第25話

 3月10日、15時。


 パン屋の中は、いつも通りの甘い匂いに満ちていた。

 焼き上がったばかりのパンと、コーヒーマシンから立ち上る香り。

 ガラス越しに差し込む午後の光が、トレーに並んだパンの表面をきらきら光らせている。


「——はい、メロンパン一つと、クロワッサン二つですね」


 レジで会計を済ませ、袋を渡す。

 常連のOLさんが「ありがと」と笑って出ていくと、店内には一瞬だけ、BGMとオーブンのファンの音だけが残った。


「ふう……」


 昼のピークは過ぎていて、客足もだいぶ落ち着いてきた。

 裏から顔を出した楽が、バンダナを外して額の汗を拭う。


「お疲れ」


 そう声をかけると、楽はにやりと笑った。


「玲司こそ。昨日内臓いかれてたけど、もう大丈夫?」

「……仕事中にその話題持ち出すのやめてくれねえかな」


 思わず腹を押さえる。

 朱莉の紅罰を鎖で受けたあの一撃は、今も内側に鈍い痛みを残していた。

 いくらエネビス器官で強化された身体とはいえ、あのレベルのダメージとなると完全回復するまでには時間がかかるようだ。


「でもさ」


 楽は、焼き場から持ってきたトレーをショーケースに並べながら言う。


「ちゃんと“前に出て”たよね、昨日」


「……」


「あの子、最初に会ったときよりずっと本気だった。薙刀のキレも上がってたし。それを正面からもらって、ちゃんと対処して、最後まで離さなかったのは——素直にすごいと思うよ」


「褒めるな。気持ち悪い」


 言いながらも、頬の奥がくすぐったい。

 楽は、そういうところ遠慮がない。


「だってさ」


 トングをカチカチ鳴らしながら、楽は続けた。


「前は、ああいう“ライン”に立つ前に固まってたでしょ。今回はちゃんと、怖がりながらも踏み込んでた。——ボクは、それが見れただけで結構満足なんだよね」


「……勝手に観察して満足すんなよ、観測者かお前は」


 そう言い返すと、楽はけらけら笑った。


「観測者よりはだいぶ感情移入してるつもりだけどね。あ、そうだ。観測といえば——」


 楽は、ショーケースの空いているスペースを指さした。


「さっき新作メロンパン焼いたんだけどさ。あとで観測してみてよ。味の」


「観測って言い方やめろって……」


 それでも、さっき持ってきたトレーの一番奥にある丸いシルエットに目がいく。

 表面のクッキー生地は少し厚めで、ところどころにひびが入っている。


「見た目は……悪くないな」

「そこは“すごくいい”って言うところだよ」

「まだ食べてないんだから保留だろ」


 口ではそう言いながらも、焼き上がりの香りはかなりそそられる。

 このバイトを始めた頃に比べて、楽のパン作りは明らかにレベルアップしていた。


「あとで一個、買って帰るよ」

「お、珍しく素直じゃん」

「いや、単に腹減ってるだけ」


 そんな他愛ない会話をしていると——。


「おーい、お前ら!」


 奥の休憩室から、店長のどすどすした足音が聞こえてきた。

 小柄なくせに、全力で走るからやたら音がする。


「ちょ、店長、走らないでくださいよ。パンの粉飛びますって」


 楽が苦笑しながら言うが、店長は聞いていない。

 手にはスマホを握りしめ、顔は真っ青だ。


「それどころじゃねえって! ちょっとこれ見ろ!」


 カウンターの内側にずい、とスマホの画面が突き出される。

 画面には、縦長の映像。

 コメント欄が流れ続けている、ライブ配信の画面だった。


『やば』『なにこれ映画?』『警察来てる』『血……』


 とりあえず音量を上げた店長の指が震えている。

 映像の中央には——見覚えのあるシルエットがあった。


「……」


 頭が、すっと冷える。


(久瀬……)


