第20話

 3月8日、13時。


 雲ひとつないよく晴れた空に、まだ冬の名残みたいな冷たい風が混じっている。


 都心から少し外れたキャンパスは、新歓仕様の飾り付けでやけに華やいでいた。

 正門から伸びる並木道には「新入生交流会へようこそ」と書かれた垂れ幕。ところどころに学生っぽい手描きポスターが貼られている。


(……なんか、本当に入るんだな、大学)


 暮上玲司は、胸ポケットに入れた案内パンフレットを指で押さえながら、小さく息を吐いた。


 4月から進学予定の、この大学。

 今日はその入学前交流会とやらで、新入生向けの説明会やキャンパスツアー、先輩たちとのフリートークやら部活・サークル紹介やら、盛りだくさんの一日になっているらしい。


 中庭には、同じ新入生らしき人たちが、首から名札を下げてぎこちなくお喋りしている。

 その周りには、学部を問わず、色とりどりのパーカーやジャンパーを着た先輩たちが笑顔を貼り付けて立っていた。


「こんにちはー、新入生かな?」

「学部はどこ? よかったら案内しようか?」


 元気よく声をかけてくる人たちを、玲司は曖昧に笑ってやり過ごす。

 別に、人付き合いが極端に苦手ってわけでもないが——今はまだ、知らない人たちの輪の中に飛び込めるほど器用な気分ではなかった。


 久瀬轟馬。

 覇剣はけん


 あの水族館前の光景は、昨夜も頭の中でぐるぐる再生されていた。

 早朝の鍛錬で少しは落ち着いたと思っていたが、完全に消えるわけじゃない。


(でも、来なかったら来なかったで、あとで絶対後悔するしな)


 澪や楽、それにフィースにだって、こういう「普通の予定」があることくらいは知っておいてほしい気もする。

 戦いだけじゃなくて、ちゃんと日常も続いてるって、自分で確かめたかった。


 案内に従って教室棟に向かい、学部ごとの説明会で一通り話を聞く。

 教授らしき人が、これからのカリキュラムや大学生活の魅力やらをスライドで説明してくれる。


 教室には、同じ学部に入る予定の新入生が40人ほど。

 前の方の席では、すでにやたらと慣れた感じで質問を投げまくるやつもいる。


「サークルって、他大学の人も入ってきたりするんですか?」

「バイトと両立している先輩ってどれくらいいますか?」


 みんな、ちゃんと未来のことを考えている。

 授業のこと、バイトのこと、人間関係のこと——。


 それが普通だ。

 普通で、健全で、まっとうな「4月から」を見ている。


(……オレも、そっち側にちゃんと足突っ込めるのか)


 ちらりと、自分の右手の感覚を思い出す。

 鎖剣グラティナの感触。

 鎖が皮膚に食い込む、あの独特の感覚。


 ここにいる誰も、そんなものは知らない。

 知らなくていい世界だ。


 説明会が終わると、自由行動の時間になった。

 ゼミ発表の見学会や、研究室のポスター展示、部活・サークルのブースを回ることができるらしい。


「せっかくだし、ちょっと見てくか……」


 息抜き、という建前を自分に与えて、玲司は校舎を出た。


 体育館へ続く渡り廊下の手前には、部活紹介の立て看板がずらりと並んでいる。

 バスケットボール部、写真部、軽音サークル、演劇研究会——。


 その中に、「ボクシング部」という文字があった。


(ボクシング部ね……)


 小さく首をかしげながら、体育館の方へ歩いていく。


 楽なら、こういうの興味持つだろうな、と思う。

 異域では存在しないスポーツ、だとかなんとか言って、ルールを全部覚えてから見に行くタイプだ。


 自分は、別にそこまで格闘技に詳しいわけじゃない。

 せいぜいテレビのスポーツニュースで、たまに試合のダイジェストを見る程度だ。


 でも——。


 覇剣を振り回すような「異常」じゃなくて。

 人間の体ひとつでどこまでやれるのか、という「普通の限界線」が、少し気になった。


 体育館の前までくると、入り口に「本日 合同練習中 見学自由」と書かれた貼り紙があった。

 どうやら、他大学と一緒に練習をしているらしい。


(ちょっとだけ、覗いてみるか)


