第24話

 ——喉元に当てた刃が、かすかに震えていた。


 朱莉の呼吸が、首筋で上下するのが分かる。

 ちょっと力を入れれば、皮一枚くらい簡単に裂ける距離。


「……玲司」


 楽の声が、はっきりと耳に届いた。

 さっきより、低くて重い。


「れ、玲司くん……」


 澪の震えた声も重なる。


 その瞬間、ようやく——自分がどこに立っているのかを、はっきり自覚した。


(……やべ)


 遅れて、冷や汗が背中を伝う。


 「殺しは無し」。

 最初に決めたルール。

 朱莉にも、楽にも、澪にも、そう言って始めた訓練だ。


 なのに今の俺は、完全にそのラインを踏み越えかけていた。


 喉の奥で、変な笑いがこみ上げる。


(何やってんだよ、俺)


 息を吸って——ゆっくり、吐く。


 右手から、少しずつ力を抜いていく。

 鎖剣グラティナの切っ先を、朱莉の首筋から離した。


 刃が空気を撫で、すっと下りる。


 左脇で挟んでいた紅罰こうばつからも、力を抜いた。

 鎖をほどくイメージを強く思い浮かべる。


「……やめだ」


 小さく呟くと、鎖剣が形を崩した。

 鎖が腕から離れ、冷たい金属の棒に戻る。


 紅罰も、俺の腕から解放される。

 少しバランスを崩した朱莉が、慌てて柄を抱きしめるようにして後ろへ飛び退いた。


 境内に、しん、とした静寂が落ちた。


 楽が、ほうっと息を吐くのが聞こえた。

 澪も、胸に手を当てて大きく息を整えている。


「……ちゃんと、覚えてたんだね」


 楽がぽつりと言う。


「何をだよ」


「『殺しは無し』。今、一瞬ほんとに忘れたのかと思ってさ」


「……忘れてねえよ」


 そう返したものの、自信満々に言える感じではなかった。

 たぶん、ほんの一秒か二秒。


 本気で「このままいくか?」って思った瞬間が、確かにあった。


 楽は、俺の顔をじっと見た。

 さっきまでの軽さを少しだけ引っ込めた、真面目な目。


 そこに浮かんでいるのは——責める色じゃなくて、驚きと、少しの感心だった。


「……変わったね、玲司」


「勝手に成長記録つけんな」


「いい意味で、だよ」


 楽の口元が、ようやくいつもの調子に戻る。


「……うるさい」


 頬が熱くなるのを誤魔化すように、視線を朱莉の方へ向けた。


 朱莉は、その場にへたり込むみたいに尻もちをついていた。

 首筋を押さえ、涙目でこちらを睨んでいる。


 紅罰は、まだ手放していない。

 けれど、その指先がわずかに震えていた。


「……っ、なによ……!」


 かすれた声で吐き出す。


「殺さないなら、最初から喉に当てないでよ……! バカじゃないの……!? マジで死ぬかと思ったんだけど……!」


「悪かった」


 素直にそう言ってから——俺は、もう一度彼女の前に膝をついた。


「それと」


「……なに?」


 朱莉の視線が、警戒と苛立ちを混ぜて揺れる。


「ありがとう」


「は?」


 間髪入れずに、間抜けな声が返ってきた。


「なんでお礼なんかされなきゃいけないのよ」


 今にも泣きそうな顔で睨まれながら問い詰められる。

 すごい絵面だ。


 でも、言うことは決めていた。


「俺のグリップの性能を引き出してくれたから」


 鎖が、腕から胴まで覆う感覚。

 それを「できるかもしれない」と思えたのは、朱莉が全力でぶつかってきたからだ。


「あと、色々教えてくれたから」


 戦えば戦うほどグリップの底が見えるって話も。

 ちゃんと踏み込まないと、いつまでも“守るだけ”で終わるってことも。


 朱莉は、目をぱちぱちと瞬かせた。


 しばらく、何も言わない。


 唇をきゅっと噛んで、何かを飲み込むみたいに顔をそらす。


「……そう」


 ようやく、それだけぽつりと言った。


 ゆっくりと立ち上がる。

 膝についた砂利を、ぱんぱんと払った。


 紅罰の形を解き、グリップをポケットにしまう。


「もういいでしょ。今日はここまで」


 踵を返し、鳥居の方へ歩き出す。


 その背中を見送りながら、俺はふと思い立って声をかけた。


「朱莉」


「……なに」


 振り返った顔は、まだちょっと赤い。


「ちょっと待て」


 ポケットからスマホを取り出す。


 朱莉が、怪訝そうに眉をひそめた。


「は? 何よ」


「連絡先、交換しようぜ」


「はあ!?」


 予想通りの反応だった。


「なんでそうなんのよ!? 今の流れで!? 意味分かんないんだけど!」


「いやいや」


 俺は、スマホの画面を見せながら言う。


「久瀬の情報とか、さっきみたいに何かあったら教えてもらえると助かるし」


「だからって、なんで私が——」


「逆に、そっちに何かあった時にこっちからも連絡できるだろ」


