第8話

 12時。

 駅前のパン屋『ブーランジェリー・ミモザ』。


「遅れてすみませんでしたッ!!」


 バックヤードの床に頭を擦り付ける勢いで土下座すると、店長は慌てて手を振った。


「ちょ、ちょっと暮上くん!? いいからいいから! そんな、本当に土下座しなくていいから!」

「いえ完全に僕の自己管理不足でして――」

「いや、お母さんから連絡もらってるから。『少し体調崩して寝込んでて、今起きたみたいで……』って」


 昨夜のうちに、澪が連絡を入れてくれていたらしい。

 店長は困ったように笑った。


「いつも真面目にやってくれてるし、一回くらい遅刻したって罰は当たらないよ。無理はしないでね?」

「……ありがとうございます」


 頭を下げると、他のパートさんたちも口々に「顔色悪くない?」「本当に大丈夫?」と心配してくる。


(なんか……普通に日常だな)


 路地裏での殺し合いと、この柔らかい空気のギャップに、少し眩暈を覚える。


「じゃあ、楽くんと交代で成型入ってくれる? 昼のラッシュに備えて、バゲット増やしたいから」


「分かりました」


 エプロンを締め直し、成型台へ向かうと、そこにはミントグリーンの髪をバンダナでまとめた少年が、手際よく生地を丸めていた。


「やあ玲司。遅刻は人間社会ではマイナス評価が高いって聞いたけど、大丈夫だった?」

「ギリセーフだったわ。お前がそれ言うのなんかムカつくな」


 軽口を返しつつも、心の中は少し重い。


(……楽には、ちゃんと言っておいた方がいいよな)


 この世界のルールを知る数少ない存在。異人エンターであり、感応者であり、そして、一昨日命を救ってくれた相手。

 澪のことを隠し続けるのは、逆に危険だという気がした。


 楽と澪のこと含めて情報を共有していいかは、ここに来る途中にチャットで澪から許可を取っている。


(よし、言うか)


 隣でひたすら生地を丸め続けている楽に声をかける。


「楽。仕事しながらでいいから、ちょっと聞いてほしい話がある」

「いいよ。どうせ手は止めないから、店長への効率は担保するよ」


 さらっとブラックなことを言いながらも、楽の手は寸分の狂いもなく動き続けている。

 粉だらけの作業台の上で、パン生地が次々と同じサイズに整形されていく。


 玲司は、昨夜の出来事をかいつまんで話した。

 路地裏で澪が狙われたこと。自分が割って入ったこと。手斧男との死闘。フィースの介入。そして、自分が「記憶消去」を選んだこと。

 さらに――。


「澪がグリップを持ってたことも、今日、初めて知った」

「ふうん」


 楽は相槌を打ちつつ、生地を棒状に伸ばす。


「それをボクに言って、玲司はどうしたいの?」

「どうしたいっていうか……そういう状況も含めて、知っておいてほしかったんだ」


 言葉を探しながら続ける。


「お前はこの“ゲーム”側の人間だし、仕組みもよく分かってる。澪のことも、俺のことも……その、何かアドバイスとか、できるなら」

「なるほどね」


 楽は少しだけ手を止めて、粉だらけの指をぱたぱたと払った。


「聞けば聞くほど、澪は鴨がネギを背負っているようなものだよ」

「……は?」


「普通の見た目で、戦う覚悟も経験もなくて、そのくせグリップを持っている。グリップ使いから見たら格好の餌食だ」


 言葉は容赦ないが、論理としては間違っていない。


「玲司は、ボクが澪を狙うかも、とは考えないの?」


 さらりと、とんでもないことを言ってのける。


「……!」


 心臓が、ドクンと跳ねた。

 考えたことがないと言えば嘘になる。

 楽は異人だ。価値観も倫理も、根本から違う。昨日は助けてくれたが、それは“感応者”として興味を持ったからかもしれない。

 実験対象として、観測対象として――澪を狙う可能性だって、ゼロではない。


 —―だけど。


「……ないな」

「即答?」


 楽が少しだけ目を丸くする。


「お前は、俺を助けてくれた」


 玲司は、生地を丸める手を止めずに言った。


「昨日の夜も、最初の時も。俺のことなんて放っておいても、何の問題もなかったはずなのに、ちゃんと助けてくれた。理由が『役割だから』でも『興味本位』でも、その結果は変わらない」


 粉を払いつつ、少しだけ笑う。


「勝手だけど、俺はもうお前のことを“仲間”だと思ってる」


 楽は表情を変えなかった。

 ただ、その瞳の奥で、わずかに何かが揺れたような気がした。


(……ああ)


 楽の胸の奥で、知らない感覚が弾ける。

 “仲間”という単語に付随する、繚域ディアトの民特有の温度。

 それを、理屈ではなく体感として受け取っている自分に、楽は少しだけ驚いていた。


「玲司はさ」


 楽は、丸め終えた生地を鉄板に並べながら言った。


「やっぱり、面白いね」

「褒めてんのかそれ」

「もちろん」


 ふにゃりと笑ってから、すぐ真顔に戻る。


「分かったよ。ボクは澪を“獲物”としては見ない。少なくとも、ボクの手で直接狙うことはしないって約束する」

「……十分だ」


 心の底から、安堵の溜息が漏れた。


「でもね」


 楽は指を一本立てる。


「ボクは、自分で自分の身を守る気のない人を守りたいとは思わない」

「……だろうな」


 昼のパン屋とは思えないほど冷静な言葉なのに、不思議と残酷には聞こえなかった。


「ボクは“感応者”であって、保護者じゃない。澪がこのゲームに巻き込まれているのは事実で、グリップを持っている以上、無関係ではいられない」


 淡々とした口調で続ける。


「だったら――生き残るための方法を、ちゃんと教えた方がいい」

「……戦えるように、ってことか」

「そう」


 楽は頷いた。


「澪を戦えるように訓練する。もちろん、玲司も」

「……やっぱそうなるよな」


 薄々予想はしていた。

 楽の言葉はいつだって極論のようでいて、結局「一番現実的な選択肢」を選ばせてくる。


「今日のバイト終わりから始めよう」


 成型を終えた鉄板を、楽はラックに乗せながら言った。


「基礎体力、グリップの起動反応、エネビスの出力制御。やることは山ほどある。澪には澪の戦い方があるだろうし、それを一緒に探す必要もある」

「軍隊かよ……」

「軍隊の訓練よりは優しいと思うよ? たぶん」

「“たぶん”をつけるな、“たぶん”を」


 思わずツッコミを入れると、楽は珍しく声を立てて笑った。


「集合は、一昨日の公園でいいかな。あそこなら、ある程度派手にやっても目立たないし」

「いや、公園で一度戦闘をしたってことを他のグリップ使いが嗅ぎつけている可能性がある。街外れに地元民でもほぼ行かない寂れた神社があるから、そこにしよう。訓練するなら打って付けだと思う」

「分かった」


 楽は頷いて、玲司も「澪にも、あとで連絡しとく」と頷き返した。


 昼のピークを告げるように、店のベルが激しく鳴り始める。

 ホールから「お願いしまーす!」という声が飛んできて、店長が慌てて顔を出した。


「暮上くん、楽くん! 成型終わったらレジもお願い!」

「了解でーす!」

「すぐ行きます」


 二人は返事をし、それぞれの持ち場へと走り出した。


 日常と非日常。

 パン生地の香りと、鉄と血と鎖の記憶。

 その両方を抱えながら、玲司の「戦い方」は、少しずつ形を取り始めていた。

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