第19話
2月28日、16時。
門の外は、冷たい雨だった。
刑務所の正門の前。
簡素なゲートの向こう側には、灰色のアスファルトと、濡れた街路樹と、行き交う車の音。
「……ちっ」
久瀬轟馬は、支給されたばかりの安っぽいスニーカーの先で、水たまりを蹴った。
迎えは、誰も来ていない。
黒塗りの車も、見慣れた顔も、一本の電話すらない。
門の向こうにいるのは、傘もささずに突っ立っている自分一人と、遠巻きにこちらを見ている通行人が数人だけ。
だが、その事実に、疑問は浮かばなかった。
(そりゃそうだわな)
懲役八年。
その間、一度も面会は来なかった。
差し入れも、手紙もない。
最初の二年くらいは、「連絡が遅れてるだけだろ」と自分に言い聞かせていた。
三年目には、その言い訳も出てこなくなった。
面会室のガラス越しに、誰かが来る夢を見た夜もあった。
目が覚めるたび、枕を殴りつけた。
(あのクソ野郎が、オレの代わりに檻ん中に入るタマじゃねえってことくらい、最初から分かってたろ)
若頭。
関東某暴力組織の、若きナンバー2。
そのすぐ横で「若頭補佐」として走り回っていたのが、久瀬轟馬だった。
八年前の、あの日までは。
「おう、悪いなゴウマ。これは組のためだ」
そう笑って言った男の顔を、今でもはっきり思い出せる。
けれど、あの日のことを「組のため」だと思っているのは、もう自分だけなのかもしれない。
「……なあに、いいさ」
自嘲混じりに呟き、空を見上げる。
雨粒が、睫毛の先に溜まっては落ちていく。
(どうせオレが黙って全部かぶったおかげで、あいつは今も上でふんぞり返ってんだろ)
だからこそ——。
久瀬は、出所したら決めていたことがあった。
組を、壊す。
自分を見捨てた連中を、叩き潰す。
八年分の時間を、全部まとめてここで取り立てる。
そのために、今まで腐らずに生きてきた。
「……行くか」
雨に濡れたジャージの袖をまくり上げ、軽く肩を回す。
寒さは、もう感じなかった。
刑務所から組の本部まで、電車で二本、徒歩で二十分。
頭の中でルートをざっくり組み立てながら、最寄りの駅へと歩き出す。
途中のコンビニで買った安い傘を片手に、濡れた歩道を踏みしめる。
街は、八年前と大して変わっていなかった。
チェーン店の看板。
大通りを走るタクシー。
学生の笑い声。
(こっちは八年も、犬みてえに檻の中で腐ってたってのによ)
奥歯がきしむ。
(ちゃんと、ぶっ壊してやんねえとな)
そんなことを考えながら、大通りに出た時だった。
――キュル、と。
道路の脇に停まっていた黒いワンボックスカーのタイヤが、わずかに軋む音を立てた。
何気なくそちらを見る。
その瞬間、窓ガラスがわずかに下がった。
銃口が見えた。
「……あ?」
疑問の声を出し切るより早く。
パン、パン、と乾いた音。
腹の奥が、熱くなる。
「……っが」
力が抜ける。
傘が手から滑り落ち、アスファルトに転がった。
遅れて、激痛がやってくる。
(やられた)
理解と同時に、膝が崩れた。
視界が地面に近づいていく。
濡れたアスファルト。
にじむ赤。
「よっ、お疲れさん」
耳元で、知らない声が笑った。
「八年ぶりのシャバはどうだよ、久瀬さん」
靴音が近づいてくる。
腹の痛みで、まともに顔を上げることができない。
代わりに見えたのは、雨に濡れた靴のつま先と、車の黒い横っ腹。
「……てめえら……」
「質問の時間はねえんだわ」
肩を蹴られる。
怒鳴る気力は、もう無かった。
そのまま、視界は黒に塗りつぶされた。
◇
うっすらとした揺れと、ガタンという振動で目を覚ました時には、すでに車はどこかを走っていたらしい。
腹にはざっくりとした包帯。
おそらくは「死なない程度」に手当てされている。
両手首と両足首には、分厚い結束バンド。
背中は固い床に押しつけられ、視界には車の天井しか映らない。
喉が焼けるように渇いていた。
だが、声を出すのは無駄だと、どこか冷静な部分が理解していた。
暗転。
次に目を開けた時には——世界は白かった。
正確には、「白い光」に溢れていた。
巨大なライト。
工場の夜間作業用に使われるような、むき出しの照明器具がいくつも並び、錆びた鉄骨とコンクリートの床を照らしている。
「……廃工場、かよ」
乾いた声が漏れる。
床は油と土と雨水で黒ずんでいた。
手首には、太いロープが食い込んでいる。
鉄骨の柱に背中を預ける形で、両腕と胴体をまとめて縛られていた。
何本もの足音。
周囲には十数人はいるだろう。
靴底の音や、煙草の匂い。
