第28話

 ——前日、夜の神社。


 外灯の弱い光の輪に、三人分の影が落ちていた。

 境内の真ん中に小さく描かれた砂の図。そこには、拙い線で道路とビルと、そして神社らしき四角が描かれている。


「とりあえず——」


 しゃがみ込んだ玲司が、その中の一点を指で突いた。

「とりあえず、楽の宿木ステレコスで久瀬の脚は固定できるな」


 石畳にしゃがみ込みながら、玲司は足元の砂利を指先で弄びつつ言った。

 楽は、境内の端に腰を下ろし、ミントグリーンの髪をかき上げながら軽く頷く。


「うん。地面を媒介にすれば、脚の裏から膝くらいまでは『杭』みたいに貫けると思う。足を使えなくするくらいなら、たぶんいける」


「それ、普通の人間なら致命傷なんじゃ……」


「相手が『普通』ならね」


 楽は肩をすくめた。


「でも、久瀬に関してはもう人間の基準で考えない方がいいと思う。脚を一本潰したくらいじゃ、多分まだ動けちゃう。だから——」


「もう一押し欲しい、ってわけか」


「うん。確実に仕留める何かが欲しい」


「どんだけタフなんだよ、あいつ……」


 思わずぼやきが玲司の口からこぼれる。

 あの水族館前での戦いを思い出す。覇剣で地面ごと叩き割りながら笑っていた男。脚を斬られても、それを楽しんでいるみたいな目。


「……あの時、水族館での私の矢は、なんで防がれたんだろう」


 ぽつり、と澪が呟いた。


 彼女は拝殿の階段に座り、両手を膝の上で組んだまま、夜空を見上げている。


 水族館前——。

 あの時、澪が放った静光弓セラフラインの光の矢は、久瀬の側頭部を狙って飛んだ。

 けれど、久瀬はとっさに顔をそらし、覇剣の背で弾き飛ばした。


 あの一瞬を、脳裏で再生する。


「そりゃ、野生の勘的なやつかもだし……グリップの危機感知が働いたんじゃないか? 静光弓セラフラインから出るエネビスの質とか、殺意の匂いとか。グリップが勝手に反応して、身体を動かす、みたいな」」


 玲司はそう答えた。


「うん。その線はあると思う」


 楽が頷く。


「でもさ。危機感知したとしても、対応できないくらいのスピードと威力なら、通るはずなんだよね」


「対応できないくらい、って……」


 玲司は澪の方を見る。


「そのためには高い集中力が必要だし、事前にどこかに待機してる必要があるよな。動き回りながら撃つのは、さすがに——」


 そう言いかけたところで、澪がゆっくり立ち上がった。


 彼女は境内の外、少し離れた場所を指さす。


「……あそこ、使えないかな」


 夜の闇の向こうに、ぼんやりと浮かぶ影。

 街外れのランドマークみたいに立っている、五重塔。


「高さもあるし、距離もある。静光弓セラフラインなら……あそこからなら、射程も十分届くと思う」


 澪は、握りしめた右手を見つめた。


「一発に、全部集中する。動きながらじゃなくて、息を潜めて……その瞬間だけを狙うなら、たぶん——」


 楽は、しばらく考えるように目を細め、それからにっこりと笑った。


「いいね。それ」


 その夜、玲司たちは久瀬の動きを想定しながら、何度も境内と五重塔の位置関係を確認した。


 楽が久瀬を連れてくる。

 ステレコスで脚を地面に縫い付ける。

 その瞬間を、五重塔の上から澪が狙い撃つ。


 —―そして最後に……。


 玲司は静かに頷いた。


 ◆


 今、その段取りの最後のピースがはまろうとしていた。


 境内の中央。

 久瀬の膝から下を、白緑の刃が貫いている。


 宿木ステレコス

 地面を媒介に、足裏から膝にかけて打ち込まれた一本の杭。


「テメ……ッ、クソ……ガキが……!!」


 久瀬が歯を食いしばる。

 覇剣はけんを振りかぶろうとするが、膝が地面に縫い付けられているせいで、踏み込めない。


 力任せに動けば、自分の脚が先にちぎれる。


 その事実を、本能的に理解しているのか——動きがほんの一瞬、硬直した。


 楽は、そこで顔を上げた。

 汗で濡れた前髪を乱暴にかき上げる。


「ボクの役割は果たした……」


 かすれた声で、でもはっきりと。


「次は君だ——澪」


 ――その瞬間だった。


 境内から、数十メートル離れた方角。

 五重塔の最上部近くから、昼間の緩やかな空気を裂くように光が走った。


 白い弧。

 雷とも流れ星とも違う、真っ直ぐで鋭い線。


「——届いて!」


 遠くから、澪の声が風に乗って届く。


 次の瞬間、光の矢が久瀬の右側頭部——ではなく、右目を正確に撃ち抜いた。


「っ——」 


 音にならない破裂音。

 赤黒いオーラをまとった瞳が、一瞬で白く弾け飛ぶ。


 矢はそのまま、眼窩を突き抜け、顎の内側を貫通して下顎の骨を粉砕した。

 顎下から、光が抜ける。


「んがッ……!」


 喉の奥から、空気の漏れるような音が漏れた。

 声になっていない。


 何が起きたのか理解できない、という顔。

 一瞬前まで狂気を宿していた片目が、獣のように見開かれている。


 宿木ステレコスに固定された脚が、ぐらりと揺れた。

 身体全体が大きくよろめく。


(——今だ)


