第13話

 3月6日。14時頃。


 フィース・ラグランジュは、ひとつの「戦い」の結末を見届けると、観測者専用の回線を切り、そのまま人間世界の雑踏の中へと歩み出た。


 場所は駅前の老舗百貨店。

 エスカレーターを上った先、催事場フロアの一角には、大きな垂れ幕が掲げられている。


『春の鮮魚フェア 〜本マグロ解体ショー開催中〜』


 人間たちの熱気が、むっとした温度になって渦を巻いていた。

 その中心――即席のステージ上で、巨大な銀色の魚が横たわっている。


 マグロ。


 と、人間たちは呼ぶらしい。


「……これは、なかなか」


 フィースは、わずかに眉をひそめた。


 鼻を刺す、生臭い匂い。

 アラヤミスでは決して嗅ぐことのない種類の臭気だ。腐敗の兆しとも違う、血と脂と海水が混じった、特有の芳香。


 思わず指先で鼻をつまむ。

 が、その視線は、ステージ上から離れなかった。


 白いコックコートを着た男が、マイク越しに何かを喋っている。

 観客の笑い声、拍手。

 その手に握られているのは――常識的な調理器具とは到底思えないほど長い包丁だ。


 細く、しかし芯のある光沢を放つ刃。

 柄から先まで、まるで一本の線のように迷いがない。


「ほう……」


 職人が包丁を構えた。


 その動きには、迷いがない。

 長物の刃を滑らかに滑らせ、骨の隙間を正確に読み、脂の層だけを残して赤身を引きはがしていく。


 余計な力は、一切入っていない。

 それでいて、切り口は美しく揃っている。


「意外や意外……」


 フィースは小さく笑った。


「見応えがあるね」


 命を絶つ瞬間ではなく、すでに絶たれた命を「解体」していく作業。

 けれど、その所作の一つ一つに、研ぎ澄まされた「技術」と「経験」が宿っている。


 観客席の少年が「すげえ!」と声を上げる。

 年配の女性が、「あらやだ、美味しそう」と笑う。

 生き物から「食べ物」へと変わっていく、その過程に、繚域ディアトの民は歓声を送る。


「――フィースも、こういうの見るんだ」


 軽い声が、横から割り込んできた。


 振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。


 明るい琥珀色の髪を、肩のあたりでふわりと揺らす小柄な少女。

 ゆるいウェーブがかかった髪、大きな瞳。白い肌。

 観測者としての「制服」は着ているものの、襟元には小さなリボンがひとつ。胸元には、ささやかなペンダントトップが光っている。


「ユノ」


 フィースは、名前を口にしながら、わざとらしく肩を竦めた。


「また人間文化の収集かい?」

「うん。繚域ディアトの文化は面白いよね!」


 ユノは、目の前の解体ショーを見ながら、嬉しそうに頷いた。


「食べるためにここまで手間をかけて、イベントにして、写真撮って、SNSに上げて……ふふ、全部“生きてる”って感じがする!」


 その口ぶりは、まるで珍しい実験動物を愛でる研究者のようでもあり、純粋に遊園地を楽しむ子どものようでもあった。


「それで?」


 フィースは、視線を職人の手元に戻しながら問う。


「何かあったのかい」

「特に変わりはないよ」


 ユノは、ひらひらと片手を振った。


「ただ、フィースが百貨店なんて人間の巣に来るのが珍しいからね。気になって追いかけてきちゃっただけ」


「……そうかい」


 フィースは苦笑する。


 彼女の視線が、解体ショーから少し外れた場所へと移動するのが見えた。


 鮮魚フェアの一角。

 そこには、写真つきのポップがずらりと並んでいた。


『本マグロたっぷり海鮮丼 数量限定』


 白いご飯の上に、赤身、中トロ、いくら、ネギトロ――様々な具材が「これでもか」と盛り付けられている写真。


 ユノは、そのポップの前でぴたりと足を止めた。


「……いいなあ」


 ぽつり、と呟き。


 フィースが視線を向けると、彼女は慌てて口を閉じた。


「なにか言ったかい?」


「ううん、なんでもない」


 耳まで赤くしながら、視線だけ海鮮丼の写真に吸い寄せられている。


(……なるほど)


