第16話

 澪がいない。

 その事実が、じわじわと胃を締め付けてくる。


(どこ行った……!?)


 視線を走らせながらも、足は勝手に戦場から距離を取っていた。

 久瀬轟馬と楽の戦闘に、巻き込まれないギリギリのライン。

 噴水広場の端。植え込みとベンチの影に身を潜めるようにして、玲司は歯を食いしばる。


(変なところに突っ込んでなきゃいいけど……)


 澪がただ逃げたとは思えない。

 昨日、「守るために戦う」って、あれだけ言っていたのだ。

 だからこそ余計に怖い。どこか見えないところで無茶をしているんじゃないかと。


 耳の奥で、空気を裂く轟音が響く。


「おらあァッ!!」


 久瀬の覇剣はけんが振り下ろされる度に、空気が振動するみたいに胸が震えた。

 赤黒い軌跡が、白いタイルを砕き、衝撃波だけで植え込みの土を抉る。


「っ……!」


 楽は、その化け物じみた一撃を、紙一重でいなしていた。


 宿木ステレコスは、細い剣から分厚い盾へ、また槍へと、目まぐるしく形を変える。

 刃を滑らせるように軌道を逸らし、盾で衝撃を殺し、槍で牽制の突きを返す。


 だが――。


(押されてる……!)


 素人目に見ても分かる。

 一撃一撃を捌いてはいるが、その度に楽の足が半歩、半歩と下がっていく。


「どうしたどうしたぁ!? そんなもんかよ!!」


 久瀬が笑う。

 楽しそうに、本当に心の底から楽しんでいるみたいに。


「観測者が期待するだけはあると思ったが――所詮はガキかァ!?」

「評価に厳しいね」


 楽は息を切らしながらも、口調だけは軽い。


「ボクとしては、充分お腹いっぱいなんだけどなぁ。覇剣はけんの打撃、骨まで響くよ」


 冗談めかしているが、その額の汗はもう笑えない量だった。

 呼吸も荒い。胸の上下が、さっきより明らかに早い。


(エネビス、だいぶ削られてる……)


 ステレコスは、形を変えるたびにエネビスを消費する。

 さらに、相手の攻撃の性質をなぞり、切り離すたびに、負荷は倍増するのだと楽は言っていた。


 その武器は、瞬間的な対応力では無敵に近いが――長期戦には、向かない。


(このまま持久戦になったら、楽が先にガス欠になる……!)


 久瀬は、どう見ても体力の塊だ。

 一撃ごとにエネビスをゴリゴリ使っているはずなのに、息は乱れていない。むしろ、戦うほどに体が温まっているように見える。


(どっかで、隙を作って楽を戦線から引っぺがす……)


 自分にできるとしたら、それしかない。

 正面からあの覇剣と打ち合うなんて、無謀にも程がある。


 鎖剣グラティナは、中~近距離での制圧と防御が売りだ。

 あの超重量級の剣を捻じ曲げること自体は、理屈の上では可能かもしれない。


 だが――一歩間違えば、自分ごと叩き潰される。


(焦るな……! 楽が死なないラインを維持しつつ、こっちでもう一手用意する……)


 その時、視界の端で何かが動いた。


「……あれ」


 広場の奥。

 噴水の向こう、子ども用の遊具が並んでいるエリアがある。

 小さな滑り台、ロープのアスレチック、丸い展望台みたいな足場。


 その一番上――展望台のようになった丸い足場の上に、小さな影が立っていた。


 風に揺れる長い髪。

 淡い水色のカーディガン。


「澪……!」


 思わず、声が漏れる。


 彼女は、アスレチックの上から広場を見下ろしていた。

 両足をしっかりと開き、風でよろめかないように膝を曲げて重心を低くしている。


 そして――。


 その両手には、白と淡い青の光をまとった弓があった。


(セラフライン……!)


 静光弓セラフライン

 澪のグリップ。


 胸の奥が熱くなる。

 昨日まで、「撃てない」自分に打ちひしがれていたはずの彼女が――。


 今、その弓を、二人の戦場に向けて構えている。


 彼女の視線は、久瀬を捉えて離さない。

 楽ではなく、覇剣でもなく――明確に、久瀬轟馬という「個体」そのものを狙っている。


(行くのか……?)


 息を呑む。

 あの距離なら、観客を巻き込まずに済む。


 高さもある。

 広場全体を射線に収められる、悪くないポジションだ。


 セラフラインの弦に、澪の指が触れる。

 エネビスが収束していく気配が、遠くからでも分かる気がした。


 弓の中央に、淡い光の矢じりが形を取る。

 澪の肩は、震えていなかった。


(……撃て)


 心の中で、そう呟く。

 昨日、「怖いままでも撃つ」と言った彼女の覚悟を、今はただ信じるしかない。


 —―次の瞬間、弦が放たれる鋭い音が、はっきりと聞こえた。


 ビィン――ッ!