 朱莉が、ぴたりと口を止めた。


「また何かあったら連絡する」


 素直にそう付け加える。


 嘘じゃない。

 久瀬の目撃情報も、他のグリップ使いの動きも。


 戦いの中で経験値を稼ぐにしても、情報は多い方がいい。


「……別に」


 朱莉は、ぶすっとした顔で目をそらした。


「アンタたちの仲間になったわけじゃないんだけど」


「分かってるよ」


 そこはきっぱり頷く。


「少なくとも今は敵じゃない。だから、繋いだ方が得だろ」


 朱莉は、しばらく黙って俺を見ていた。


 楽と澪も、固唾を呑んで成り行きを見守っているのが分かる。


「……ほんっと、調子狂うわね」


 最終的に、朱莉は盛大なため息をついた。


「好きにすれば」


 そう言って、自分のスマホを取り出した。


「ほら、コード出して」


「お、おう」


 QRコードを出すと、朱莉がそれを読み取る。

 通知が表示され、「七夕朱莉」の名前が画面に出た。


 アイコンは、やたら可愛いウサギのスタンプだった。


「……」


 思わず吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる。


「なに?」


「いや、なんでも」


 殺されそうなので黙っておく。


 連絡先の交換を終えると、朱莉はスマホをポケットに戻した。


「じゃ、ほんとに帰るから」


 それだけ言って、今度こそ鳥居の方へ歩いていく。


 背筋は、相変わらずピンと伸びていた。


 朱莉の姿が暗がりに溶けていくのを、澪は少し複雑そうな表情で見送っていた。


「……なんか」


「どうした、澪」


「ううん、なんでもない」


 澪は首を横に振る。


「ただ、その……怖い人だなって思うけど」


 一瞬だけ、視線が朱莉の消えた方角に向かう。


「ちょっとだけ、私たちと似てるところもあるのかなって、思っただけ」


「似てる?」


「自分のグリップをちゃんと使えるようになりたいって思ってるところとか」


 澪は、自分の手のひらを見つめた。


「怖くても前に進もうとしてるところとか……うまく言えないけど」


「……まあ」


 確かに、朱莉のやり方はかなり乱暴だ。

 でも、「戦いたい」と「強くなりたい」と「生き残りたい」がぐちゃぐちゃに混ざっている感じは、どこか他人事じゃない。


「敵か味方か、って言われたら」


 楽が、肩をすくめる。


「今はまだ、『別サイドから同じ山登ってる人』ってイメージかな」


「そのたとえ、ちょっと分かりやすい」


 澪がくすっと笑った。


 ようやく、境内の空気が少しだけ緩む。


 楽が、短く手を叩いた。


「さて、と」


 さっきまでの空気を切り替えるように。


「せっかくだし、今のうちに“本題”も詰めちゃおうか」


「本題?」


「久瀬対策」


 その名前が出た瞬間、空気がまた少しだけ引き締まる。


「ここ数日で分かったこと、観測者から出てる情報、朱莉の目撃談。今ある材料を全部テーブルに出して、整理しよう」


「……ああ」


 俺は、鎖剣を解除したまま、境内の中央に立ち位置を戻した。

 楽と澪も、自然と円を作るように近くへ寄ってくる。


 詳しい内容は——ここでいちいち言葉にするまでもない。


 久瀬のリーチ。

 覇剣はけんの特性。

 楽のステレコス、澪のセラフライン、俺のグラティナ。


 それぞれの得意と不得意。

 誰がどこで動くべきか。

 逃げるべきタイミングと、決して引いちゃいけないライン。


 夜の神社で、三人の声が小さく交わる。

 楽が時々地面に線を描き、澪が思いついたことをその上に加えていく。


 何度も消しては描き直し、足で擦り消し、また描く。


 やがて——境内の外灯が、少しだけ明るさを増した気がした頃。


 俺たちは、ようやく区切りをつけて、お互いの顔を見た。


「……じゃ、今日はこのくらいかな」


 楽が、大きく伸びをする。


「うん。あとは、それぞれ出来ることをやろう」


 澪も頷いた。


「明日以降、また状況が動くかもしれないしね」


「ああ」


 グリップをポケットにしまい、鳥居の方へ歩き出す。


 振り返ると、夜の神社が静かにそこにあった。

 数日前までなら、ただの近所の神社。


 今は、俺たちが「戦うための場所」になっている。


 久瀬。

 九条。

 朱莉。


 そして——自分自身。


 向き合うべきものは、まだまだ山ほどある。


 でも、少なくとも。


 何もできないまま立ち尽くしていた頃の俺からは、一歩だけ離れられた気がした。


 そんなことを思いながら、その夜、俺たちはそれぞれの家へと散っていった。

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