 フィースは、微妙にあからさまなその動きを見て、心の中でため息をついた。


「どこか空いているテーブルに座ってるといい」

「え?」


 ユノが目を瞬かせる間に、フィースは列の最後尾へと滑り込んでいた。


 数分後。


「お待たせしましたー、本マグロ海鮮丼です!」


 透明の蓋越しにも分かる、瑞々しい赤身と脂の光沢。

 フィースは、少し前に繚域ディアトで得た紙幣を一枚取り出し、代金を支払った。


「……最近、ようやく現金というものの扱いに慣れてきたところなのに」


 ぼやきながら、丼を二つ受け取る。


 催事場の端には、簡易のテーブルと椅子が並べられていた。

 そこで待っていたユノの前に、ひとつの丼を滑らせる。


「ほら」


「わぁ」


 ユノの目が、一気に輝いた。


 包装を剥がすのに、もはや一秒の無駄もない。

 ビニールを勢いよく破り、添えられていた小さな醤油のパックを器用に開け、満遍なく回しかける。


 箸を取り、そのまま迷いなく赤身と米を一緒に掬い――口に運んだ。


「……っ」


 ほんの一瞬だけ、言葉を失う。


 次の瞬間。


「うまうま!」


 テーブルを軽く叩きながら、ユノは目をきらきらさせた。


「フィース、これ美味しいよ! 生ものはまだアレコレ試してる途中だけど、これは当たり!」


「それは良かった」


 フィースは、自分の丼の蓋を静かに外しながら言った。


 マグロの赤身。

 あの解体ショーで手際よく切り分けられていった一部が、今こうして「食べ物」として手元にある。


 命の始まりと終わり、その両方を観測したような奇妙な感覚。


 箸を動かしかけて、ふと口を開く。


「ユノ。ひとつ聞いていいかな」


「んぐ……なに?」


 ユノは、ほっぺたをふくらませたまま視線だけ上げた。


「現金は?」

「ない」


 —―即答だった。

 フィースは、思わず額に手を当てる。


「どうしても食べたいけど自分では買えないから、誰か財布を持ってる同業者が来るのを待っていた――違うかい?」


「違うよ」


 ユノは、ぷいっと横を向く。


「別に待ってたわけじゃなくて、来てくれたからラッキーだっただけだもん」

「……行動だけ見れば変わらない気もするけれど」


 苦笑しながらも、フィースはそれ以上追及はしなかった。


 試しにフィースも丼の中身を口に運ぶ。


 脂が舌の上で溶ける。

 人間たちが「旨味」と呼ぶものが、確かにそこにあった。


(……なるほど。これなら、彼らが行列を作るのも分かる)


 満足げに喉を鳴らしながら、フィースはふと、少し前、暮上玲司にしれっとコーヒー代の支払いをさせたことを思い出す。


(……今度会った時、何か形を変えて返しておくとしよう)


 自分が奢ることで気づくこともあると、フィースは妙な納得感を得た。


「そういえばさ」


 ユノが、マグロの赤身と米を同時に頬張りながら、軽い調子で口を開いた。


「ルゥの担当のグリップ使いにね、適合率が相当高い人間がいるみたいだよ」


「……聞いている」


 フィースは、箸を止めた。


「彼女から報告は受けているよ。確かに数字だけ見れば、なかなか興味深い個体だ」


「でも、相当厄介なんでしょ?」


「ルゥの言葉を借りるなら、そういうことになるね」


 フィースは、百貨店の天井を一瞬だけ見上げた。


「高い適合率と、戦闘センス。それ自体は珍しくない。でも、彼の場合――」


 言葉を探している間にも、ユノはもぐもぐと海鮮丼を消費していく。


「ふうん——ルゥの性格からして、『そろそろ』かもね」


「“そろそろ”、ね」


 その言葉には、複数の意味が含まれていた。


 担当観測者として、次の段階に進めるかどうかの判断。

 そして――もし必要と判断した時の「介入」。


 その時。


 テーブルの上に置いたタブレット端末が、軽い着信音を鳴らした。


 画面の端に表示された呼び出し元の文字列を見て、フィースは小さく息を吐く。


「噂をすれば、というやつか」


 ユノが首を傾げる。


「ルゥ?」


「ああ」


 椅子から腰を上げながら、フィースは空になりかけた丼をテーブルの端に寄せた。


「ゆっくり味わうつもりだったんだけどね。仕方がない」


「任務優先、ってやつだね」


 ユノは、最後の一口を名残惜しそうに食べきると、満足げにお腹を押さえた。


「ごちそうさま。フィースのおかげで、いい“データ”が取れたよ」


「それは何より」


 フィースは、片手を軽く振り、歩き出しながら通路の人混みへと紛れ込む。

 戦いはまだ始まったばかり。しかし一度目の決着の予感をフィースは得ていた。

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