第26話

 アスファルトを蹴る音が、街のざわめきに溶けていった。


 パン屋の裏口から別方向へ飛び出した昼間楽は、住宅街の細い路地を縫うように走る。

 ミントグリーンの髪はキャップに隠し、いつでも宿木ステレコスを起動できるよう右手にはすでにグリップを握っていた。


(正面突破は玲司の担当。ボクは——『餌』だ)


 息は乱れていない。

 むしろ、胸の奥は妙に静かだった。


 路地を抜けた先、視界がぱっと開ける。


 そこが——さっきスマホ越しに見た、大通りだった。


 いつもなら車がひっきりなしに行き交う片側三車線の道路は、今は無理やり止められた車の列と、ぐしゃぐしゃに潰された車体と、割れたガラスと、血の色で埋め尽くされている。


 遠巻きに野次馬がいる。

 警察車両が数台、道路を封鎖するように停まっている。

 だがその封鎖線の「内側」で暴れている男に、誰もまともに近づけていなかった。


 巨大な大剣——覇剣はけんを肩に担ぎ、赤黒いコートをひるがえして立つ男。


 久瀬轟馬。


「おーい! どうしたァ!? さっきまでの元気はどこ行ったァ!?」


 笑いながら、覇剣の先端で横倒しになった軽自動車の屋根をコツコツと叩く。

 それだけで、薄い鉄板が悲鳴を上げてへこむ。


「そこのガキ、まだ息あんのか? あァ?」


 運転席の中から、か細い呻き声が漏れる。

 久瀬はそれを確かめるように覗き込み——にやりと口角を吊り上げた。


「おいガキ共!!」


 頭をぐるりと回し、周囲のどこかを探すように叫ぶ。


「聞こえてんだろ!? 出てこいよ!! 出てくるまで暴れ回ってやるからよォ!! お前らのせいで関係ねえ人間がどんどん死んでいくぞォ!? だははははは!!」


 その声は、テレビ越しでもスマホ越しでもなく、今は生の音として楽の鼓膜を叩いた。


「——やかましいなあ、相変わらず」


 楽は、ふっと息を吐きながら前へ出た。


 警察の規制線の外側を回り込み、少し高くなった歩道から大通りへ飛び降りる。

 着地と同時に、右手のグリップを軽く撫でた。


宿木ステレコス」 


 小さく呟く。


 グリップに刻まれた紋様が、淡い光を帯びた。

 次の瞬間、そこから伸びるように白緑の刃が形を取っていく。


 細身の片手剣。

 軽く振ってみると、空気を切る音が耳に心地よく届いた。


 久瀬の視線が、ぴたりとこちらを向く。


「——おう?」


 覇剣の先端が、楽の方を指した。


 血走った眼の奥に、見覚えのある光が灯る。

 水族館前広場で見たときと同じ——いや、それ以上にぎらついた興奮の色。


「待ってたぜェ、おチビちゃんよお!!」 


 腹の底から笑い声が響いた。


「ほんっと、早くお前を殺したくてよォ……ずっとウズウズしてたんだよなァ!!」


「それは光栄なことだね」


 楽は、さらりと返した。


 距離を測る。

 ここから久瀬まで、ざっと二十メートル。

 間には、横倒しの車と、割れた信号機の残骸。


 楽の足元から少し後ろでは、警官たちが「下がって!」と叫びながら避難誘導を続けている。

 だが、誰も楽には手を出さない。

 この状況で、わざわざ「前に出て行く一般人」を止める余裕など、もう残っていなかった。


「脚のケガはもう大丈夫?」


 楽は、わざとらしく首を傾げた。


「この前、すっごく痛そうにしてたけど」


 右脚。

 水族館前で、自分が作った一太刀。


「うるせえ!!」


 久瀬が吠える。


 確認は、充分。

 あとは、この男の注意を、全部自分の方に向けるだけだ。


「こっちだよ」


 楽は、わざと小さく手を振ってみせた。


 挑発とも挨拶ともつかない仕草。

 久瀬のこめかみに、怒りと喜びが同時に浮かぶ。


「てめェ……!」


 覇剣を、肩から大きく振り下ろす構え。


「その減らず口、ぶっ潰してやる!!」


 叫びと同時に、アスファルトを蹴った。


 重い。

 だが、速い。


 大剣を担いでいるにも関わらず、その突進は小型トラック並みの圧を伴っている。

 地面が揺れ、砕けたガラスがぴょんと跳ねた。


(来た)