どれも懐かしい種類の「空気」だった。
「よう。起きたか、ゴウマ」
聞き覚えのある声がした。
ライトの縁から一歩前に出てきた男の顔を見た瞬間、久瀬の中で、何かが冷たく固まった。
「……テメェ」
かつての若頭。
今は——。
「いまは“組長”だ。肩書きくらい、ちゃんと覚えとけよ」
男は笑った。
八年前より少し老けた顔。けれど、目の奥に浮かぶ薄汚い光は何も変わっていない。
背後の壁には、新しく作られたばかりの組の代紋が掲げられている。
だが、その色はどこか薄い。
「八年ぶりだなァ。生きて出てくるとは思ってたぜ」
「……迎えに来たのが、そのザマかよ」
腹の痛みを無理やり押さえ込んで、吐き捨てる。
「本部で顔合わせして『おかえり』って言ってくれるんじゃねえのか。オレが全部かぶってやった、おかげさまで出世しました、ってよ」
「あー……」
組長は、面倒くさそうに頭を掻いた。
「まあ、そういう筋書きも最初はあったかもな」
煙草に火をつける。
紫煙が、白いライトに揺らめく。
「でもよ、八年もすりゃ色々変わる。世の中も組も、オメーの立ち位置もな」
周囲で笑い声が漏れる。
「組ぃ?」
久瀬は、鼻で笑った。
「変わったっつうより、縮んでんだろ。ここ数年のニュースくらい、檻の中でも見れたわ。抗争で負けて、シマ削られて、ヒラどもは勝手に散って」
「耳だけはいいな」
組長は肩をすくめた。
「おかげさまで、ウチの組も今じゃ見る影もねえ。細々と地元のシマでショバ代取って、若いのは誰ひとり入ってこねえ。沈みゆく船ってやつだ」
「だったらとっとと沈め」
唾を吐くように言った。
「船ごと沈めるつもりで、オレは帰ってきたんだよ」
その言葉に、組長は一瞬だけ目を細めた。
すぐに、にやりと笑う。
「そうだろうなあ、とは思ってたよ」
銃声。
耳元の鉄骨に火花が散った。
すぐ横の柱に穴が空く。
硝煙の匂いが鼻を刺した。
「なあ、ゴウマ」
組長は、銃口をひょいと肩に乗せる。
「オメーさ、勘違いしてねえか?」
「……何がだ」
「オメーが黙って八年かぶったからってよ。オレがオメーに何か返してやる義理がある、なんて思ってねえだろうな?」
一歩、近づいてくる。
「この組はもう死に体だ。再興? ハナからそんなもん狙っちゃいねえ。オレはな、沈みゆく船でも、最後まで上に座ってたいんだよ」
その言葉には、一片の恥じらいもなかった。
「だからさ」
銃口が、久瀬の額に向けられる。
「今さらしゃしゃり出てくる『昔の若頭補佐』とか、邪魔だろ?」
腹の傷が、ずきりと痛む。
それでも、久瀬は笑った。
「……そうかよ」
肺の奥から、黒いもんが這い上がってくる。
それを、そのまま口に乗せた。
「やっぱオレ、間違ってなかったな」
「はあ?」
組長の眉がぴくりと動く。
「最初から、オレは悪くねえんだ」
唇の端が、ひきつった笑みに歪む。
「テメェらが汚ぇだけだ。世界がクソなだけだ。オレはそれに乗っかっただけだ。——なのに、なんでオレだけ八年も檻ん中で腐らなきゃなんねえんだ」
周りで、ざわ、と空気が揺れる。
「ゴウマ、オメー——」
「黙れよ」
久瀬は、縛られた肩に力を込めた。
「もう全部、ぶっ壊してえんだよ」
その瞬間、背後から押さえつけていた下っ端が、「は?」と間抜けな声を出した。
次の瞬間には、その男の手が久瀬の視界の端に見えた。
距離は近い。
ロープで両腕は動かない。
だが——口は、空いている。
「がっ」
久瀬は、迷わずその指に噛みついた。
「ぎぃッ!? いってえええ!!」
骨が砕ける感触。
血の味。
男の悲鳴が、廃工場に響く。
押さえつけていた力が一瞬抜ける。
そこで——何かが、切れた。
ロープが、きしむ。
皮膚に食い込んでいるはずなのに、その痛みさえ遠くなる。
腕の中の筋肉が、勝手に膨らんでいくような感覚。
心臓の鼓動が、耳の奥で爆音になる。
「っ……おおおおッ!」
咆哮。
ロープが、悲鳴を上げるようにちぎれた。
「なっ……!?」
「抑えろ!! 撃て、撃て!!」
怒号が飛び交う。
だが、久瀬の身体は、痛みよりも先に動いていた。
目の前の男の顎を、頭突きで砕く。
腰を捻って、隣の男の膝を踏み抜く。
腕を引っ張られた方向にそのまま体を回転させ、相手の関節ごとぶち折る。
一人、二人——数はすぐに分からなくなった。
ただ、目の前に動くものがいれば潰す。
誰かの鳩尾に拳がめり込む感触。
誰かの首を、手のひらでへし曲げる感触。
自分でも信じられないほど、身体が軽かった。
(オレ、こんなに動けたか?)
