第18話
3月8日、早朝。
まだ空が薄い群青色を残している時間帯。
山の端からようやく光が滲み始めた頃、街外れの神社には、すでにひとりの人影があった。
鳥居をくぐり、石畳の奥——昨日と同じ、少し開けた境内の中央。
玲司は、右手に握ったグリップを見下ろし、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……
小さく呟き、スイッチを押し込む。
濃青色の紋様が脈打つように光り、内部からほどけるように鎖が飛び出す。
ジャラ、と音を立てて右腕に巻き付き、皮膚と金属が一瞬だけ境目を失う。
次の瞬間、手の中には深い紺の刃があった。
朝焼け前の薄暗い境内に、鎖剣がだけが静かに青白い残光を放つ。
(……寝不足だな)
自嘲気味に笑いながら、玲司は剣を構えた。
昨日の戦闘の光景が、頭から離れなかった——というのは建前だ。
本当は、別のところがずっと疼いている。
(何も、できなかった)
鞭男とも、手斧男とも違う怪物。
楽が命を懸けて立っている目の前で、
澪が怖いまま矢を放っているすぐそばで——
自分は、端っこで立ち尽くしていただけだった。
怖かったから。
死にたくなかったから。
言い訳はいくらでも並べられる。
でも、結果として「何もしていない」のは事実だった。
「……っ」
喉の奥から、どうしようもない苛立ちがこみ上げる。
玲司は、鎖剣を水平に構えた。
足幅をとる。
重心を落とす。
楽に教わった通りの基本姿勢。
そこから、がむしゃらに振るのは違う——昨日までの自分なら、勢いだけでやっていたかもしれない。
(ちゃんと、“振る”)
肩の力を抜き、腰を回す。
足の裏で地面を押し、体の軸ごと刃を運ぶイメージで——。
「はっ!」
シュ、と風を切る音。
鎖剣の軌道が、朝の冷たい空気を断ち割る。
足元の砂利が、わずかに跳ねた。
肩が、腕が、じん、と重くなる。
昨日見た覇剣の一撃とは比べものにならない、情けない振り。
それでも、ただ振り回していた頃よりは、ほんの少しだけ「まともな一閃」に近づいている気がした。
もう一度。
今度は逆側に。
袈裟斬り、逆袈裟、横薙ぎ、突き。
同じ動作を、何度も何度も繰り返す。
息が白くなった。
額に汗がにじむ。
周囲には、鳥の声と、鎖が擦れる微かな音だけが響いていた。
(次——もし、また久瀬みたいなのと当たったら)
昨日の逃げ出したい衝動が、鮮明に蘇る。
怖くないわけがない。
今だって、思い出すだけで胃が痛くなる。
それでも——。
(今のまま固まるのとは、違う怖さでいたい)
怖いまま、踏み出せるように。
怖いまま、鎖剣を振り抜けるように。
それが、自分にできる「変わり方」だと、昨日の澪の言葉が教えてくれた。
「——気になるかい?」
ふいに、背後から静かな声がした。
反射的に、鎖剣を構え直す。
振り返った先——鳥居の影から、いつの間にか一人の男が歩いてきていた。
整ったスーツ。
中性的な顔立ち。
陶器のような肌と、どこか同じ世界の人間ではないことを思わせる佇まい。
「……フィース」
名前を呼ぶと、彼はわずかに目を細めた。
「朝の鍛錬とは、感心だね。眠れなかったのかな?」
「……まあ」
玲司は、鎖剣の切っ先を下げる。
完全には解かず、いつでも構えられる程度の位置に留めたまま、口を開いた。
「お前が言ってた強力なグリップ使いのことが、頭から離れなかったのは事実だけど……」
一拍置いて、自分で付け足す。
「一番気になってたのは、そいつじゃなくて——何もできなかった自分の方だよ」
フィースの口元が、かすかに緩んだ。
「それは、それで健全な反応だと思うよ」
彼は、境内の端に歩み寄り、割れた石畳や古びた拝殿を一瞥した。
この場所が、彼にとってもある程度「馴染み」になっているのだろうか。
「
「そりゃ、悪目立ちしすぎてるからな」
玲司は、鎖剣の柄を握り直す。
「十二人だっけ。まだ一週間も経ってないのに」
「正確には、観測範囲内で殺害を選んだ事例が十二だね」
フィースは指先を軽く弾いた。