 靴を体育館シューズに履き替え、中に入る。


 中には既に数十人分の熱気が充満していた。

 バスケのコートを区切って作られたボクシング用のスペース——その一角に、リングが組まれている。


 ロープで囲まれたその中央には、ヘッドギアとグローブを付けた選手が二人。

 コーチらしき男や、部員たちがロープ際に立ち、練習の様子を見守っていた。


「おお……」


 リングの脇には、同じように見学に来たっぽい新入生や、他の部活の先輩たちもいる。

 地方出身らしい訛りで会話しているやつもいれば、派手な髪色の女の子たちもいる。


 玲司は、邪魔にならないよう端の方に立ち、リングを見上げた。


 その瞬間——。


「ッ!」


 ゴッ、と鈍い音が響き、空気が一瞬だけ震えた。


 拳が、顔面にめり込む。

 ヘッドギア越しでも分かるほど、綺麗に顎を跳ね上げた一撃。


 打たれた方の選手が、ロープに背中を預けるようにして後退し、そのまま崩れ落ちかける。

 レフェリー役の人間が慌てて止めに入った。


「ストップ! ストップ! 一回切るぞ!」


「いってええ……マジで殺す気かよ、九条……」


 よろよろと立ち上がりながら呻く声。

 もう一人、グローブをつけたまま肩で息をしている選手が、ゆっくりロープにもたれかかった。


 そいつは——目に入った瞬間、分かった。


(……強い)


 体格は、特別大柄というわけでもない。

 身長はせいぜい175前後だろうか。筋肉質ではあるが、ボディビルダーみたいにゴリゴリではない。


 だが、リングの上での「収まり方」が、明らかに他と違っていた。


 重心の位置。

 首の太さ。

 立っているだけで、周囲の空気が張りつめるような、妙な圧。


 額から汗が流れ、その合間から覗く目は静かだった。

 興奮でギラついているわけでも、相手を見下しているわけでもなく——ただ、淡々と「次の一手」を計っている瞳。


「おまえ、もうちょい手加減っつうもんをだな……」


 ロープの外から、部の先輩らしき男が苦笑混じりに声をかける。


「すみません」


 低い声。

 その選手——さっきの強烈なパンチを放った本人は、タオルで顔を拭きながら素直に頭を下げた。


「つい、踏み込みたくなってしまって」


「お前の“つい”は洒落になんねえの。こっちの肝が冷えるわ」


 周りから、苦笑交じりの笑い声が漏れる。

 だが、その笑いにはどこか、本気で恐れている気配も混じっていた。


 リングの下で、誰かがぽつりと呟く。


「さすが名門なかどのエース……ってとこか」


 名門なかど大学。

 聞いたことのある名前だ。


 全国的にも有数のスポーツ強豪校で、ボクシング部もインカレ常連だとか何とか——ニュースで見た覚えがある。


(そこの“エース”……?)


 リングの上の男は、タオルを受け取りながらロープをくぐり、足元のステップを踏んで外に出てくる。


 その瞬間——ふと、視線がこちらに向いた。


 一瞬だけ、目が合う。


 黒目がちな瞳。

 そこに、あの覇剣の持ち主に似たような「壊れた光」はなかった。


 けれど——。


(……っ)


 心臓が、一拍早く跳ねた。


 久瀬とは、違う。

 あいつみたいに、何もかも壊して笑っている目じゃない。


 でも、リングの上で散々殴り合った直後だというのに、その瞳にはまだ余裕があった。

 まだ余力があり、まだ先を見ている目。


 久瀬が「暴力そのもの」だとしたら——こいつは、「研ぎ澄まされた刃物」か何かだ。


 ほんの一瞬。

 数秒にも満たない視線の交錯。


 だが、その短い間に、どこか身体が強張った。


 すぐに、男は視線をそらした。

 別の方から声をかけられたらしく、「はい」と軽く返事をして、コーチの方へ歩いていく。


 玲司は、小さく息を吐いた。


「お、新入生?」


 不意に、横から声をかけられた。


 振り向くと、この大学のボクシング部らしき先輩が一人。

 部のTシャツを着て、首にタオルを巻いている。


「見学? 興味あったりする?」


「あ、いえ。通りがかっただけで……雰囲気だけ、ちょっと見てみようかなって」


「そっか。すごかったろ、今のスパー」


「はい……さっきの人、めちゃくちゃ強そうでした」


 先輩は、リングの方を顎で指す。


「あいつ、一年なんだぜ。一年であの貫禄、マジで化け物だから」


「え、一年って……」


 思わず聞き返してしまった。


(オレの一個上……?)