そんな疑問さえ、殴り飛ばす。
ただ——破壊することだけが、楽しかった。
だが。
「……あばよ」
冷たい声がした。
パン、と乾いた音。
胸の右側に、熱が走る。
パン、パン。
腕、肩。
膝。
「が、はっ……」
足がもつれる。
床が近づいてくる。
組長の姿が、ライトの向こうにぼやけて見えた。
銃を構え、冷めた目でこちらを見ている。
「やっぱ銃には勝てねえだろ、筋肉バカ」
軽く吐き捨てるように言う。
「まあ、せいぜい地獄で文句垂れてろよ。『オレは悪くねえ』ってよ」
悔しい、という感情よりも先に、笑いがこみ上げた。
(ああ、やっぱりだ)
世界は、最初からクソだ。
筋力でロープを引きちぎっても。
十人ぶん殴っても。
最後には、銃弾に穴を開けられて終わる。
(なんだよそれ。つまんねえ)
視界の端が、じわじわと暗くなっていく。
肺が痛い。
息が吸えない。
血が喉を焼く。
(全部、ぶっ壊したい)
港で、路地裏で、駅前で。
殴ってきたやつら。
命令だけして汚れ仕事を押し付けてきたやつら。
自分を見捨てて、椅子にしがみついてるやつら。
(オレは悪くねえ。オレをこんなふうにした世界の方が、よっぽど腐ってる)
だから——。
(殺したい)
願う。
(壊したい。全部。オレを笑ったやつらも、見捨てたやつらも。オレを使い捨てたこの世界ごと)
その瞬間だった。
――ガラリ、と。
何かが、頭上で崩れる音がした。
廃工場の、天井。
劣化で穴の空いた鉄板の隙間から、何か小さな金属片が落ちてくる。
視界の端で、それがゆっくりと回転しながら落下してくるのが見えた。
人差し指ほどの長さの、黒い金属。
表面には赤黒い紋様が刻まれている。
それは、まるで——誰かが投げ込んだ「答え」のように、真っ直ぐ久瀬の足元へ落ちてきた。
カラン、と乾いた音。
転がったそれは、血の海を滑って久瀬の指先に触れた。
――瞬間。
世界の色が、反転した。
「……っ!」
脳に、何かが流れ込んでくる。
見たことのない構造。
意味の分からない図面。
赤と黒の線が、脳内で勝手に繋がり、形を取っていく。
それは、「武器」だった。
握り方。
振り方。
どうやって「壊す」のが一番効率が良いのか。
すべてが、言葉ではなく感覚として押し込まれてくる。
(ああ——)
久瀬は、笑った。
(いいじゃねえか)
指先に力を込める。
血で滑りそうだったそれを、しっかりと握る。
「……
名前が、自然と口からこぼれた。
次の瞬間、黒い金属片が爆ぜるように伸びた。
赤黒い光。
幾重もの紋様が空間に浮かび上がる。
それらが収束した時——久瀬の手には、あの巨大な剣が握られていた。
幅広で、分厚く、どう考えても人間ひとりで扱うことを想定していない大剣。
刃の表面には、血管のような赤い紋様が走っている。
「な、なんだそれ……!」
誰かが叫ぶ。
構え方は、もう知っていた。
どうやれば、一番多くを、一番早く潰せるかも。
銃口が、こちらを向く。
引き金にかかる指。
光る銃口。
だが、その前に——覇剣が動いた。
「おらァッ!!」
最初の一振りで、正面の男の上半身が消えた。
血と肉片。
ライトの光が、赤に染まる。
反動は、想像よりも軽かった。
身体が、覇剣の重さに合わせて勝手に動いてくれる。
一歩踏み込んで、横薙ぎ。
膝から下だけ残して吹き飛ぶ身体。
上から振り下ろして、鉄骨ごと叩き割る。
逃げようと背を向けた男の背骨が、真っ二つになる感触。
銃声も、悲鳴も、もう遠い。
ただ、斬る。
潰す。
砕く。
覇剣が、世界の輪郭ごと塗りつぶしていく。
八年。
それまでの人生。
その全部を押し込めても足りないほどの「破壊欲」が、ようやく正しい形を得た。
気がついた時には——。
廃工場の床には、動くものがひとつもなかった。
血の匂い。
鉄と油の匂い。
壊れたライトが火花を散らし、天井からは冷たい雨が落ちてくる。
足元には、かつて「組員」と呼ばれていた肉の塊が散らばっていた。
「……はは」
久瀬は、覇剣を肩に担いだ。
銃で穿たれたはずの穴は、熱くうずく程度で、致命傷にはなっていない。
エンジンのように鳴っている心臓が、血を無理やり押し流している。
(やっと、手に入った)
世界を否定する力。
「全部、ぶっ壊してやるよ」
雨水と血でぬれた床を踏みしめながら、久瀬轟馬は静かに笑った。
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