第12話

 22時前。


 神社の境内に戻るころには、夜風がさっきよりも冷たく感じた。

 石畳を踏む自分の足音と、遠くで鳴くカラスの声だけがやけに耳につく。


「――っていう感じで、最後は勝手に帰ってった」


 境内の中央。さっきまで的を吊るしていた木の前で、玲司は一部始終を話し終えた。

 七夕朱莉。赤い薙刀『紅罰』。髪を斬ってしまったこと。そして「謝られて戦意が失せた」と吐き捨てて去っていったこと。


「変なやつだよな、マジで。敵なのか何なのか分からないし……」


 苦笑いを浮かべながら振り返ると、澪は俯いたまま黙り込んでいた。

 楽も、その横でじっと黙っている。


「……澪?」


 呼びかけると、彼女の肩がびくりと揺れた。


「あ、ご、ごめん。ちょっと……ぼーっとしてて……」


 顔を上げた澪の表情は、さっきまで的に向かって弓を引いていた時よりも、ずっと暗い。

 目の下には、わずかな隈。唇は噛みしめられて白くなっている。


(……様子がおかしい)


 戦いの話をしたから、というだけじゃない。

 何かを「知っている」人間の顔だ。


「澪、なんかあった?」


 問いかけると、澪は一瞬だけ楽の方を見た。

 そして、観念したように小さく息を吐いた。


「……ごめん。ちょっとだけ、話してもいい?」


          ◇


 ――数十分前。澪視点。




「楽くん、ごめん。一回お手洗い行ってくるね」

「了解。気を付けて。変な人がいたら逃げること」


 冗談めかして言う楽に、苦笑しながら頷く。 静光弓セラフラインを一度解除し、グリップをポケットに戻す。


 鳥居をくぐり、薄暗い参道を抜ける。

 神社から離れた場所にある公衆トイレは、街灯も少なくて正直あまり行きたくない場所だった。


(でも、もう一回エネビス起動してから行くのは……さすがに憶病すぎるよね)


 心臓の近くの「異物」が、微かに脈打っている気がして、思わず胸に手を当てる。


 トイレに付近に着くと、ひゅう、と冷たい風が吹いた。

 その風に紛れるように、かすかな金属音が聞こえた気がした。


「……今の、なに?」


 耳を澄ませる。

 少し離れた場所――神社とは逆方向。街灯が一本だけ立っている路地の方から、空気の揺れる気配がする。


 ぞくり、と背筋が粟立った。


(嫌な感じ……)


 足が、その方向へ勝手に動いていた。

 路地の角から、そっと覗き込む。


 そこには――。


「……っ」


 青と紅の軌跡が、夜の中でぶつかり合っていた。


 玲司の鎖剣グラティナ

 紅い薙刀。

 そして、その薙刀を振るう赤髪の少女。


 火花が飛ぶ。コンクリートの柱が砕ける。

 玲司の頬に、赤い線が走るのが見えた。


「れ、玲司くん……!」


 思わず声が出そうになって、慌てて口を押さえる。

 変に気づかれたら、今度はこっちが標的になるかもしれない。


 何か――何か、できること。

 私は、ポケットに手を突っ込んだ。


 指先に触れる、冷たい金属。


「……静光弓セラフライン


 小さな声で名前を呼び、スイッチに触れる。

 胸の奥のエネビス器官が、熱を持つように脈打った。


 白と淡い青の光が、静かに弓の形を作る。

 私は震える手で構えた。


(落ち着いて……)


 楽に言われたことを思い出す。

 狙うんじゃなくて、「線を引く」。

 守りたいものに向けて、そこへ矢を通す。


 ――守りたいもの。


 視線の先には、血を滲ませながら、それでも前に出て薙刀を受け止め続ける幼馴染の背中があった。


 あの夜と同じだ。

 路地裏で、手斧から私を庇ってくれた時と同じ。


(今度は、私の番……だよね)


 震える息を吐く。

 矢は、まだ見えない。

 でも、弦には確かな重みが乗っている。

 朱莉の刃が、また玲司の肩を掠めた。


「っ……!」


 胸が締め付けられる。

 矢じりに、感情が集まっていくのが分かる。


 怒り。

 恐怖。

 悔しさ。


(やめてよ……これ以上、玲司くんを傷つけないで……)


 弦を、引き絞った。

 指先が痛い。

 腕が震える。


 でも、狙いは合っている――はずだった。


 朱莉の横顔。

 その肩口。

 狙うのは急所じゃなくて、武器でもなくていい。

 動きを止めるだけでも――。


(撃て――)


 その瞬間。赤い瞳が、こちらを見た気がした。

 錯覚かもしれない。

 でも、その瞳には、はっきりと「人間の感情」が宿っていた。


 殺意だけじゃない。

 苛立ちと、楽しさと、冷静さと――変な話だけど、どこか「ちゃんと考えている人」の目だった。


 私の指が、弦の上で止まる。


(……撃ったら、この人はどうなる?)


