第14話
3月7日、14時。
平日の昼下がりだというのに、水族館の入口はそこそこの人で賑わっていた。
親子連れ、カップル、外国人観光客。ガラス張りのエントランスからは、巨大な水槽の青い光がこぼれている。
「訓練ばっかりじゃ、さすがに脳が酸欠になるからね」
入場ゲートをくぐりながら、楽がご機嫌な声で言った。
今日の彼は、いつものミントグリーンの髪を帽子で隠し切れずにぴょこぴょこさせつつ、首からは水族館ショップで速攻買ったクラゲ柄のストラップをぶら下げている。
「行きたいって言ってたの、お前だろ。前から」
チケットを改札にかざしながら、玲司が呆れ半分で返した。
「だって、異域にはこの世界の海生生物はいないから。魚類系は文献データしか見たことなかったし、生で見てみたかったんだよね」
「楽くん、昨日の夜も『サメ! エイ! マンボウ!』ってテンション高かったもんね……」
澪がくすっと笑う。
今日の彼女は、淡い水色のカーディガンに白のブラウスという、いつもの「清楚系」のコーデだ。水族館の青い照明が反射して、全体的にいつもよりさらに透明感が増して見える。
「ほらほら、最初のトンネル水槽行くよ!」
楽は、早くもパネルの案内図を睨みつつ、先頭を歩き出した。
「おーい、そんな急がなくても魚は逃げねえぞー」
玲司がそう言い終わるころには、楽の背中はすでに人混みに紛れかけていた。
「ちょ、楽くん速い……!」
澪が慌てて早歩きになる。
それを横目で見ながら、玲司は苦笑した。
(……こういうの、なんか懐かしいな)
薄暗い通路に足を踏み入れると、頭上を巨大なエイが滑るように泳いでいく。
水のゆらめきが、天井から床へと反射して、まるで水底を歩いているような錯覚すら覚える。
「わ、キレイ……」
隣で澪が小さく息を呑んだ。
「楽くん、どこ行ったんだろ……あ、もう先の方で張り付いてるね」
指さされた先。
トンネルの終点付近のガラスに、楽がぴったり張り付いていた。すでに他の子どもたちに混ざって、サメの解説パネルを真顔で読み込んでいる。
「本当に俺らと同じ18歳か……?」
ぼやきつつも、その光景にどこか安心する。
――と同時に、胸の奥にじんわりとした懐かしさが浮かんだ。
(水族館……澪と来たの、いつ以来だっけ)
思い返す。
たしか、まだ小学生だった頃――。
◇
――回想。10年以上前。
「ねえねえ、澪! ペンギンいるんだって! ぺ・ん・ぎ・ん!」
その日も、水族館はそこそこ混んでいた。
小学生低学年の玲司は、入場パンフレットを握りしめ、そこに描かれたペンギンのイラストを澪の目の前につきつけていた。
「ペンギンさん、見たい? 見たいよね? な?」
「う、うん……でも、ママが『あんまり走らないでね』って……」
幼い澪は、当時の俺よりも少しだけ背が高くて、髪も肩にかかるくらいの長さだった。
白いワンピースの裾をぎゅっと握りしめ、おずおずと周りを見回している。
「大丈夫だって!」
その手首を、玲司は勢いよく掴んだ。
「ちゃんと戻ってくる! ペンギン見てもどる!!」
「れ、玲司くん、ちょっと待って――!」
澪の声は、周囲のざわめきにかき消される。
水槽のトンネルを抜け、暗い通路を曲がり、ペンギンエリアの矢印を目印に、人の流れを縫うように走っていく。
そして――。
「……あれ?」
気づいたら。
ペンギンの看板も、ママの姿も、どこにもなかった。
「ねえ、玲司くん。ここ、どこ……?」
周りには、知らない大人たち。
イルカのぬいぐるみを持った子どもが笑いながら走っていく。
時計を見る習慣なんてない年頃だ。
どのくらい歩いて、どのくらい離れたのかも分からない。
「ご、ごめん……」
じわり、と視界が滲んだ。
「ボクが急いだから……ペンギン見に行こうって言ったから……」