何もない空間に、ホログラムのモニターが幾つか浮かび上がる。
警察のデータベース、ニュースサイト、SNSの断片。
それらを組み合わせた「久瀬轟馬」という男の輪郭。
「元・関東某暴力組織の若頭補佐」
淡々とした口調で語られる情報は、やけに生々しい。
「出自は地方だが、上京後はあっという間に頭角を現したらしい。喧嘩の強さ、肝の座り方、人心掌握。上からも下からも頼られるタイプ——だったそうだよ」
「過去形、なんだな」
「今は、その組もほぼ瓦解状態だからね。久瀬自身は、八年前、とある事件で逮捕された」
別のホログラムが開く。
ニュースの見出しが流れる。
『繁華街暴行事件』『複数人に重傷を負わせた疑い』『殺人未遂』『懲役八年の実刑判決』——。
「で、最近出てきたわけか」
「うん。刑期を全うして、出所。建前上は更生のチャンスを与えられた形になっている」
フィースは肩をすくめる。
「ただ——出所からすぐに消息を絶っている。人間のデータベース上では行方不明扱いだ」
玲司は、昨日見た久瀬の姿を思い出した。
覇剣を振り下ろすたびに、嬉しそうに笑っていた男。
殺意と興奮と、ほんの少しの理性しか宿っていないような瞳。
八年の刑務所生活で、何かがねじ切れたのか。
それとも、元々そういう人間だったのか——。
「で、その久瀬がこの先何をしたいのかって話だけど」
フィースが、こちらを一瞥する。
「彼は、君たちに……特に楽に、相当ご執心だ」
「……あいつに?」
妙に納得できてしまう部分もあった。
楽は、久瀬の一撃一撃を正面から受け止めて、かわして、時には斬り返していた。
体格差とかリーチの差とか、そういうものを無視して、「純粋な技術」で渡り合っていた。
「久瀬から見れば、潰し甲斐があるおもちゃってことか」
「言い方はどうあれ、認識としては近いかな」
フィースの声に、ほんの少しだけ冷たい色が混じる。
「彼にとって、このゲームは自分の暴力がどこまで通用するかを試す舞台だ。そして、楽のようなタイプは、その最適な試金石になる」
「……最悪だな」
思わず吐き捨てる。
「じゃあ、これからも——」
「うん。久瀬は楽を殺すために最優先で狙う可能性が高い」
淡々とした断言。
その言葉が、朝の冷気よりも冷たく感じた。
「他のグリップ使いと遭遇しても、とりあえず潰すのは変わらないだろうけどね」
(あいつ……)
昨日、歓声みたいな笑い声を上げていた久瀬の姿が、脳裏に浮かぶ。
あの目をもう一度、いや何度でも向けられるのか。
楽は、多分、正面から笑って受け止める。
そこが余計に腹立たしい。
「なあ、フィース」
玲司は、鎖剣の切っ先を地面に軽く立て、柄に両手を預けた。
「観測者ってさ。そこまで肩入れしていいのかよ」
久瀬の情報。
彼の性格、過去、今後の狙い。
それをここまで詳しく教えてくるのは、「中立な観測者」という立場からすると、明らかに踏み込み過ぎているように思える。
「楽が最優先で狙われるとか、わざわざ警告してくれるのもさ。立場に教えない方が良いんじゃないのか?」
少しだけ棘を込めて投げると、フィースは目を伏せた。
しばしの沈黙。
やがて、彼はいつものように肩を竦める。
「——さあ。分からない」
「……またそれかよ」
思わず眉間に皺が寄る。
「自分でやってることなんだろ?」
「役割としてやっている部分と、意志としてやっている部分が混ざっている、という意味さ」
フィースは、境内の隅の石灯籠に視線を流した。
「観測者にはそれぞれ、割り当てられた担当がある。ある程度の介入は許されているけど、その線引きは曖昧だ」
「曖昧って……」
「久瀬が楽を狙うと予測できるなら、それを伝えるのは適切な情報共有とも言える。一方で、それによって君たちがどう動くかを見るのは、観測者としての興味だとも言える」
そこまで言ってから、フィースはわずかに笑う。
「そして、第三の可能性として——」
玲司は、無意識に息を呑む。
「単にボク個人の好みの問題、という線もある」
「……は?」
