第11話

 3月5日、21時。


 夜の神社の空気は、昨日よりわずかに冷たかった。

 鳥居をくぐるたびに、日常と非日常の境界をまたいでいる気がする。


 境内の端。

 古い木の枝から、ボロボロのダンボールで作った簡易的な「的」が吊るされていた。


 中心に黒いマジックで丸が描いてある。

 その丸を目指して、朝田澪は何度も何度も弦を引いていた。


「……はっ」


 ビィン、と張り詰めた音。


 透明な矢が放たれ、夜気を裂いて飛んでいく。

 ダンッ、と鈍い音を立ててダンボールに突き刺さった――が。


「また外した……」


 狙った中心から、拳一つ分ほど右下。

 「惜しい」と言えば惜しいのかもしれないけれど、百発百中を求められる“スナイパー枠”としては、全然ダメだ。


「でも、二日目でこれなら悪くないよ」


 背後から、能天気な声が飛んでくる。


「さっきよりブレが少なくなってる。矢も、ちゃんと真っすぐ飛ぶようになってきた」


 声の主――昼間楽は、石段に腰かけてこちらを見ていた。

 ミントグリーンの髪が、街灯の代わりみたいに薄暗い境内でよく目立つ。


「本当に? 全部ハズレなのに?」

「半径十五センチ以内には収まってるんだから、そこまでは外してない」


 楽のフォローに思わず苦笑する。


 でも、楽の言う通り、最初に弓を持った昨日よりはマシになっている。

 あの時は、弦を引くたびに肩がビクビク震えて、矢が変な方向に飛んでいっていた。


「澪の問題は、腕の力より“力み”だね」


 楽は、私の右手を指さす。


「狙おう狙おうって思うほど、身体が固まってる。弓を『当てる道具』だと思うんじゃなくて、『流れてきたものを通す管』だと思ってみて」

「管……?」

「そう。エネビスも、澪の感情も、『当ててやる!』って押し出すんじゃなくて、通してあげる。澪はもともと感じることが得意だから、それを素直に矢に流せばいい」


 感じること。


 思わず、胸のあたりに手を当てる。

 そこには、異世界から持ち込まれた器官――エネビス器官が埋め込まれている。


 怖い、とか。

 守りたい、とか。

 そういう気持ちに、すぐ反応して熱くなる場所。


(……私にも、できるのかな)


 戦いの道具として、その感情を使うこと。


「じゃあ、もう一回」


 私は静かに息を吸って、弓――静光弓セラフラインを構え直した。


 左手を的に向けて伸ばし、右手を弦にかける。

 肩の力を抜く。背中を固め過ぎない。


「澪」

「ん?」

「『当てなきゃ』じゃなくて、『届いて』って考えてみて」


 楽の声が、頭の中にすっと染み込んでくる。


「澪が守りたいものに向けて、線を引くイメージ。矢は、その線の上を滑っていくだけ」


 守りたいもの。


 真っ先に浮かんだのは――昨日、血だらけになりながら私を庇ってくれた幼馴染の背中だった。


(……あの時みたいに)


 私は、目標を見据える。

 ダンボールの黒い丸の向こうに、「守りたいもの」があると想像する。


 そこに線を引く。

 胸から、腕を通って、弓へ、そして弦へ。


「――っ」


 無意識のうちに、息を止めていた。

 弦を引き絞った右手が震える。


 でも、さっきまでみたいな「ガチガチの緊張」じゃない。

 張り詰めた糸の上に、自分の意志がぴたりと乗っているような感覚。


「……行って」


 囁きと共に、弦を放つ。


 ビィン、と鋭い音が夜に響いた。

 光の矢が、視界から一瞬で消える。


 ――ダンッ。


 ダンボールが大きく揺れた。


「……!」


 中心の黒い丸から、ほんの数センチ上。

 さっきよりも、明らかに近い。


「おお」


 石段に座っていた楽が、ぱちぱちと拍手をした。


「今の、かなり良かったよ。エネビスの流れもスムーズだった」

「ほんとに?」


 真正面から褒められるのに慣れていない分、思わず頬が熱くなる。


「その感覚、忘れないようにして。身体で覚えるまで、何十発でも打とう」

「うう……筋肉痛になりそう」

「大丈夫。エネビスがあるから、すぐ回復するよ」

「それ、なんか違う意味でブラックな励ましじゃない……?」


 苦笑しながらも、私はもう一度弓を構えた。


          ◇


 同じ頃。神社から少し離れた、公衆トイレの前。


「……なんか落ち着かないな」


 水を流し、手を洗いながら、暮上玲司は独り言をこぼした。


 個室の中にいる時から、カバンの中のグリップが、ずっと落ち着きなく脈打っていたからだ。


(まさか、トイレで襲撃とかないよな……)