 急所を外したとしても、光の矢は肉を貫く。

 骨を砕くかもしれない。

 目を潰すかもしれない。


 その瞬間、私は「取り返しのつかないこと」をする。


「……っ」


 喉が詰まった。


 胸の中で、何かが叫んでいる。

 撃たなきゃ。撃て。撃てば、玲司くんが――。


 でも、別の声が囁く。


(本当に? 本当に撃てるの? 人を傷つけるために?)


 手が、動かない。

 矢は、まだ弦にかかったまま。


 目の前で、玲司が踏み込む。

 鎖剣が大きく振り抜かれる。

 赤い何かが宙に舞う。


 ひら、ひら、と落ちていく朱莉の髪。

 それを見た瞬間――「ごめん」という玲司の声が、かすかに届いた。


「あ……」


 弦から指が滑り落ちた。

 だが、矢は放たれない。

 エネビスが、霧散していく。


 静光弓の光が、すうっと弱くなった。


 朱莉が去っていく。

 玲司が、その場に立ち尽くす。


 私は、弓を抱きしめるようにして、その場から動けなかった。


(――撃てなかった)


 路地裏で、手斧男に向けて何もできなかった時と同じ。

 今度こそと思っていたのに。


(結局、守られる側のまま……だ)


 自分が、情けなくてたまらなかった。


          ◇


 ――現在。神社、境内。


 澪の話を聞き終えて、玲司は言葉を失った。


「つまり、澪もあの場にいたってことか」

「うん……遠くから、ちょっとだけ……」


 澪は膝の上で握った両手を、ぎゅっと強く握り込む。


「楽くんが言ったみたいに、ちゃんと『狙って守る』って決めてたのに……いざって時、どうしても撃てなくて……」


 唇を噛んだまま、わずかに声が震える。


「怖かったの。あの人を撃ったら、どうなるか考えちゃって……目とかを傷つけちゃったら、とか、二度と歩けなくなっちゃったら、とか……」


 どんどん言葉が小さくなっていく。


「そんなの、戦いの世界では甘いって分かってるのに。私もグリップ持ってて、この戦いの中にいるんだから、覚悟決めなきゃいけないのに……」


 ぽつり、と。


「……やっぱり、私みたいなの、足手まといだよね」


 喉の奥がきゅっと鳴る音がした。

 今にも泣き出しそうな表情。

 見ているこっちが苦しくなる。


 玲司は澪に寄り添い、肩にそっと手を置いて言葉を紡ぐ。


「足手まといなんてことはない。今日だって、澪は怖がりながらも弓を構えた。それって、何も感じないで逃げるより、ずっとマシだ。だから——」


「玲司は澪を守るためなら命を懸けるよ?」


 玲司が言いかけたところで、楽が割り込んだ。


「なのに澪は、自分の手を汚したくないからギリギリのところで逃げるんだ」


 静かな口調。

 だけど、その指摘は容赦がない。


「それも事実だよね?」

「……っ」


 澪の目に、涙がにじむ。


「そう……だよね」


 自分で自分を責める時の声に似ていた。

 楽に責められているというより、自分の中でずっと分かっていたことを、はっきり言葉にされた感じ。


「ちょっと待てよ、楽」


 堪えきれず、玲司が一歩前に出た。


「言い方ってもんがあるだろ。澪は昨日から一緒に訓練して、ちゃんと前向いて――」

「ボクが本当に言いたいのは、そこじゃない」


 楽は、玲司の言葉をふわりと遮った。


「玲司」


 自分の名前を呼ばれ、思わず口を閉じる。


「さっきから必死にフォローしてるけどさ」


 ミントグリーンの髪が、夜風に揺れる。

 その瞳は、玲司を射抜くようにじっと見つめていた。


「玲司は、澪が変われないって、どこかで決めつけてるよね」

「は?」


 思わず間抜けな声が出る。


「……何言って――」


「だって、さっきの話を聞いても、最初に出てくるのが『足手まといなんてことはない』とか『昨日よりずっとマシだ』とか」


 楽は、淡々と言葉を重ねる。


「それって、『今のままの澪』を肯定する言葉ばっかりだよ」

「…………」


「『澪だって変われる』って、本気で思っているならさ。今、必要なのは慰めじゃなくて、変わるための具体的な一歩じゃない?」


 図星を突かれたみたいに、胸がざわついた。

 否定しようとして、言葉が出てこない。


 たしかに――どこかで「澪には人を撃たせたくない」と思っていた。

 自分が前に出ればいい。

 自分が盾になれば、澪は撃たずに済む。


 そうやって心のどこかで、彼女を戦いの外側に置こうとしていた。


(それって……)