 光の矢が、大気を裂く。

 視界から一瞬で消える、セラフライン特有の速度。


 狙いは、久瀬の右肩。

 覇剣を振り抜いた直後の、わずかな戻しのタイミング。


 そこに突き刺さるはずだった――が。


「……ッ!」 


 久瀬の瞳が、かすかに揺れた。

 ほとんど本能だけで反応した、という感じだった。


 がむしゃらに、というよりも、条件反射的に。

 握り直していた覇剣を、右側から振り上げる。


 ギィンッ!!


 火花が散るような音。

 光の矢が、覇剣の側面にぶつかり、弾かれた。


 弾かれた、が――。


「……っ!」 


 久瀬の体勢が、ぐらりと揺れた。


 覇剣は、その重量ゆえに、ちょっとした軌道のズレが命取りになる。

 しかも、防御のモーションは想定していないタイミングでの「横からの一撃」だった。


 足幅が崩れる。

 右足にかかる重心が、一瞬だけ変な方向に流れた。


 それは、今までまったく見せなかった――明確な「隙」だった。


「――ナイスアシスト」 


 誰よりも早く、そのわずかな揺らぎを見逃さなかったのは、楽だった。


 覇剣が光の矢を弾いた、その直後。

 楽は、自分から正面に踏み込んだ。


「おおっと?」 


 久瀬が、反射的に覇剣を振り下ろす。

 正面から迎え撃つつもりの一撃。


 だが、楽の体はすでにそこにはいなかった。


「下だよ」


 かすかな声。

 楽は、久瀬の正面から――その足元へと滑り込んでいた。


 まるでタックルでも仕掛けるように、低く低く構え、股下を潜る。

 同時に、宿木ステレコスが、鋭い刃へと変形する。


 狙いは――右脚の内側。


「そこまで鈍くはないと思うけどね」


 刃が、肉を裂いた感触を楽の手に伝える。


 ザシュッ――。


「……っぐあ!?」


 久瀬の喉から、押し殺したような唸り声が漏れた。


 思っていたよりも、傷は浅い。

 筋まで届いたかどうか、ぎりぎりのラインだろう。


 だが、そこは脚の内側だ。

 少し切られただけでも、バランスは崩れる。


「テ、テメェェ!!」


 久瀬の怒声が、広場に響き渡る。

 覇剣を振り下ろそうとして――しかし、右脚に力が入らず、わずかに踏ん張りきれない。


 そのわずかな踏ん張り損ねが、決定的なタイムラグになった。


「今だ……!」 


 玲司は、反射的に走り出していた。


「楽!! こっち!!」


 観客と観客の間を縫うようにして、広場の端――人が少ない側の出入口を指さす。

 大型バスが停まるロータリーとは逆側の、従業員駐車場に抜ける細い通路だ。


「澪も、降りてこい!!」 


 アスレチックの方向に向けて叫ぶ。

 視線だけを向けると、澪はもう弓を解いて、滑り台の手すりを掴みながら駆け下りているところだった。


「了解」 


 楽は、短く言うと、そのまま転がるように距離を取った。

 久瀬の背後へ抜け、さらに大きく飛ぶ。


 それを追おうとして――久瀬の右脚が、また一瞬、痛みによろめいた。


「クソがぁ……!」 


 覇剣が地面に叩きつけられる。

 ドォン、と遅れて衝撃が広がるが、さっきまでのような威力はない。狙いも甘い。


 観客たちは、ようやく本能的な恐怖を強く感じ始めたのか、「やばくね?」「これマジで警察案件じゃね?」と口々にざわめきながら、じわじわ後退っていく。


 その混乱を逆手に取るように、玲司は楽の腕を掴んだ。


「行くぞ!」 

「うん。撤退判断は早い方がいい」 


 楽はあっさり頷く。

 息は荒いが、意識ははっきりしている。


 数秒遅れて、澪が駆け寄ってきた。

 まだ顔が青い。けれど、その瞳はしっかりしている。


「れ、玲司くん……!」 

「ナイス一矢だ。あれがなかったら、今の隙はなかった」 


 走りながら短く言うと、澪は驚いたように目を見開いた。

 だが、その顔はすぐに少しだけ誇らしげなものに変わった。


 三人で、広場の端へと駆ける。

 「立ち入り禁止」と書かれたチェーンを飛び越え、従業員搬入口方向へ。


「おい!! 逃げる気か、このガキども!!」


 久瀬の怒号が背中に刺さる。

 振り返ると、覇剣に体を預けるようにして立ち上がる彼の姿が見えた。


 まだ動ける。

 あの男は、まだ戦える。


 それでも――。


「ごめんね」


 楽が小さく笑って、広場の方へと振り返る。


「決着は、次に持ち越しだよ。今日は引き分けってことで」 


「勝手にまとめてんじゃねえええ!!」


 久瀬の声が、今度は怒りと興奮でぐちゃぐちゃになっていた。

 そのまま追って来ようとした――が、右脚が、またもや悲鳴を上げたのか、膝が少し折れる。


