第21話

 14時ちょうど。


 正門のアーチをくぐろうとしたところで、腹の奥からぐう、と情けない音が鳴った。


(……あ)


 足が、ほんの少し止まる。


 そういえば今日は、朝から何も食べていなかった。

 家を出る前にパンでもかじろうと思っていたのに、なんだかんだで時間がなくなり、「まあいいか」とそのまま出てきたのを思い出す。


(そりゃ疲れるわけだ……)


 説明会を聞き、体育館でボクシング部の合同練習を眺め、九条灯雅という“本物”の選手を目の当たりにして——。

 精神的にも体力的にも、だいぶ消耗していた。


 正門から外に出かけていた足を、玲司はくるりと引き返す。


(せっかくだし、食堂行ってみるか)


 都内の「食堂がおいしい大学ランキング」とやらで、上位に入っていたこの大学。

 入試前に半分冗談で検索したときに、そんな記事を見た覚えがある。


 あの時は「そんなランキングあるんだ」と笑い飛ばしただけだったけど——。

 今は、純粋にその「実力」が気になった。


 校内マップを思い出しながら、中庭を抜けて学生会館の方へと向かう。

 ガラス張りの建物の奥、一階の大きなスペースが食堂になっていた。


 入口の前には、日替わり定食や丼もの、麺類のメニューが写真付きで並んでいる。

 値段を見て、玲司は思わず「おお」と声を漏らしそうになった。


(学外料金でも、結構安いな……)


 まだ学生証がないので、学内価格ではなく「一般」の値段になる。

 それでも、このボリュームでこの値段なら、十分リーズナブルと言っていい。


 腹の虫が、さらに自己主張を強めた。


(よし、決まり)


 迷いはなかった。


 玲司は「肉うどん」のボタンを迷わず押し、食券を受け取る。

 カウンターの奥では、かっぽう着姿の従業員のおばちゃんたちが、てきぱきと麺を茹でたり丼にご飯を盛ったりしていた。


「次の方、肉うどんねー」


 食券を差し出すと、年配の女性が笑顔で受け取り、手際よくどんぶりに麺と具材を乗せていく。

 湯気と一緒に、出汁の香りがふわりと漂ってきた。


(うわ、絶対うまいやつだ……)


 喉が、ごくりと鳴る。


「はい、お待たせ〜」


 数十秒後、できたての肉うどんがトレーに載せられて戻ってきた。


 透明感のあるつゆに、つやつやとした麺。

 上にはたっぷりの牛肉と刻みネギ。


 トレーを受け取り、調味料コーナーでおろし生姜と白ごま、七味を少しだけふりかける。

 窓際の空いている席を見つけ、そっと腰を下ろした。


 大きな窓からは、キャンパスの並木道が見える。

 行き交う学生たちの姿をぼんやり眺めていると、この数日の「非日常」が、少しだけ遠くに感じられた。


(とりあえず、今はこれだな)


 目の前のどんぶりから立ち上る湯気。

 出汁の香り。


 湯気越しに見える麺を前にして、自然と口元が緩む。


「……いただきます」


 そう言って、手を合わせた——その瞬間だった。


「待て」


 低い声と共に、真横から伸びてきた手が、そっとトレーの端を押さえた。


「え」


 反射的に顔を向ける。


 いつの間にか、隣の席に誰かが座っていた。

 さっきまで、確かに誰もいなかったはずなのに。


 黒いパーカーに、ジーンズ。

 短く整えられた髪。

 さっき体育館で見たばかりの横顔。


「……っ」


 喉の奥で、変な音が鳴った。


 九条灯雅。


 名門大学ボクシング部の一年エース。

 さっきリングの上で、人の顎をきれいに跳ね上げていた男。


 その本人が、当たり前の顔で隣に座っている。


「な、何か……御用ですか?」


 自分でも分かるくらい、声が上ずった。

 九条は、目だけこちらに向ける。


 静かで、感情の読めない瞳だった。


「お前」


 淡々とした口調で。


「昨日、水族館にいただろ」


 頭の中が、一瞬真っ白になる。


(……は?)


