第7話
三月四日、昼。
柔らかい陽射しが、カーテンの隙間から射し込んでいた。
洗剤と柔軟剤の、ほのかに甘い香り。壁際の棚には、小さな観葉植物と、学生時代の写真立てが並んでいる。
(……どこだ、ここ)
ぼんやりと天井を見上げながら、暮上玲司は瞬きをした。
体が重い。けれど、昨日のような激痛はない。
頭を少し動かすと、視界の端に「人」の気配が映った。
「……え」
ベッドの脇。
床に座り込み、ベッドに上半身を預けるようにして、布団を肩までかぶって眠っている少女がいた。
黒髪をゆるくまとめ、寝息を立てているその横顔は――見慣れたものだった。
「澪……?」
朝田澪。
彼女は、玲司のベッドに片腕を乗せたまま、すやすやと寝ていた。
顔色は少し悪いが、傷一つない。
昨夜、斧の刃が振り下ろされようとしていたその同じ首元が、今は穏やかな呼吸で上下している。
胸の奥が、じんと熱くなった。
(……生きてる)
当たり前のことなのに、涙が出そうになる。
あの路地裏で、自分が一歩遅れていたら。この光景はなかったかもしれない。
視線を巡らせる。
小さな机の上には、かわいらしいマグカップと読みかけの小説。壁には、子どもの頃の絵が貼られていた。
どこか懐かしい空気感。
(……ここ、澪の部屋か)
小学生の頃、よく遊びに来ていた記憶がある。
あの頃はもっと散らかっていて、ぬいぐるみだらけだったはずだ。今はずっと落ち着いた部屋になっている。
時間の流れを感じると同時に、その変化の中に「変わらないもの」があることに、玲司は少しだけ安堵した。
「……ん……」
小さな寝返りの音。
澪がまぶたをぴくりと動かし、ゆっくりと目を開けた。
「……え……?」
視線が合う。
数秒の間、脳が状況を処理しきれていない顔をしたあと――
「れ、玲司くん!?」
勢いよく飛び起きようとして、布団に足を取られ、その場でぐらりとバランスを崩した。
「っと……大丈夫か」
思わず手を伸ばすと、澪は耳まで真っ赤になりながら体勢を立て直した。
「ご、ごめん! 起きてたなら起こしてよ! あ、でも寝てたから起こせないよね、ごめんね、えっと――」
「落ち着け」
早口でまくし立てる澪を見て、玲司は苦笑した。
その反応が、ひどく日常的で、救われる。
「ここ、澪の部屋……だよな」
「う、うん。昨日、あの後……玲司くん、倒れちゃって……」
澪は、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「とりあえず、ここが一番近かったから、必死で運んだんだよ。途中で何回か倒しそうになって……その、ごめん。痛かったら……」
「覚えてないからノーカンでいい」
冗談めかして言うと、澪はほっとしたように笑った。
「それでね――」
そこから、昨夜倒れた後の一部始終を聞くことになった。
まず、路地裏で倒れた後。
澪は、玲司の右腕から
幸い、澪の家は路地のすぐ裏手だった。
「途中で、誰かに見られたらどうしようって思ったけど……夜だったし、なんとか」
「よく一人で運んだな……」
「うう……腕がパンパンだよ……」
そうぼやきながらも、どこか誇らしげでもある。
「それで、救急車は?」
「それがね……」
澪は少し表情を曇らせた。
「私たちがいなくなった後、すぐに救急車が来て、裏路地に倒れてた“あの人”を見つけたみたい。その人はそのまま運ばれていったって、さっきお巡りさんが言ってた」
「さっき?」
「うん。今朝、9時くらいかな。『昨夜、この辺で悲鳴か物音を聞いていませんか?』って、近所を回ってて……」
澪は、居心地悪そうに視線を泳がせた。
「どうしたって返した」
「『怖くて窓も開けてなくて……よく分かりません』って。嘘ついたのダメだったかな……」
「いや、それでいい」
玲司は即答した。
「全部話したところで、信じてもらえないしな。斧振り回してるグリップ使いがいて、異世界の観測者がいて、記憶を消すルールがあって、って言っても、たぶん『精神科行きましょうね』で終わりだ」
「だよね……」
澪は苦笑して、続けた。
「それで、そのお巡りさんが言うにはね。病院で“あの人”が今朝目を覚まして、色々聞かれたらしいんだけど――」