 さっき見た横顔が頭に浮かぶ。

 落ち着いた目、無駄のない動き、リング上の支配力。


 とても、一歳しか違わないようには見えなかった。


「名前は……九条、って聞こえたんですけど」


「ああ、九条灯雅くじょう とうが。こっちの練習にちょくちょく顔出してくれてんだよ。ウチのOBに名門のコーチやってる人がいてさ、その縁で」


 九条灯雅。

 名門大学ボクシング部のエース。

 一年生。


 タグのように、その情報が頭の中に貼りつく。


「インカレでもすでに名前売れてるし、そのうちプロ行くだろうなあ。身体の使い方が、もうちょっとおかしいもん」


 先輩は、楽しそうに言う。


「うちの部員も、いい刺激受けてるよ。人間でもここまで行けるんだってさ」


 その言葉に、玲司はわずかに、胸のあたりがざわつくのを感じた。


(人間でも——か)


 つい数日前まで、自分にとっての「ヤバい人間」といえば、手斧を振り回す路上の男や、鞭を使う異常者だった。

 そこに加わったのが、覇剣を持つ怪物。


 それらはみんな、グリップという「異常な道具」を持った存在だ。


 でも——。


 九条灯雅という男のパンチは、さっきの一撃だけで分かるくらいに重かった。

 ヘッドギア越しでも、音と空気の揺れでそれが伝わる。


 あれは、異域エンタリアの力でも、超常でもない。

 ただ、「人間」として積み上げてきたものの結果だ。


 リングの方をもう一度見ると、九条は既にヘッドギアを外していた。

 汗で少し濡れた髪を指先でかき上げ、コーチと何か話している。


 その横顔は、やっぱり一歳上とは思えないほど大人びて見えた。


「どう? ボクシング、興味湧いた?」


 先輩が、軽く尋ねてくる。


「いや……すごいなとは思いましたけど、オレは多分、見てる方で十分です」


 苦笑交じりにそう返すと、「だよなー」と先輩も笑った。


「うちの部、根性論は少なめだけど、それでも結構キツイからさ。また機会あったら覗きに来て。新入生の歓迎練習とかもやると思うし」


「はい。ありがとうございます」


 軽く頭を下げて、玲司は体育館を後にした。


 外に出ると、さっきよりも日差しが強くなっていた。

 コンクリートがじんわりと温度を帯び始めている。


(……疲れた)


 具体的に何かをしたわけではない。

 説明会を聞いて、ちょっと見学して、体育館で練習を眺めただけだ。


 それなのに、妙な疲労感が体にまとわりついていた。


 多分、さっきまでいた場所が「緊張の塊」みたいな空間だったからだろう。


 ボクシング部のリング。

 九条灯雅という、ただの一年生とは思えない存在感。


 昨日の久瀬とは違う種類の「圧」を、身近なところで見せられたせいで、無意識に身構えていたのかもしれない。


(これ以上なんか見て回ると、キャパオーバーしそうだな)


 まだ、研究室見学とかサークルのステージ発表とか、色々と予定は組まれているらしい。

 けれど、今日はここまででいい気がした。


 パンフレットを見なくても、帰り道は何となく分かる。

 来た時と同じ並木道を戻り、正門へと向かう。


 途中、新入生っぽい男女のグループが、楽しそうに笑いながら写真を撮っていた。

 キャンパスの風景。

 正門の前。

 「#春から○○大」とかいうタグが、SNS上にはもう並び始めているのだろう。


 その輪に入っていく勇気は、今の自分にはない。


(でも——)


 ポケットの中で、グリップの金属の感触を確かめる。


(グリップ持ってるからって、それだけが全部じゃない)


 水族館前の戦いも、久瀬も、覇剣も。

 全部まとめて「今の自分」に含まれている。


 大学での生活も、その一部になる。


 そう思ったら、少しだけ、足取りが軽くなった気がした。

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