 さすがにそれは嫌だ。

 いや、それを言い出したら、襲撃そのものが嫌に決まっているのだけど。


 手を拭きながら、念のためカバンの口を少し開ける。

 グリップに触れると、やはり熱を帯びて細かく震えていた。


「……マジかよ」


 これだけ騒いでいるということは、かなり近くにグリップ使いがいるのはほぼ確定だ。


 そう考えた瞬間、自然と足が早まっていた。

 トイレの出口へ向かおうとした、その時――。

 嫌な気配が、背後の空気を撫でた。


 ドクン、と胸の奥が跳ねる。


(――来る)


 思考より先に、身体が動いていた。

 扉を開ける勢いをそのままに、一歩前――ではなく、横へ飛ぶ。


 その直後。

 ゴオッ、と耳元を何かが掠めた。


 赤い残光。

 空気が裂ける音と共に、細長い何かが、さっきまで自分の首があった空間を一閃する。

 コンクリートの柱に、ガキィンッと火花が散った。


「……っぶね」


 冷や汗が背中を伝う。

 振り返ると、そこには「長い赤い何か」があった。


 街灯の心許ない明かりの中でもはっきり分かる、鮮やかな紅。

 細身の柄の先に、三日月のように湾曲した刃。


 ――薙刀。


 そう認識するのと同時に、それを構えている「人影」に目がいく。


「チッ……やっぱ不意打ちは無理か」


 舌打ち混じりの声。

 そこに立っていたのは、赤い薙刀に負けないくらい鮮烈な、腰まで届く長い赤髪の少女だった。


 制服でも私服でもない、動きやすそうなパンツスタイル。上は赤黒いパーカー。片耳にだけピアスの光が揺れている。


 ぱっと見、年齢は玲司と同じくらい。

 軽薄そうに見えて、その瞳の奥に冷えた理性がある。


「なんなんだよ、いきなり」


 玲司は距離を取るように二歩後ろへ下がりながら、右手をカバンに突っ込んだ。


「――鎖剣グラティナ


 スイッチを押す。


 青白い光が迸り、鎖が一気に右腕へ絡みつく。

 重みと共に、意識が戦闘用に切り替わっていく。


 目の前の少女――赤髪の彼女も、同じように構えを変えた。


 紅く長い武器。

 その柄の根元部分には、玲司のグリップと同じように、紋様の刻まれた金属の「芯」があった。


 おそらく、それが彼女のグリップ。

 とりあえず一つだけ、はっきりしていることがある。


「お前も……グリップ使いか」

「見りゃ分かるでしょ」


 鼻で笑うように、少女は足を半歩滑らせた。


「名乗るのが礼儀ってほど殊勝でもないけど――そうね」


 ほんの一瞬だけ、楽しげに口角が上がる。


七夕たなばた朱莉あかり。武器は『紅罰こうばつ』。覚えなくていい、どうせすぐ終わるし」

「……意外としぶといかもよ?」


 玲司が言い返すと、朱莉は「あは」と短く笑った。


「舐められてる?」


 声と共に、紅罰がひときわ強く赤く光る。

 次の瞬間――朱莉が一気に間合いを詰めてきた。


「うおっ――」


 薙刀の柄が、突風みたいに顔面に迫る。

 咄嗟に鎖剣を横に構え、防ごうとするが――。


「っぐ!」


 ガァンッ、と鈍い衝撃。


 刃ではなく「柄」で殴られたはずなのに、腕がしびれる。

 距離が遠い。

 鎖剣のリーチの外側から、一方的に殴られている。


「遅い」


 朱莉の声が、すぐ近くで聞こえたかと思うと、今度は上から薙ぎ払う一撃が落ちてきた。

 刃が、赤い弧を描く。

 鎖剣の平で受け止める。


 ギィンッ!!


 金属音と共に、膝が沈んだ。


(重……! 力、そんな無さそうな見た目してんのに)


 女性の中では身長は高い方だろうが、それでも体格に優れているわけではない。

 なのに、目の前の少女の一撃一撃がやたら重い。


「体幹が甘い」


 朱莉は、あくまで淡々と分析するように言った。


「防御が全部、腕だけでやろうとしてる。そういうの、一番崩しやすいんだよね」


 言いながら、紅罰を横に払う。

 刃の届くギリギリの距離から、次々と切り込んでくる。

 玲司はとにかく受け、弾き、避けることで精一杯だった。


(マズい……! 距離が詰められねえ)


 鞭男や手斧男は、どちらかと言えば「懐に入ればチャンス」があった。

 だが、薙刀は違う。


 長いリーチ。

 柄の部分も攻撃に使えるし、刃の軌道も読みづらい。

 鎖剣の鎖で引っかけようとしても、朱莉は一拍早く柄を引き、空振りさせてくる。


(相当慣れてやがる……!)