そこで一度、言葉を切り、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「『仕事中に急にめまいがして、気付いたら倒れてた』って言ったんだって。お酒も飲んでないし、ケガも軽いし、事件性はないって。だからもう帰したって」
玲司は、息を飲んだ。
(……記憶が、ない)
昨夜、フィースが男の額に指を当て、静かに告げた言葉が脳裏をよぎる。
『彼のこの期間の記憶は、全て消去された。これで彼はゲームから“脱落”する』
それが、現実の形となって表れている。
「ってことは……」
「うん。玲司くんが選んだ“決着のつけ方”は、ちゃんと通ってるってことだと思う」
澪は真っ直ぐに玲司を見た。
「少なくとも、“この戦い”のことは、一切覚えてないんだよ。あの人」
胸のどこかが、きゅっと締め付けられた。
安心と、後味の悪さと、説明できない虚しさが、ぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「そう、か……」
それだけ絞り出すように答える。
しばらくの沈黙の後、澪が恐る恐る口を開いた。
「見たところ、傷は癒えているみたいだけど……大丈夫? 昨日あんなに血、出てたのに」
玲司は自分の体を見下ろした。
シャツは血で汚れているが、脇腹や腕の痛みはほとんどない。動かしても、骨が軋むような感覚も消えていた。
「……エネビス器官の、おかげだと思う」
「えねびす……」
「心臓の近くに埋め込まれてるって、楽が言ってた。それが戦闘中だけじゃなくて、回復にも全振りしてるらしい」
冗談めかして肩をすくめる。
「安心しろ。もう走り回れって言われても、たぶん走れる」
「無茶しないでよ……?」
それでも澪は、心配そうに眉を寄せた。
その視線から、ほんの少しだけ目を逸らしながら、玲司はふと壁の時計に目をやる。
白い丸い時計の針は――11時を指していた。
「…………あ」
「どうしたの?」
「いや、その……」
脳内で、時間の歯車が急速に回転し始める。
昨日は夜に倒れた。そこからここまで運ばれ、寝て、今は三月四日の昼――。
「……やべえ」
声が裏返った。
「やばいやばいやばい! 俺、今日10時からバイトだ!!」
「えっ!? れ、玲司くん落ち着いて! 今から走ったって――」
「大遅刻だわ!!」
毛布を跳ね飛ばし、ほとんど反射で立ち上がる。
頭がクラクラするが、そんなことを気にしている場合ではない。
「顔洗って着替えて、とりあえず土下座だな……」
「あ、あの、シャツどうするの!? それ血まみれだよ!?」
「だよな!?」
パニック状態でクローゼットを開けようとして、「ここ澪の部屋だった」と慌てて手を引っ込める。
「ああもう、待ってて! お母さんに言って、玲司くんの家から替えの服借りてきてくれてるから!」
「マジで!? 助かる!!」
怒涛の数分の後、なんとか着替えと簡単な身支度を終え、玄関に立つ。
靴ひもを結びながら、ふと振り返ると、澪が少しもじもじした様子で立っていた。
「……その、さ」
「ん?」
「昨日……ほんとうに、ありがとう」
小さく、けれどはっきりと。
澪はまっすぐに頭を下げた。
「私、怖くて動けなかった。何もできなかった。なのに、玲司くんが来てくれて、守ってくれて……」
言葉が詰まり、涙がにじむ。
「ありがとう……命、助けてくれて」
玲司は、一瞬だけ言葉を失った。
何か気の利いたことを返せるタイプではない。だから、ありのままを言うしかない。
「気にするな」
靴ひもを固く結び終えてから、顔を上げる。
「澪が無事で良かった。それだけだ」
それが、本心だった。
澪は泣き笑いみたいな顔になって、「うん」と小さく頷いた。
「じゃ、とりあえず行ってくる。店長に首切られないように頑張るわ」
「……うん。行ってらっしゃい」
玄関の戸を開けると、昼の光が差し込んだ。
まだ終わっていない。何も解決していない。
それでも、今は――いつも通り、バイトに向かう。
それが、今の自分にできる「日常」の守り方だと思えた。
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