 巨大な大剣——覇剣はけんを肩に担ぎ、道路の真ん中に立つ男。

 その周りには、横倒しになった車、砕けたガードレール、ガラス片。


 アスファルトの上に、動かない人影がいくつも転がっている。

 まだ息があるのか、もうないのか。判断がつかない。


 画面の端には、警察車両の赤色灯。

 パトカーが数台、道路を塞ぐように並んでいる。

 スピーカーから、「武器を捨てろ!」「これ以上の抵抗は——」といった声が飛ぶが、それに対する返答は——。


「おーい!」


 映像の中で、久瀬が笑った。


「ガキ共!! 出てこいよ!!」


 低く、太い声。

 スマホ越しでも、腹に響く。


「お前らが出てくるまでよぉ——暴れ回ってやるからよぉ!!」


 覇剣の切っ先で、横倒しになった車の底を軽く突く。

 それだけで、ぐしゃり、と鉄が潰れる音がした。


「お前らのせいで関係ない人間がどんどん死んでいくぞぉ!? だははははは!!」


 笑い声が、配信のマイクを割れさせる。

 コメント欄が一気に加速する。


『やばいやばいやばい』『誰か止めろよ』『特撮の撮影じゃないの?』『これ配信してていいやつ?』


 画面の右上に、視聴者数らしき数字が刻々と増えていく。


「な、なんだよこれ……」


 店長が呟く。


「ここ、どこだ? ニュースのテロップ出てねえのか? 東京じゃねえだろ、さすがに——」


 その瞬間、画面の左下に映り込んだ看板が目に入った。

 見慣れたチェーン店のロゴ。

 見覚えのある交差点の形。


 楽が、息を呑む。


「……この辺じゃん」


 そう。

 このパン屋から、歩いて五分の大通り。

 配達で何度も通った道。

 バイト終わりにコンビニ寄るときに曲がる交差点。

 その中心で、久瀬が笑っていた。

 胃の奥が冷たくなる。


「うっそだろ……」


 店長もようやく場所に気付いたらしく、顔色を変えた。


「な、なんだよこれ……テロか? テロだよなこれ……?」


 店内にいたパートさんたちも、ざわざわとスマホを覗き込む。


「こわ……」「やば……」「え、警察来てるのに止められてないじゃん……」


 映像の中で、警官の一人が盾を構えて近づこうとする。

 だが、次の瞬間——。


「おらあ!!」


 覇剣が、地面ごと薙いだ。

 アスファルトがめくれ上がり、盾ごと警官が吹き飛ぶ。

 ショッピングモールのガラス壁に叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちる影。


 楽が、カウンターから身を乗り出した。


「玲司」

「分かってる」


 短く返す。

 久瀬は、配信の向こうではなく、すぐそこにいる。

 さっきまで「日常」だった空気が、一瞬でひっくり返された感覚。

 楽の視線が、入口の方へ向かう。


「行く——」


 その言葉を言い切る前に、玲司は彼の腕を掴んでいた。


「待て」


 ついさっき、自分が楽を止める立場に回るなんて思ってもいなかった。


「何で止めるの」


 楽の目が、鋭くなる。


「この距離だよ? ボクらが行かなかったら、あのまま——」

「行くに決まってるだろ」


 即答した。


「でも、このままバイトの服で飛び出して、店長や他の人の前でグリップ起動してどうすんだよ。せめて、外に出る理由くらい作れ」


「……」


 楽が一瞬黙る。

 その間にも、スマホの中の久瀬は笑っている。


『おいガキ共、聞こえてんのかぁ!?』


 あの「ガキ共」が自分たちを指していると分かっているのは——この場では俺と楽だけだ。


「店長」


 カウンター越しに、店長の方を向く。


「ど、どうした?」

「親と友達の安否確認の連絡だけしてきていいですか」


 できるだけ「普通」の理由を選ぶ。


「この辺りの道、通学路とかになってるんで……」


 そう言って、ロッカーの方角を顎で示した。


「スマホ、ロッカーに置いてきちゃってて。すぐ戻ってきますから」

「あ、ああ……」


 店長は、しばらく迷うように視線を泳がせたが——すぐに頷いた。


「そうだね……連絡くらいはしておいた方が良い。状況によっては、今日もう店じまいにするかもしれないし……」

「ありがとうございます」


 そう言って玲司と楽は裏に回り、ロッカー室へ飛び込む。

 エプロンの紐を乱暴に解く。


「澪には?」

「今から」


 ロッカーからスマホを取り出し、手早くメッセージアプリを開く。

 昨日話し合った、「指定ポイント」が頭に浮かんでいた。


『今、うちの近くの大通りで例のアイツが暴れてる。昨日言ってたポイントで待機してて。絶対に一人で様子見に行かないこと。着いたら返事を』


 打ち込んで、送信。

 すぐに既読がつく。


『分かった。すぐ向かう』


 短いけれど、その文字の震えは画面越しには感じ取れなかった。


「澪、行動早いね」


 制服から私服に着替える。ポロシャツを脱ぎ、Tシャツにパーカー。エプロンと制服を雑にロッカーに放り込んだ。

 楽も同じように手早く着替えを済ませていた。

 ミントグリーンの髪をキャップで隠し、少しだけ目立たなくする。


「よし」


 靴ひもをきつく締め直す。


「じゃあ——」

「うん」


 視線を交わし、頷き合う。


 休憩室から表ではなく、裏口の方へ向かった。

 ゴミ出し用の通路を抜け、小さな駐輪場に出る。


 そこから、表通りとは反対側の道へ。

 大通りに真っ直ぐ向かうルートは、人目が多すぎる。


 警察や救急、野次馬でごった返しているだろうし、そこでグリップを起動するわけにはいかない。

 だから——いったん遠回りする。


 昨日、楽と澪と一緒に何度も地図を見ながら組んだルートだ。

 頭の中で、それをなぞる。


(久瀬……)


 スマホの中ではなく、現実の道路で暴れている怪物。

 あいつはきっと、配信の向こうの「ガキ共」が反応するのを待っている。

 自分たちが「出ていく」こと前提で暴れている。


(だったら——)


 こっちも、ただ感情だけで飛び込むわけにはいかない。


 昨日の神社で、朱莉から引き出したもの。

 楽と澪と詰めた「久瀬対策」。


 その全部を、今日ここで使うことになる。


 裏路地を抜ける風が、少し冷たく感じた。


「——また後で、玲司」


 隣で、楽がぽつりと言った。


「ああ、頼んだ」


 そう言葉を交わし、玲司と楽はそれぞれ別方向へ走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る