第15話
水族館のクラゲエリアは、相変わらず青白い光に満ちていた。
だけど、さっきフィースが告げた一言のせいで、その光がまるで非常灯に見える。
「この水族館に――強力なグリップ使いがいる」
耳の奥で、まだその声が反響している。
「……強力って、どのくらいだよ」
自分でも声が少し掠れているのが分かった。
フィースは、相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま、首を傾げる。
「名前は、
その名を口にする声音は、いつもよりわずかに低い。
「数字で言うなら――この一週間足らずの間に、十二人ほど」
「……は?」
思考が一瞬止まった。
「十二人?」
澪が小さく繰り返す。声が震えていた。
「そう。戦いが開始されてから、まだ一週間も経っていないのにね。観測範囲内で確定しているだけで十二人。記憶消去ではなく、“殺害”を選んだ事例が、だ」
十二。
あまりにも軽く言われたその数字の重さが、じわじわと追いついてくる。
「……ちょっと待て」
思わず、一歩フィースに詰め寄っていた。
「そんな化け物がなんでここにいるとか、どうして今その話をするのかとか、色々あるだろ。そもそも――」
喉が乾く。
それでも、絞り出す。
「なんで、わざわざ俺たちに教える?」
警告のつもりか。危ないから帰れって? それとも、わざとぶつけようとしているのか。
フィースは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
計算でもしているみたいな、静かな間。
そして――肩をすくめる。
「さあ。分からない」
「はあ!?」
思わず素の声が出た。
「分からないって、お前――」
「観測者は、必ずしも自分の行動原理を完全に把握しているわけじゃないよ」
こちらの苛立ちとは裏腹に、フィースの声はあくまで柔らかい。
「面白そうだから、かもしれないし。キミたちなら何か“変化”を起こしてくれるかもしれないから、かもしれない。あるいは単純に、ルールに違反しない範囲での“サービス精神”かもしれないね」
「どれもロクな理由じゃねえな……」
「だとしたら――」
フィースが、こちらを真っ直ぐ見た。
「キミは、『知らないまま』の方が良かったと思う?」
息が詰まる。
知らないまま、目の前に現れた相手が十二人殺しでした、と後から知るのと。
今、この時点で「そういう相手がこの空間のどこかにいる」と知っているのと。
どっちがマシかなんて――。
「……少なくとも、覚悟はしておける」
ようやく、それだけ絞り出した。
「なるほど」
フィースは、満足そうに頷く。
「じゃあ、今のところは『教えておいて正解』だったわけだ」
「言葉遊びしてる場合かよ」
額を押さえながら、次の質問を探そうとした、その時だった。
――きゃああああああ!!
水族館の奥の方から、甲高い悲鳴が響いた。
同時に、重い何かがぶつかるような、鈍い衝撃音。
空気が揺れたような気さえした。
「今の……!」
澪が顔を上げる。
周囲の客たちもざわつき始めていた。さっきまでクラゲを撮っていたスマホが、一斉に音のした方へ向けられていく。
「行くぞ、澪!」
「う、うん!」
考えるより先に、足が動いていた。
クラゲエリアの通路を抜け、エスカレーターの方へ走る。
「フィース、お前――」
振り返ろうとしたが、すでにそこに彼の姿はなかった。
いつものことだ。
必要な情報だけ投げて、さっさと姿を消す。
今は追及している暇はない。
エスカレーターを駆け下りる。
下のフロアから、さらに人のざわめきと、何かが軋むような音が重なって聞こえてきた。
「出口の方だ!」
澪が指さす。
自動ドアをすり抜けると、冷たい外気と眩しい光が一気に押し寄せてきた。
水族館の前には、広場がある。
中央には噴水、その周りを囲むようにベンチと植え込み。休日なら大道芸人がいてもおかしくないような、のどかなスペース。
――のはずだった。
「……何だ、あれ」
思わず立ち止まる。
広場の中央。
白いタイルが、無残に割れていた。
クレーターのように陥没した場所。
そこから少し離れた場所には、ひび割れた噴水の縁。水が変な方向に噴き出している。
その中心で――二つの影がぶつかり合っていた。
「楽……!」
澪が叫ぶ。
一人は、見慣れたミントグリーンの頭だ。
楽が、細身の体で軽やかに地面を蹴り、淡い黄緑の光を帯びた武器――
そして、その対面にいるのは――。
「でか……」
思わず口から漏れた。
広場の真ん中に立つその男――久瀬は、まるで「人型の壁」だった。
頭一つどころか、二つ分は高い。
ざっと見積もっても、身長は二メートル近いだろう。がっしりとした肩幅、分厚い胸板。着ているのは無地の黒いパーカーと野暮ったいジーンズなのに、その体格のせいで妙に威圧感がある。
短く刈り込まれた銀髪。日に焼けた肌にはいくつもの古い傷跡が走っている。
目元は笑っていないのに、口元だけが薄く吊り上がっている。
そして――その手に握られているのは、一本の巨大な剣。
幅広で、異様なまでの存在感を放つ刃。 刃全体が暗い赤黒い光を帯び、表面を走る紋様が脈動している。
柄から先、優に二メートルはあろうかという長さで、男の身長とほとんど変わらない。
厚みも尋常じゃない。鉄の塊をそのまま研いで刃を付けたような、暴力的な質量。
「――『
それが自身の声だったのか、グリップの名を知る観測者の声だったのかは分からない。
その名の通り、まさに「覇」を体現するような武器だった。
一振りするだけで――実際、一振りする度に――広場の床のタイルが砕け、衝撃波が周囲の植え込みを揺らす。
「楽……!」
思わず名前を呼ぶ。
楽は、ギリギリのところでその一撃一撃をいなしていた。
時折、槍のように伸びてカウンターを試みるが――。
「――っと」
楽が床を滑るように後退る。
次の瞬間、覇剣が地面に叩きつけられた。
ドゴォッ!!