自分のせいで澪を迷子にした。
ただそれだけの事実が、幼い玲司の胸をぐいぐい締めつける。
泣き出したいのは、こっちの方だ。
でも、隣で澪が怯えた顔をしているのを見ると、余計に胸が苦しくなる。
「れ、玲司くん……泣かないで……」
おろおろと両手を振ったあと、澪はふと、きゅっと表情を引き締めた。
「大丈夫だよ。きっと、ママが見つけてくれるから」
その声は、震えているのに、不思議と芯があった。
「だから、あんまり動かない方がいいと思う。ここで、ちゃんと待ってよ?」
涙目のまま微笑む澪を見て、玲司の方が泣きそうになる。
本当は、一番不安なのは彼女のはずなのに。
「……うん」
手の中で、澪の指がきゅっと絡んだ。
「一緒にいれば、絶対大丈夫だよ」
そう言って。
澪は、それから本当に一度も泣かなかった。
周りをきょろきょろ見回しながらも、足は動かない。
通りすがりのお姉さんに「どうしたの?」と聞かれても、「ママと離れちゃって……ここにいる、って約束したの」とはっきり答えた。
やがてスタッフが見つけてくれて、館内放送が流れた。
数分後、息を切らした澪のママが駆け寄ってきて、ふたりを強く抱きしめる。
その瞬間、ようやく――玲司の目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
しゃくりあげる彼の頭を、澪のママは優しく撫でる。
「玲司くんも、澪も、ちゃんとそこにいてくれたから見つかったんだよ。えらかったね」
その言葉に、「うん」と答えたのは澪の方だった。
彼女は、最後まで涙を見せなかった。
◇
――現在。水族館、クラゲエリア手前のベンチ。
「……あったな、そんなこと」
青白い光に照らされたベンチに腰掛けながら、玲司はぽつりと呟いた。
「ん? どうかした?」
隣で、澪が飲み終えたペットボトルのキャップを締めつつ首を傾げる。
さっき自販機で買ったソーダが、炭酸の泡を細かく立てていた。
ペンギンエリアの方向を指さしながら、玲司は続けた。
「前にさ。澪とここ来た時、あの辺で迷子になったろ。俺が『ペンギンだー!』って突っ走って」
「あ……」
澪の表情が「ああ」という顔になる。
「覚えてるよ。小学校の時でしょ。ママと三人で来た時」
「その時さ、俺は泣いたけど、澪は泣かなかった」
苦笑混じりに言うと、澪は目をぱちぱち瞬かせた。
「え、そうだっけ?」
「そうだよ。俺、『ごめん、ごめん』ってずっと言ってて。澪は『ここで待ってたらママが見つけてくれるから』って――」
あの時の、ちいさな手の感触が蘇る。
怯えているくせに、自分より先に周りを見て、状況を判断して、泣くのを我慢していた幼い澪。
「……強いよな。お前」
ぽつり、と本音がこぼれた。
「え?」
視線を横にやると、澪は目を丸くしていた。
「俺、正直たぶんどっかで――」
言葉を探しながら、額に手を当てる。
「お前のこと、『守られる側』って決めつけてたんだと思う」
口に出してみると、思った以上に苦かった。
「怖がりで、優しくて、戦いには向いてないって。だから、俺が前に出ればいいって勝手に思い込んでた。変わろうとしてるのに、変われるって信じてなかった」
昨日、楽に言われたことが頭をよぎる。
『玲司は、澪が変われないって、どこかで決めつけてるよね』
あの言葉を、ようやくちゃんと噛み砕けた気がした。
「……ごめん」
素直に頭を下げる。
「勝手に分かった気になって、勝手に守る側に決めつけてた。お前のちゃんと強いところ、見ないふりしてた」
一拍置いてから、澪はくすっと笑った。
「……なにそれ。今さら、みたいな感じ」
「今さらで悪かったな」
拗ねたように返すと、澪は首を横に振る。
