは——生き残った身体と頭を、次に動かせる状態に戻すこと。
「……分かったよ」
玲司は息を吐き、頷いた。
「じゃあ、行くか。スーパー銭湯」
「はーい、決定〜」
フィースが、能天気な声で手を叩いた。
◆
地元の人間なら一度は行ったことがある——そんな場所だった。
駅から少し離れたところにある、大きなスーパー銭湯。
派手すぎないけれど、それなりに年季の入った看板が、夕方のオレンジ色の光を受けている。
入口の自動ドアをくぐると、ふわっと暖かな空気と、ほのかな湯気の匂いが出迎えた。
フロント前には、地元の野菜のミニ販売コーナーと、牛乳やアイスの自販機。
その奥には、漫画雑誌やマッサージチェアが並ぶ休憩スペースが広がっている。
「わ、おっきい……」
澪が小さな声で感嘆を漏らした。
「普通の銭湯よりちょっと高い分、いろいろ付いてるタイプだね。岩盤浴にサウナに露天風呂に、レストランもあるし」
楽がパンフレットを手に取って眺める。
館内案内図にはやたらといろんな設備が書き込まれている。
靴をロッカーに入れ、鍵を持ってフロントへ。
フィースがまとめて四人分の入館料を支払うと、受付のお姉さんが笑顔でタオルセットとロッカーキーを渡してくれた。
「岩盤浴ご利用でしたら、こちらの専用着も……」
「あ、今日はいいです」
今の玲司たちにさすがにそこまで楽しむ余裕はない。
フィースは「お、追加料金取られちゃう系か」とか言っていたが、とりあえずスルーした。
脱衣所へ向かう廊下には、浴場からの湯気とシャンプーの混ざった独特の匂いが流れてきている。
壁には「入浴マナー」のポスター。
湯船に入る前にはかけ湯をしましょう。
タオルを湯船に入れないようにしましょう。
刺青・タトゥーのある方は——云々。
そうこうしているうちに、男湯と女湯の入口の前に辿り着いた。
赤い暖簾には「女湯」。
青い暖簾には「男湯」。
ドアの前で、自然と足が止まった。
「じゃ、澪。あとでな」
タオルとロッカーキーを片手に持ったまま、俺は振り返った。
「うん」
澪は、少しだけはにかんだ笑顔を見せる。
「ゆっくり浸かって、身体を癒してね。今日は……本当に、お疲れさま」
「そっちこそ。澪の一撃、マジでえげつなかったぞ」
「えへへ……」
ほんの少し、頬が赤くなる。
楽は、その横でにこにこと俺と澪を交互に見ていた。
「じゃあまた後で、休憩スペース集合ってことで」
「ああ」
フィースが、男湯の方へ肩をすくめながら歩き出す。
「じゃ、ボクらも行こうか、澪」
そう言って、楽は澪と一緒に女湯の暖簾の方へ——当然のようにのんびり歩き出した。
「おい」
玲司は思わず、反射的に楽のフードを後ろからつかむ。
「どこ行く気だ、お前」
「どこって、女湯だけど?」
振り返った楽は、本気で不思議そうな顔をしていた。
「え。何か変なこと言った?」
「いやいや、変だろ。お前、男湯だろうが」
玲司は今までずっとそういう前提で話してきた。
バイト先も同じ、更衣室は男女別だが、楽はいつも時間をずらしてサクッと着替えていたから、そこまで深く考えたことはなかった。
楽は、「ん?」と首を傾げる。
「ボク、女の子だよ?」
「…………は?」
玲司の脳みそが、一瞬フリーズした。
ミントグリーンの髪。
中性的な顔立ち。
「ボク」って一人称。
—―てっきり、そういうタイプの「男子」だと思っていた。
澪も、ぽかんと口を開けて楽を見上げている。
「え、あれ、言ってなかったっけ」
楽は、自分の胸元をぺたぺたと両手で叩いた。
「戸籍上も身体上もちゃんと“女”だけど。ほら」
「強調するな! 分かったから!」
玲司は慌てて止める。
ここ、男湯と女湯の入口前だ。やめろ。色々とタイミングが悪すぎる。
フィースが、男湯の暖簾をくぐりかけていたところで振り返り、こちらを見て肩を震わせていた。
「あー……今さらだけど、ボクは最初から知ってたよ? 観測者だし」
「お前、もっと早く言えよ!!」
「いやあ、人間同士の認識のズレって面白いなって思って。つい観察モードに」
「観察してる場合か!!」
玲司の声が、脱衣所に響いた。
近くにいたおじさんが何事かという顔でこっちをちらりと見る。
澪は、顔を真っ赤にして「え、えっと、ごめんなさい」とぺこぺこと頭を下げていた。
(……マジか。楽、女の子だったのか)
今までの会話とか、仕草とか、色々なものが頭の中で高速で巻き戻される。
あのボクっ子テンションで、性別を意識しない距離感で、普通に隣にいた相手が——女の子。
変な汗が、さっきまでの戦闘とは別の意味で吹き出てきた。
「まあまあ」
楽は、全く悪びれもせず笑う。
「ボクとしては、どっちでもよかったんだけどね。玲司が勝手に男ラベル貼ってただけで」
「いや、普通そう思うだろ……」
「そう?」
きょとんとした顔。
澪が、おずおずと口を開いた。
「……わ、私も、ちゃんとは知らなかった、かも」
「そう? 澪はちゃんと女の子扱いしてくれてたと思うけどなあ」
楽は楽しそうに笑う。
「ま、とりあえず」
タオルを肩にかけ直し、女湯の暖簾の方へ向き直る。
「ボクはこっちね」
「……待て。頭の整理が」
「湯船でしてきなよ。じゃ、あとでね、玲司」
ひらひらと手を振りながら、楽は本当に女湯の暖簾の向こうへ消えていった。
澪も、「あとでね」と小さく手を振って、その後に続く。
赤い暖簾が揺れ、静かに落ち着いた。
残されたのは、青い暖簾の前で固まっている玲司と、その奥から「早く入らないのかい」と笑っているフィースだけだった。
「……」
「いやあ」
フィースが、心底楽しそうに笑う。
「こういう認識のアップデートの瞬間も、人生の一部って感じでいいよねえ」
「黙れ」
玲司は思い切りため息を吐き、タオルを握り直す。
久瀬との戦い。
初めての殺人。
覚悟と責任と、これから背負うもの。
そこから一歩外に出れば、スーパー銭湯と、性別カミングアウトと、いつものどうしようもない日常。
どっちも、今の玲司たちの現実だ。
青い暖簾をくぐりながら、玲司はふと思う。
これから先、もっと面倒で、どうしようもなくしんどいことがたくさん待っているのかもしれない。
でも少なくとも——。
久瀬轟馬と戦って生き残った俺たちは、温かい湯に浸かる権利くらいは、手に入れている。
そう自分に言い聞かせながら、玲司は男湯の中へと足を踏み入れた。
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