 楽は、その直線を真正面から受けるような位置に立った。


 視界いっぱいに覇剣が膨らむ。

 刃にまとわりつくエネビスの赤黒い燐光。

 その軌道を、目で、体で、刻む。


 ——そして、横へ。


 半歩。

 ただそれだけ。


 ほんのわずかな角度で、軌道から滑り落ちる。


「おらァ!!」


 覇剣が、楽のすぐ後ろの道路を叩き割った。

 アスファルトが爆ぜ、破片が雨のように降り注ぐ。


 楽は、その破片を盾代わりにするようにステレコスを変形させた。

 細身の剣だった刃が一瞬で広がり、小さなラウンドシールドになる。


 パシパシと、飛来物が金属に当たって弾かれる音がした。


(うん。やっぱり、前よりも“粗く”なってる)


 距離を取りながら、楽は冷静に考える。


 久瀬は、興奮のあまり力任せになっている。

 脚の痛みもあるだろう。

 覇剣の軌道は相変わらず凶悪だが、そのぶん隙も増えていた。


 だが——。


(距離を詰めて勝ちに行くのは、ボクの役じゃない)


 今回の目的は、別にある。


 楽は踵を返し、大通りの端へ向かって駆け出した。

 街路樹の並ぶ歩道側へ。


「逃げんなや、ガキがァ!!」


 背後から、怒号が追ってくる。

 振り返らなくても分かる。

 久瀬は、完全に楽しか見ていない。


(よし)


 それでいい。


 この男の視界に映っていい「標的」は、自分一人で充分だ。

 巻き込まれる一般人は、一人でも少なくしたい。


 警官たちは、久瀬がこちらを追って移動を始めたことで、わずかに距離を取る余裕を得たようだった。

 「離れてください!」「こちらの歩道へ!」と叫びながら、負傷者を安全な場所へ引きずっていく。


 楽は、走りながら周囲の建物をざっと確認する。


 チェーン系の飲食店。

 古い雑居ビル。

 その先に、視界の端に緑が見え始める。


(ここからなら——)


 昨日も使った地図を、頭の中でなぞる。


 大通りの一本裏へ入ると、商店街と住宅街を抜けて、あの神社へ繋がるルートがある。

 車の侵入はほぼない。

 人通りも、時間帯を考えれば少ないはずだ。


 楽は、角を曲がりながら、宿木ステレコスを槍に変形させた。


 細長い穂先。

 くるりと回し、背後へと突き出す。


 迫ってきていた覇剣の軌道を、その槍の柄でなぞるように逸らした。

 重さを、全身で受け流す。


「チョロチョロしてんじゃねェ!!」


 久瀬の怒声が、路地に反響する。

 狭い道には似つかわしくない大剣のきしむ音。


「こっちだよ」


 楽は、わざとしゃべり続けた。


「大通りで暴れるより、こっちで思いっきりやった方が楽しいでしょ? 車も人も、あんまりないからさ」


「テメェがどこで死のうが関係ねえ!!」


「それはそうかも」 


 でも——関係あるんだよ。

 こっちとしては。


 そう言いかけてやめた。

 言葉を交わすよりも、今は距離を稼ぐ方がいい。


 路地を二つ抜けると、古い商店街に出た。

 シャッターが半分降りた個人店が並ぶ通り。

 日曜日の午後だというのに、人影はまばらだ。


 楽は、走りながらステレコスを盾に変え、そのまま跳んだ。


 側溝の蓋に足をかけ、電柱の根元を踏み台にして、短い塀の上へ。

 そのまままた通りに降りる。


 久瀬の覇剣は、塀ごと薙ぎ払うこともできただろう。

 だが、この狭さでは振りが制限される。

 実際、彼の動きはさっきよりもわずかに鈍っていた。


「ハァ……ハァ……!」


 荒い息づかいが背後から聞こえる。

 痛む脚を引きずりながら、それでも久瀬は笑うのをやめない。


「逃げんじゃねえ! 逃げんなよォ!!」


「追いついてごらんよ」


 楽は、振り向きざまにステレコスの刃を細く伸ばした。

 鞭のようにしなった刃が、覇剣の平を軽く弾く。


 カン、と乾いた音。

 火花が、赤黒い光と白緑の光の間で跳ねた。


 久瀬の足が、一瞬だけ止まる。

 楽は、その隙にさらに一つ角を曲がった。


 住宅街に入る。

 二階建ての家が並び、電線が頭上を走る。

 子ども用の自転車が並んだ駐輪スペース。

 洗濯物のはためくベランダ。


 その先に——石段が見えた。


 街外れの神社へ続く、あの石段。


(……着いた)