「ううん。嬉しいよ。ちゃんと、そう言ってくれて」
ペットボトルを両手で抱えたまま、彼女は少しだけ真面目な顔になる。
「小さい頃の私が強かったんじゃなくてね。玲司くんが一緒にいてくれたから、我慢できただけだよ」
「そうか?」
「そうだよ」
言い切ってから、少し照れたように笑う。
「だから――」
不意に、視線が真っ直ぐこちらを捉えた。
「今度は、ちゃんと見ててね。私のこと」
その言葉には、昨日の決意が宿っているように思えた。
逃げないって決めた自分のこと。
変わろうとしてる自分のこと。
それを「守られる側」じゃなく、一人の戦う人間として見ていてほしい、という願い。
「……ああ」
玲司は、ごく自然に頷いていた。
澪が、ふわりと笑う。
その表情を見つめていたら――。
「――やあ」
不意に、第三者の声が割り込んできた。
「青春だねえ」
ぞくり、と背筋が冷たくなる。
さっきまで背もたれに預けていた肩が、反射的にこわばった。
振り返る。
クラゲ水槽の淡い光の中に、場違いなほど整ったスーツ姿の男が立っていた。
陶器のような肌。
中性的な整った顔立ち。
柔和な微笑みを浮かべたまま、しかし瞳は一切笑っていない。
「フィース……!」
思わず立ち上がる。
澪も、ペットボトルを握る手に力を込めた。
「どうしてここに――」
「さっきから見ていたけど」
玲司の問いかけをさらりと無視して、フィースは顎に手を当てた。
「暮上玲司と朝田澪。キミたちは、恋愛関係にあるのかい?」
「はっ!?」
澪の声が裏返る。
玲司も、思わず変な声が出そうになったのを咳払いで誤魔化した。
「な、何言ってんだ急に!」
「観測者は、対象の関係性を把握しておく必要があるからね。感情のベクトルは、戦闘時の行動に大きく影響する」
フィースは、まるで天気の話でもしているかのような口調で言う。
「友情なのか、家族愛なのか、恋愛感情なのか。それによって、適切な刺激の与え方も変わってくるから」
「刺激とか言うな」
ぞっとする単語を、さらっと口にしないでほしい。
「べ、別に、そういうんじゃ……!」
澪が慌てて手を振る。
「幼馴染で、一緒にいる時間が長くて、その……大事な人ではあるけど、その、こ、恋愛とかは……」
「お、おい、そんな真面目に答えなくていいから!」
余計ややこしくなる。
フィースは、ふむ、と小さく頷いた。
「なるほど。現時点では未確定というわけだね。観測者的には一番面倒な状態だ」
「失礼すぎない?」
「でも、面白い状態でもある」
さらっととんでもないことを付け加えてから、ようやく微笑を引っ込めた。
「まあ、プライベートな感情の話はここまでにしておこうか」
「最初からプライベートに踏み込むなよ……」
玲司が額を押さえると、フィースは視線を水槽の方へと向けた。
そこには、無数のクラゲが漂っている。
透明な傘と、ひらひら揺れる触手。
淡いライトに照らされて、すべてがゆっくりと流れていく。
しかし、その瞳はクラゲではなく――その向こう側を見ていた。
「本題は、別にある」
ふっと声の温度が下がる。
「ここはいいね。人が多くて、視界も複雑で、生命活動も活発だ」
言葉の一つ一つが、やけに乾いている。
「彼が好む条件が揃っている」
「……彼?」
玲司が問い返すと、フィースはようやく視線をこちらに戻した。
「今日はただの息抜きのつもりだったんだろうけどね」
穏やかな微笑み。
「残念ながら、そうもいかないらしい」
その目だけが、鋭く光る。
「この水族館に――強力なグリップ使いがいる」
その一言で、先ほどまでの水のゆらめきが、一気に「戦場の気配」に変わった気がした。
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