 拝殿の陰に身を潜めていた玲司は、そこで一気に飛び出した。


 石畳を蹴る。

 鎖剣グラティナを起動する。


「……っ」


 右手に握ったグリップから、鎖が噴き出すように伸びる。

 腕に巻き付き、肩から胸、腹へと広がる。


 胴体を一周。

 玲司は自分の体に鎖を巻き付けながら、その濃青色の剣を顕現させる。。


 深い紺の刃。

 夜の戦闘では目立づことのないその剣身が、春の空気に冷めたく映える。


 それを両手で握り、久瀬の背中側へと回り込む。


「——ッ!」


 視界の端に、楽の姿。

 膝をついたまま、玲司の方を見ている。


 目が一瞬だけ合った。


(頼んだよ)


 そんな声が聞こえた気がした。


 久瀬の注意は、まだ完全にはこちらに向いていない。

 右目を奪われた衝撃が、思考を一瞬遅らせている。


 だから——踏み込める。


「……っらぁ!!」


 息を吐きながら、右脇の死角から斜めに一閃。


 狙いは、右脇腹から背骨。


 鎖剣グラティナの刃が肉を裂く感触が、手に伝わった。

 骨に当たる嫌な音。そこまで、確実に届いた感触。


 第二肋骨辺りから、刃が背骨に触れ、そのまま途中まで食い込む。


 一撃で真っ二つ、とはいかなかった。

 けれど、走らせた線は深い。


「……っ、があああああ!!」


 久瀬の咆哮が、境内を揺らした。


 常人なら、その一撃で即死していておかしくない。

 だが、こいつは——。


 覇剣はけんを握っていない方の左手が、久瀬自らの胸から突き出た鎖剣グラティナの剣先を掴む。


「っ!?」


 常識ではありえない「握力」。

 グリップに侵食された肉体が、無理やり刃を止めた。


 玲司が体重を乗せて引き抜こうとした瞬間。


「ウルアァアアアアアァ!!」


 久瀬が、背中側に半身を無理やり捻った。


 胴が、裂ける。

 自分の身体が千切れそうになってもお構いなしに、覇剣を振るうためだけに回転する。


 振り向きざま、覇剣が俺の肩口めがけて振り下ろされた。


 タメもない。

 踏み込みもない。


 ただ、腕と肩の力だけで振り抜く——それでもなお、一撃で人間を叩き潰すだけの破壊力を帯びた斬撃。


(間に合わね——)


 避ける余裕はない。

 この距離、このタイミング——防ぎようがない角度。


(——でも、二回目だ)


 俺は、真正面からその一撃を受けた。


  肩から胸にかけて巻き付けていた鎖が、ぎゅっと締まる。


 ガギィンッ!!


 耳をつんざく金属音、そして火花。

 覇剣の刃が、俺の右肩を斬り裂く前に、鎖の層に当たって弾かれた。


「……っぐ……!」


 衝撃が、骨ごと身体を揺さぶる。

 肺の中の空気が一瞬で押し出される。


 鎖が、盾になった。


 前に朱莉と戦った時、胴体を鎖で覆って薙刀の一撃を受け止めた。

 あの感覚を、そのまま肩口に集中させたのだ。


 鎖が、一部裂ける。

 紺色の欠片が、桜の花びらと一緒に飛び散った。


「……ッ!?」 


 久瀬の片目が、玲司の肩を見て見開かれる。


 そこに、致命傷は刻まれていない。

 赤い血の代わりに、紺色の鎖が崩れ落ちていくだけ。


 玲司は、ゼェゼェと荒い息を吐きながら、久瀬を見た。


 真後ろ。

 半分だけ振り返った久瀬と、真正面から目が合う。


 右目は、澪の矢で潰れている。

 左目だけが、まだ漆黒に光っていた。


 その目が、玲司を値踏みするように細められる。


「あえあ……おあえ?」


 『誰だお前』。そう言いたかったであろう久瀬は、心の底から不可解な表情を浮かべる。


 水族館の時は、玲司など視界の端にも入っていなかっただろう。

 ただ逃げ惑っていた、臆病者。


 今、ようやく「敵」として認識された。


 喉の奥が、ひりつく。

 怖い。死ぬほど怖い。


 それでも——逃げない。


 玲司は、息を整え、できるだけまっすぐな声で答えた。


「――ただの臆病者だよ」


 吐き捨てるようでいて、どこか自嘲を含んだ声。


 楽でもない。

 澪でもない。

 何か特別な才能があるわけでもない。


 ただ、怖いままでも一歩踏み出すって決めただけの——臆病者。

 全部ひっくるめて——今ここに立っている「暮上玲司」という人間の、精いっぱいの名乗りだった。


 久瀬の口元が、歪む。


「臆病者のくせに——」


 鎖剣グラティナの柄を握る手に、さらに力を込める。


「――もう、逃げないって決めたんだ」


 玲司は小さく息を吐き、鎖剣グラティナを思い切り引き抜いた。


 肉と骨を割く感触が、刃を伝って腕に返ってくる。

 深い傷口から、黒と赤が混じった液体が噴き出し——やがて、それが重力に負けて地面へ落ちた。


 支えを失った久瀬の身体が、ぐらりと傾ぐ。


 膝から下は、まだ宿木ステレコスの杭に縫い付けられたまま。

 それでも、上半身はもう、自分の重さを支えられなかった。


「……っ、が……」


 喉に、何かを言おうとした気配。

 でも、それは言葉にならなかった。


 久瀬轟馬は、ゆっくりと前のめりに倒れ込んだ。


 覇剣が、手から離れ、鈍い音を立てて石畳に転がる。

 境内に残ったのは、桜の花びらと、血と、金属の匂い。


 楽は、宿木ステレコスを解除しながら、その光景を見つめていた。

 五重塔の上から、澪もまた、握りしめた弓が光を失っていくのを感じていた。


 久瀬轟馬の巨体が、動かない。


 傾きかけた陽が、彼らを照らしていた。

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