「楽が嫌いじゃない。玲司も澪も、見ていて退屈しない。だから——あまりにも理不尽な潰れ方をしてほしくない、と思っているのかもしれないね」
さらりと、とんでもないことを言う。
そこにどれだけ本気が混ざっているのか、判別がつかない。
けれど、「完全な嘘」には聞こえなかった。
「それ、観測者としてはアウトじゃねえのか」
「アウトかどうかを決めるのは、ボクじゃないよ」
フィースは、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。
だが、その瞳だけは、じっと玲司を見据えている。
「ただ、一つだけ言えるのは——」
鎖剣に視線を落とす。
紺色の刃に、朝の光とフィースの顔がぼんやりと映り込んでいた。
「キミたちがどう動くかを決めるのは、ボクじゃないということだ」
その言葉は、不思議と重かった。
「久瀬が楽を狙う。それを知った上で、楽と一緒にいるのか、距離を取るのか。共に戦うのか、逃げるのか——」
フィースは、わざとらしく首を傾げる。
「それを決めるのは、観測者ではなく、キミたち自身だよ」
胸の奥で、何かがカチリと音を立てた気がした。
(どう動くかを決めるのは、俺たち)
分かりきっていたはずのこと。
でも、昨日まではどこかで「観測者に踊らされている」と思っていた部分もあった。
実際、そういう側面もあるだろう。
でも——。
(昨日、澪は自分で撃った。楽は自分で前に出た。俺は……)
自分だけが、「怖い」という感情に支配されて立ち止まっていた。
そこに、観測者は関係ない。
「……分かったよ」
玲司は、鎖剣をくるりと回し、刃を地面に軽く突き立てた。
「久瀬がどうだとか、観測者がどうだとか——そういうのも怖いし、気になるけどさ」
深く息を吸う。
冷たい空気が、肺の奥まで入り込んでくる。
「一番向き合わなきゃいけないのは、自分がどうするかだってのは、さすがに分かった」
昨日、澪に言われた。
『今度は玲司くんが変わる番なんじゃないかな』
あの言葉が、まだ胸のどこかで燻っている。
「次——もしまた、ああいう場面になったら」
覇剣が振り下ろされる光景を、意識的に思い浮かべる。
楽が一人で受け止めている背中。
そこに、今度こそ飛び込めるかどうか。
「怖いままでも、
それは、久瀬に勝つとか、倒すとか、そういう大それた決意じゃない。
昨日の自分を、次もそのままなぞるのか。
それとも、ほんの一歩だけでも踏み出せる自分になるのか。
その違いだ。
「自分の役割をちゃんと見つけて、動く。そうしないと、多分——この戦いで生き残る資格すらないんだと思う」
フィースは、しばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ柔らかく微笑む。
「いい答えだと思うよ」
それだけ言うと、彼は空間に開いたホログラムを消す。
「じゃあ、ボクはそろそろ行くよ。観測対象はキミたちだけじゃないからね」
「……ああ」
踵を返しかけたところで、玲司はふと呼び止めた。
「フィース」
「ん?」
「好みだかなんだか知らないけどさ」
言いながら、自分でも少しだけ苦笑する。
「どうせ肩入れするなら、中途半端じゃなくて、ちゃんと最後まで見届けろよ」
フィースの目が、わずかに見開かれた。
すぐに、楽しそうに細められる。
「了解。できる範囲で善処しよう」
曖昧で、掴みどころのない返事。
でも、その背中には、どこか前より「人間臭さ」のようなものが滲んでいる気がした。
フィースの姿が鳥居の向こうに消える。
再び、境内には玲司一人だけが残された。
冷たい空気。
古びた拝殿。
右腕に巻き付いた鎖の重さ。
「……よし」
玲司は、小さく呟いて鎖剣を構え直した。
覇剣の重さも、久瀬の殺意も、楽の笑い声も、澪の震える決意も——全部、頭の中に重ねる。
怖さも、後悔も、情けなさも。
その全部を、今日の一振りに乗せるつもりで。
朝日が、ようやく鳥居の上から顔を出す。
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