爆音。
床が陥没し、砕けたタイルが四方に飛び散る。
近くにいた観客が悲鳴を上げながら後ろに跳ねた。
「す、すげー……なにあれ……CG?」
「やば、これ配信伸びるやつだろ……!」
誰かが笑い混じりに叫ぶ。
恐怖と興奮の境界線がぐちゃぐちゃになった声。
(ふざけんな……!)
こんなもの、どう見ても「事故」や「イベント」で済むレベルじゃない。
でも、昼間の広場で、現実味が追いついていない人間も多いのだろう。
スマホ越しなら、安全だと錯覚するのかもしれない。
「お前、やるなぁ!」
大男が、喉の奥から笑い声を響かせた。
低く太い声。
それだけで、空気が震えるようだった。
「今までで一番、潰し甲斐がありそうだ!!」
楽しげに――心から楽しんでいるように、そう叫ぶ。
「それはどうも」
対照的に、楽の声は軽い。
だが、その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「できれば、『潰される側』にはなりたくないかな」
「ははは! 言うじゃねえか!」
覇剣が、ぐん、と肩の上に担ぎ上げられる。
近くで見ると、その武器の異様さがより際立っていた。
ただ重いだけの鉄塊ではない。
刃の表面を走る紅の紋様が、まるで血管のように鼓動している。
久瀬轟馬――。
フィースが言っていた名が、嫌でも頭をよぎる。
十二人を脱落させたグリップ使い。
(あいつが……!)
楽の身長は、せいぜい百六十センチそこそこだ。
並んでいると、まるで大人と子ども。
片や長物の大剣、片や変形する光の刃。
異様な構図だが――押しているのは明らかに久瀬の方だった。
「ど、どうする……」
玲司は、足を止めたまま、無意識に右手をポケットに伸ばしていた。
グリップの冷たさが、指先を刺す。
けれど――。
(あのリーチとパワー相手に、正面から突っ込むのは自殺行為だ……)
楽でも、ギリギリ捌いている。
自分が迂闊に入れば、足手まといになる可能性だって十分ある。
「玲司くん……」
隣で、不安そうに澪が呟いた。
その声に、玲司はハッと我に返る。
「とりあえず、もう少し近く――」
状況を見極めようとして、観客の輪の隙間を縫うように前に出る。
(レベルが違う……)
鞭男や手斧男と戦った時とは、明らかに空気が違う。
あの時も死ぬかと思った。
でも、今のこれは――ちゃんと見ていないと、意識ごと置いて行かれそうなほどの速度と重さだ。
スマホを構えた野次馬たちは、十分な距離を保ちつつも、その場から動かない。
中には「映えそう」とか言って笑っている奴らもいる。
でも、楽と久瀬は、その視線を一切気にしていない。
ここが繁華街だろうが、昼間だろうが、関係ない。
ただ、目の前の「殺し合い」だけに集中している。
「……澪、大丈夫か?」
隣にいるはずの彼女の方を振り向く。
――いなかった。
「……え?」
視界に、澪の姿がない。
さっきまで、確かに俺のすぐ横にいた。
クラゲエリアを出て、一緒に駆け下りて、広場に出て。
ここで楽を見つけて、声を上げた、その隣に。
今、そこには誰もいない。
「澪?」
思わず呼ぶ。
返事は、ない。
代わりに、背筋を撫でるような嫌な感覚だけが、静かに広場を横切っていった。
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