 優しさじゃなくて、ただの逃げなんじゃないか。

 澪が変わる可能性から、目を逸らしているだけなんじゃないか。


 黙り込んだ玲司を見て、楽は小さく肩をすくめた。


「ボクは澪はちゃんと撃てるようになると思ってる」

「……え?」


 涙で潤んだ目が、ぱちりと瞬く。


「澪は、怖いってちゃんと感じてる。人を傷つけることも、自分が傷つくことも、全部まるっと怖いって思える」


 楽の言葉は、意外な方向から飛んできた。


「それって、すごく大事なことなんだよ」


「……大事?」


「うん。何も感じない人は、簡単に人を殺せる。簡単に、自分の命も投げ捨てる。でも、澪はそれが『嫌だ』って思えるでしょ?」


 こく、っと小さく頷く。


「だったら、その『嫌だ』って気持ちごと、矢に乗せればいい」


 楽の声が、静かに境内に響く。


「誰かを守るために。自分が生き残るために。そのためだったら、『怖いままでも撃つ』って選べるようになる」


「怖くなくなるんじゃなくて、怖いまま……?」


 楽は、ほんの少しだけ笑った。


「ボクはね。澪がちゃんと戦えるようになるって、本気で思ってるよ」


 その言葉に、澪の瞳が揺れた。


「……私でも、変われるって……思ってくれるの?」

「思う。というか、変わってもらわないと困る」


 あっさりと言い切る。


「この戦いで生き残りたいんでしょ? 澪も、玲司も」

「……うん」

「だったら、今のままじゃ足りない。足りないなら、足りるように変わればいい。それだけの話だよ」


 すごく簡単なことを言っているようで、実は一番難しいことを突きつけている。

 だけど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 澪は、震える唇をきゅっと結び直した。


「……私」


 小さく息を吸う。


「私も、ちゃんと戦えるようになりたい」


 さっきまでとは違う、少しだけ熱のこもった声。


「生き残るために……そして、守られるだけじゃなくて――」


 ちらり、と玲司を見た。


「玲司くんを、守れるようになるために」


 真正面からそんなことを言われて、玲司の心臓が一瞬止まった。


「お、お前……」


 言葉がうまく出てこない。

 照れ臭さと、嬉しさと、責任感が一気に押し寄せてきて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 楽は、満足そうに頷いた。


「いいね。そのくらい言い切れたなら、今日のところは合格点かな」


 そして、玲司の方を見る。


(そうだよな)


 この世界で本当に生き残りたいなら。

 誰か一人が頑張ればいい、なんて都合のいい話はない。


 澪が戦えるようになること。

 それは、守らせるばかりだった自分の甘さを、少しずつ手放していくことでもある。


「本当にやるんだな。逃げないで、ちゃんと戦うって決めるんだな」


 玲司の問いに、澪は迷いのない目で頷いた。


「うん。怖いけど……それでも、やる」


 その答えを聞いて、玲司と楽は、ほんの一瞬だけ目を合わせた。

 無言のまま、同じタイミングで小さく頷く。


「よし」


 玲司は深呼吸し、ポケットからグリップを取り出した。


「じゃあ、訓練再開だ。俺もまだまだ下手くそだしな」


「ボクも、教えるだけじゃ退屈だしね。ステレコスの新しい使い方も試したいし」


 楽が笑い、澪も袖で目元を拭ってから、ポケットの中のグリップを握りしめた。


「……静光弓せらふらいん


 小さく名前を呼ぶ。

 白と淡い青の光が、再び弓の形を取る。


「――今日は、とりあえず的を全部“中心から”撃ち抜くところまでやろうか」


 楽の提案に、澪は思わず悲鳴を上げそうになる。


「え、えええ!? 全部って、さすがに無理――」

「無理かどうかは、やってから決めよ?」


 笑いながら、楽は新しいダンボールを木の枝に吊るした。


 逃げたい気持ちは、まだ消えない。

 でも、その上から「守りたい」と「変わりたい」が少しずつ重なっていく。


 夜はまだ、長い。

 訓練も、戦いも、ここからが本番だ。

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