 楽は、石段の手前で一度だけ振り返る。


 久瀬との距離は、十数メートル。

 肩で息をしながらも、目の光はまるで衰えていない。


「まだ走れる?」


 楽は、わざと軽い声で言う。


「その脚で、ここから先も追いかけて来れるなら——案外タフだよね」


「舐めやがって……!」


 久瀬は石段を睨み上げ、そして笑った。


「上等だァ。そこがテメェらの墓場かよ!?」


「どうだろうね」


 楽は、片手を石段の上に向けて軽く掲げた。


「——招待するよ。ボクらのホームに」


 そう言って、一段目を踏みしめる。

 宿木ステレコスが盾から再び剣へと変形する。


 石段を駆け上がるたびに、足元の砂利がざりざりと音を立てる。


 背後で、覇剣を引きずるような音がした。

 久瀬も、笑いながら石段を登り始める。


 その音を背中に受けながら、楽は一気に駆け抜けた。

 鳥居をくぐり、境内へ。


 ——神社は、相変わらず静かだった。


 日中の喧騒から切り離された、小さな島のような空間。

 古い木々。

 石畳。

 そして、境内の端には——すでにほとんど散ってしまった桜の木が一本。


 枝先にはわずかな花びら。

 地面には、その名残の薄いピンク色が絨毯のように広がっていた。


(間に合ってるといいけど)


 視線を走らせる。

 だが、境内の中央には誰もいない。

 拝殿の正面も、手水舎の横も、人気がない。


 楽は、口元だけで小さく笑った。


(いるのは、知ってるけどね)


 気配で分かる。

 鎖剣グラティナが、どこかで息を潜めている。


 鳥居の下から、久瀬の低い声が漏れた。

 階段を登り切り、大きく息を吐きながら境内へ入ってくる。


 覇剣を肩に乗せたまま、きょろきょろと周囲を見回した。

 日常とは切り離されたこの空間に、一瞬だけ興味を引かれたようにも見える。


 口元が歪んだ笑みに変わる。


「他人の家より、神さんの前で殺し合いってのも——趣があってよォ」


「信心深かったんだ?」


 楽が冗談めかして言うと、久瀬は「バーカ」と吐き捨てる。


「信じてんのは、自分の拳と剣だけだよ」 


 覇剣を軽く振る。

 そのたびに、境内の空気がぴんと張り詰める。

 地面に積もった桜の花びらが、ふわりと舞い上がった。


 楽は、境内の真ん中まで歩き、そこで足を止めた。

 宿木ステレコスを構える。


 距離を測る。

 久瀬まで、およそ十五メートル。


「——ここから先は」


 楽は、ひとつ息を吐いた。


「ちゃんと、リベンジマッチってことで」 


 水族館前では、守るものが多すぎた。

 撤退を前提にした戦い方しかできなかった。


 今回は違う。

 ここは、自分たちが何度も訓練してきた場所。

 地面の固さも、木々の位置も、全部体が覚えている。


 久瀬が、にやりと牙を剥いた。


 右足を一歩前へ。

 覇剣を大きく振り上げる。


「今度は本気で——テメェを殺しに行く」


 その言葉と同時に、風が吹いた。


 舞い上がった桜の花びらが、ふたりの間で渦を巻く。

 淡い色の粒が、宿木ステレコス覇剣はけんの間を行き交う。


 楽は、瞳の奥を静かに燃やした。


 息を整える。

 足の裏で、境内の石畳の感触を確かめる。


(——行こうか)


 ここから先は、もう後戻りできない。


 自分にとっても、久瀬にとっても。

 そして、この戦いを見守っている誰かにとっても。


 楽はステレコスの切っ先をわずかに下げ、構えを低くした。

 久瀬は覇剣を肩に担ぎ直し、肩を鳴らす。


 互いに、一歩も動かない。

 だが、その一歩手前で、全身が前へと傾いている。


 境内の隅——拝殿の裏手。

 そこに潜む気配が、わずかに動いた。


 鎖の擦れるような、かすかな音。

 ——玲司は、二人が神社に入ってくる様子をしっかりと視認し、タイミングを計るように息を潜めていた。


 その存在を、楽も久瀬も、今はまだ意識の端にしか置いていない。


 桜の花びらが、一枚、地面に落ちる。


 それが、合図だった。


 楽と久瀬は、ほとんど同時に、前へと踏み出した。


 ——リベンジマッチ、開始。

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