 心臓が、どくん、と嫌な跳ね方をした。


 昨日——水族館。

 楽と澪と一緒に行った、あの水族館。


 クラゲのエリア。

 久瀬の覇剣。

 噴水広場。


 その一連の光景が、フラッシュバックのように蘇る。


「……何の話か、よく分からないんですけど」


 とっさに、それらしい言葉を口にしていた。


「水族館なら、たしかに昨日行きましたけど……」


「そういう意味じゃない」


 九条は、言葉を切る。


「俺は見た。水族館の前で、化け物みたいな大剣を振り回していた男と、それと戦っていたやつらを」


 言いながら、視線をほんの少しだけ遠くに投げた。


「それに、そいつらが撤退するとき——」


 視線が、再びこちらに戻る。


「お前が、逃げ道を指示していた」


 ご、と喉が鳴った。


 何も言えなかった。

 言葉が、うまく喉を通ってくれない。


 九条は、わずかに首を傾げる。


「……『知らない』と言ったら?」


 玲司は、精いっぱいの虚勢を込めて問い返した。


「お前の見間違いかもしれないし、オレじゃないかもしれない。そう言ったら、九条さんはどうするんですか」


「知らないなら、それでいい」


 意外な答えが返ってきた。


 肩の力が、ほんの少しだけ抜けかける。


 ——が、その直後。


「ただ」


 九条の声が、わずかに低くなる。


「それが嘘だと判明した場合」


 ゆっくりとした口調で。


「お前は、俺の敵になる」


 ぞくり、と背筋が冷えた。


「て、敵になったら……どうなるんですか」


 聞かなきゃよかった、と内心で思いながらも、口が勝手に動く。


 九条は、少しだけ目を細めた。


「さあ」


 肩をすくめる。


「手段はいくらでもある」


 淡白な言い方だった。


 脅すための大げさな言葉でも、見栄でもない。

 ただの「事実」として、それを口にしている。


 玲司は、思わず九条の手元に視線を落とした。


 彼は、パーカーのポケットに片手を突っ込んでいる。

 その中で、拳を握っているのかもしれない——そう想像した瞬間、背筋がさらにこわばった。


(この距離……完全に、あいつの間合いだ)


 ボクシング部のリング。

 顎を跳ね上げたあの一撃。


 それを目の前で見たばかりだからこそ分かる。

 この距離なら、九条の拳は余裕で自分の顎に届く。


 グリップなんかなくても、あの男には人を壊す手段がある。

 それが分かってしまったからこそ、軽く笑ってみせることもできなかった。


「……俺は」


 喉を鳴らし、息を整える。


「その場に、いました」


 視線をそらさずに言う。


「そして……グリップ使いに、逃げ道を指示しました」


 嘘をつく、という選択肢も確かにあった。


 九条の目を見て、「何のことですか」と最後までとぼけることもできたかもしれない。


 でも——。


 さっき、フィースに言われた言葉が頭をよぎる。


『どう動くかを決めるのは、キミたち自身だよ』


 嘘を選んで、バレたとき。

 それこそ本当に「敵」になる。


 ならば、まだマシな選択肢は——正直に話すことだと思った。


「……そうか」


 九条は、短く言った。


「じゃあ、お前自身もグリップ使いなんだな」


 追撃の言葉は、やはり淡々としていた。


 そこから逃げる道は、もうなかった。


 玲司は、内心で一度だけ舌打ちする。


(ここでごまかしたら、多分終わりだな)


 逃げるための嘘か。

 生きるための正直か。


 選べと言われている。


「……そうです」


 一呼吸置いてから、はっきりと答えた。


 九条の瞳が、じっとこちらを見つめる。

 冷たいわけでも、怒っているわけでもない。


 ただ、「評価」している目だった。


「そうか」


 今度も、同じ言葉が返ってきた。


 短く、それだけ。


 そこから先に何が続くのかを考えて、玲司は喉を鳴らした。

 ずっと黙っていても、状況は変わらない。


(逆に……聞くか)


 ここまで情報を晒したのなら、少しくらいこっちも引き出していいはずだ。


 フィースのような観測者ならともかく。

 九条は、自分と同じ「参加者」だ。


「九条さんも」


 思い切って口を開いた。


「グリップ使いなんですか」


 一瞬だけ、九条のまぶたが動いた。


 それから、あっさりと。


「そうだ」


 と答えた。


 拍子抜けするほど、あっさりしていた。


 ごまかす気も、隠す気も、まるでない。

 それが逆に、彼の自信の表れのようにも思えた。


「……そうですか」


 何と言っていいか分からず、間抜けな返事しか出てこない。


 九条は、ふと立ち上がった。


 トレーに乗ったままの肉うどんを一瞥し、わずかに口元を緩める。


「悪かったな」


「え?」


「うどん、伸びちまって」


 それだけ言って、身体の向きを変えた。


 すたすたと、食堂の出口に向かって歩いていく。

 ポケットに突っ込んでいた手を、そのまま引き抜くこともなく。


 玲司は、思わずその背中を見送った。


(……変なところ、律儀だな)


 脅しのようなことを言っておいて、最後にそれかよ、と思う。

 けれど、変に「じゃあ仲間だな」とか安っぽいことを言われるより、ずっとマシだった。


 九条の背中が、食堂の出口の向こうに消えていく。


 完全に姿が見えなくなってから、玲司はようやく、大きく息を吐いた。


「……はああああ……」


 肺の奥に溜まっていた空気が、全部出ていった気がする。

 肩からずるりと力が抜け、背もたれに寄りかかった。


(マジで……心臓に悪い)


 久瀬のような、分かりやすい「怪物」とは違う。

 九条灯雅という男は、もっと静かで、もっと冷たい圧を持っていた。


 正門を出る前よりも、何倍も疲れた気がする。


「……うどん」


 改めて、目の前のどんぶりを見る。


 さっきまで立ち上っていた湯気は、ほとんど消えていた。

 麺も、ところどころ水分を吸って太り、端の方はスープに沈んでいる。


 出汁の香りは、まだほんのりと残っていた。


「……いただきます」


 さっき中断された所から、もう一度手を合わせる。

 箸を取り、少し伸びた麺を啜る。


 出汁は確かにうまかった。

 評判になるのも分かる。


 ただ、麺は——さっきより、だいぶコシがなくなっていた。


「はあ……もったいねえ」


 ぼやきながら、それでも一気にかき込む。


 腹を満たすためでもあるし、さっさと食べて、この場から立ち去りたいという気持ちもあった。


 伸びきったうどんを啜りながら。

 さっきまで自分の隣にいた「人間離れしかけた人間」の横顔が、頭の片隅からなかなか消えてくれなかった。

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