「っ……クソが……!」 


 歯噛みしながらも、さすがに全力疾走で追うのは難しいらしい。

 それでも、覇剣を杖代わりにして、じりじりと距離を詰めようとする。


 だが、その間にも、野次馬の一部はようやく「現実」を理解し始めていた。


「おい誰か警察に――」 

「いや、てかこの床やばいだろ、これ……」 


 スマホで撮っていた連中の中にも、さすがにヤバさを自覚した者が増えたのだろう。

 広場の周囲がざわつき始め、係員らしき人間も慌てて飛び出してくる気配がした。


(今しかない……!)


 玲司は、二人を連れて通路の角を曲がる。

 そこから先は、一般客がほとんど来ない、関係者用の駐車場だ。


 車の影に身を隠し、ようやく足を止める。


「……はあ、はあ……」


 肺が焼けるようだった。

 さっきまで戦闘に関わっていなかったくせに、逃げるだけでここまで息が乱れる自分が、情けない。


「とりあえず、ここまで来れば、すぐには追ってこれないと思う」


 楽が、壁に背中を預けながら言った。

 エネビスの消費が激しかったのか、顔色が少し白い。


「右脚、もっと深く切ることもできたけど――覇剣はけんを握ってる状態でそこまでやると、逆に暴発される危険があったからね。あれが限界」 


「十分だよ」 


 そう言いながらも、玲司の拳は、無意識に強く握りしめられていた。


(俺は……)


 あの場で、何をした?


 セラフラインの一矢で隙を作ったのは澪だ。

 その隙を逃さず、脚を切って足止めしたのは楽だ。


 自分は――。


(見てただけだ)


 戦場の端っこで。

 怖くて、飛び込む勇気が持てなくて。

 「状況を見ていた」という言い訳の下に、ただ立ち尽くしていただけだ。


 鎖剣グラティナは、ポケットの中で静かに沈黙している。

 自分の臆病さだけが、心臓の鼓動と一緒にやかましく響く。


「……ごめん」


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「俺、何もできなかった」 


 楽と澪が、同時にこちらを見る。


「楽が一人で戦ってくれて、澪も撃ってくれたのに……結局、俺、何もしてない」 


 自嘲気味に笑おうとして、うまく形にならない。

 喉の奥が焼けるように熱い。


「怖かったんだ」 


 ようやく絞り出した言葉は、驚くほどみっともなかった。


「鞭の男とも、手斧の男とも違う。桁が違うって分かってたから……。突っ込んだら、マジで殺されるって思って……」 


 だから、動けなかった。

 楽の方がヤバい状況にいたことは、頭では分かっていたのに。


 しばらく沈黙が流れるかと思った。

 だが――先に口を開いたのは、楽だった。


「ボクは、別に責めないよ」


 いつもの軽い調子で。

 だけど、その目は真面目だった。


「怖いって感じるのは、当たり前だからね。久瀬はそういう相手だよ」 


 楽は、指先で空をなぞるような仕草をした。


「むしろ、あの場でただ突っ込んで来られても困る。鎖剣グラティナは強いけど、あの状況で正面から打ち合ったら、本当に折れるのはそっちの方だから」 


「……それは、分かってるけどさ」 


「足止めは、ボクと澪でやるべき仕事だった。玲司は、撤退先を確保してくれた。それだけでも充分に役割は果たしてるよ」


 理屈でも、慰めでもなく。

 事実を並べるように、楽は言った。


 澪も、こくりと頷く。


「私……」 


 ぎゅっと両手を握りしめて、澪は続けた。


「昨日の私だったら、多分、今日も撃てなかったと思う。怖くて、あのまま見てるだけだった」 


 アスレチックの上にいた時の、自分を思い出しているのだろう。

 その目は、少しだけ震えていた。


「でも、撃てたのは……玲司くんや楽くんと一緒に訓練して、『変わりたい』って決めたからだよ」 


「……」 


「だから、今度は玲司くんが変わる番なんじゃないかな、って」 


 その言葉は、不思議とすっと胸に入ってきた。


 楽に責められるより、よほど効く。

 澪にそう言われることが。


 情けない自分を認めろと言われているようで。

 でも同時に、「それで終わりにするな」と背中を押されているようで。


 喉の奥で何かがつかえて、うまく返事ができなかった。


 恐怖。

 悔しさ。

 安堵。

 そして――。


 何一つ戦闘に参加できなかった自分への、どうしようもない羞恥。


 その全部を、次にぶつけるために。

 グリップを握りしめながら、暮上玲司は、静かに歯を食いしばった。

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