 汗が、こめかみを伝う。


「どうしたの?」


 朱莉は嘲るように言った。


「さっきから、防戦一方。攻め返す気が全っ然見えないんだけど」

「……言ってくれるじゃねえか」


 息を整える暇もない。

 でも、このまま押されっぱなしでいるわけにもいかない。


(一発、何か引っかける……!)


 次に朱莉が踏み込んだ瞬間。

 玲司は、あえて一歩「下がる」のではなく、「踏み込んだ」。


「ッ!?」


 紅罰の刃が目の前を掠める。

 頬に熱い線が走った。


 だが、その代償で――鎖剣の間合いに、薙刀の根元が入った。


「そこだッ!」


 朱莉のバランスが、わずかに崩れる。

 今まで一方的に遠距離から殴られていたのが、ようやく互角に届く距離。

 玲司は渾身の一撃を振り抜いた。


 ザシュッ。


 何かを斬る手応え。


「っ――」


 朱莉の身体が弾かれるように後ろへ飛ぶ。


 紅罰の柄は辛うじて逸れていた。

 代わりに、赤いものが宙に散った。


 ひらり、ひらりと舞い落ちる。


 夜の街灯に照らされたそれは――


「……髪?」


 朱莉の長い赤髪の一部が、地面に落ちていた。

 切り落とされた毛先が、足元に広がる。


「――っ」


 その顔に、一瞬だけ「素」の感情が浮かんだ。

 驚き、怒り、そして――何か言葉にしづらい感情。


「あ」


 やってしまった、と思った。


 別に髪を狙ったつもりはない。

 ただ、武器を弾こうとして、その延長線上に髪があっただけだ。


 それでも、女の子の髪をいきなり切るなんて――。


「……ごめん」


 口が、勝手に動いていた。


「別に、そこまでやるつもりじゃ――」


 言いかけた瞬間。

 朱莉の目から、完全に“熱”が引いた。


「――は?」


 さっきまで戦闘に集中していた目が、信じられないものを見るように細められる。


「戦ってて、武器じゃなくて髪斬っといて、『ごめん』?」


 その声音は、怒鳴り声ではなかった。

 むしろ、呆れ返っている。


「……マジで、何それ」


 紅罰の切っ先が、ふっと下がる。

 代わりに、朱莉の肩から、目に見えるほど大きなため息が漏れた。

 朱莉は頭をかきむしり、残った髪を適当に掻き上げた。


「ごめんとか謝られるとさ、一気に戦う気が失せるんだけど」


 眉間に皺を寄せ、心底げんなりした表情で言う。


「殺し合いしてんだよ? お互いに。こっちはさ、どうやって殺すか、どうやって生き残るかって、そのつもりでやってんのに」


 朱莉は、紅罰を肩に担ぎ直した。


「髪切ったくらいで『ごめん』とか言ってくるやつ、マジで無理。調子狂う」


 紅い瞳が、じっと玲司を射抜く。


「アンタ、弱いくせに変なとこで甘い」


 ズキ、と胸に刺さる。


「さっきの斬り方もさ、武器じゃなくて身体の芯狙えば、普通に殺せてた。なのにギリギリのところで逸らしてる。手加減っていうか……ビビり?」


 図星を突かれ、言葉に詰まる。

 路地裏で手斧男を殺せなかった自分の姿が、頭をよぎった。


「そういうとこ、嫌いじゃない人もいるんだろうけど」


 朱莉は、ふいと視線を外す。


「少なくとも、アタシは――」


 紅罰のグリップが、淡く光を収束させる。


「そういう腑抜けた相手と続けるほど、暇じゃない」


 赤い刃が、すっと消えた。

 グリップだけが残り、朱莉はそれをホットパンツのポケットに雑に突っ込む。


「今日のとこは、これでいいや」


 くるりと踵を返す。


「切られたのはムカつくけど、それで謝られる方がもっとムカつくから」


 それだけ言い残し、七夕朱莉は夜の闇に溶けるように去っていった。


 残されたのは、地面に散った赤い髪と、鎖剣を構えたまま立ち尽くす自分だけ。


「……なんなんだ、あいつ」


 膝から、力が抜けた。


 敵だったのか。

 試し斬りだったのか。

 それとも、ただの「通りすがりのグリップ使い」だったのか。


 何一つはっきりしない。

 ただ一つだけ、分かっていることがある。


(また会うな、あれは)


 変な確信だけが、胸に残っていた。

 鎖剣を解き、右腕から鎖がほどけて消えていく。


「……戻るか」


 神社の方角を見やり、玲司は小さく息をついた。

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