第6話

 静寂。

 夜風の音と、自分と澪の荒い呼吸だけが、路地裏に残る。


「……はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 男の胸は玲司の鎖剣によって一閃され、血が流れている。

 本来であれば致命傷になっているはず。

 しかし玲司の斬った感覚は——浅い。


「……クソ……っ」


 寸前の躊躇。

 玲司は荒い息で自分自身に失望する。


(俺にはこいつを殺す覚悟がない……)


 男はかろうじて息をしている。今すぐ死ぬというほどではない。

 今、ここで、もう一度突き立てればそれで終わる。ルール上も、「殺害」という選択肢の完遂。


 分かっているのに。

 腕が、動かなかった。


「れ、玲司くん……!」


 背後から、澪が駆け寄ってくる気配がした。

 顔を向けると、彼女は今にも泣きそうな顔でこちらを見ている。


「だ、大丈夫……?」

「ああ……まあ……なんとか」


 笑おうとしたが、うまく形にならなかった。

 全身が痛い。脇腹から血が流れ続けている。


「――よく頑張ったね」


 場違いな、穏やかな声。

 ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。


 いつの間にか、路地の入口に人影が立っていた。

 整った顔立ち。仕立ての良いスーツ。陶器のような肌。


「フィース……!」


 玲司が歯を食いしばる。

 澪は、突然現れた男に驚いたように息を呑んだが、その存在に気付いているのは二人だけのようだった。通りに視線を向けても、誰一人こちらを気にしていない。


「第2戦目……いや、キミ単体としては初戦と言うべきか。なかなか見応えがあったよ。まさかグリップを破壊してしまうとはね……恐れ入った。アラヤミスに存在する最高硬度の鉱物で生成しているはずだが……鎖剣グラティナの前ではあまり関係ないようだ」


 フィースはぶつぶつ独り言を言いながら、倒れ伏す男に近づき、その様子を観察するように見下ろした。


「グリップの破壊によるエネビスの暴走を、ぎりぎりのところで抑えている。うん、いいデータが取れた」


 まるで人間ではなく、装置でも眺めているかのような口ぶりだ。

 怒りが沸き上がる。


「……こいつは、どうなる」


 しぼり出すように尋ねると、フィースは肩をすくめた。


「それを決めるのは、勝者であるキミだよ」


 いつもの柔和な笑みを浮かべたまま、フィースは人差し指を立てる。


「ルールその二。観測者の裁定の下、勝利者は敗北者に対して――」


 まるで教科書を読み上げる教師のような口調で、言葉を続けた。


「『相手の期間中の記憶を消して脱落させる』、もしくは『自らの手で殺害する』。この二つから、選択することができる」


 分かっていた。

 ファミレスで聞いた説明の通りだ。


「さあ、暮上玲司くん」


 フィースの視線が、真っ直ぐに刺さる。


「この男の『その後』を決めるのは、キミだ。ここで命を断つか、それとも“何も知らなかった頃”に戻してやるか」

「……」


 喉が渇く。

 男は、弱々しくうめき声を上げている。意識は朦朧としているようだが、まだ生きている。

 この男は澪を殺そうとした。さっきのままなら、迷いなく首を刎ねていただろう。

 そんな人間を、生かしておいていいのか。


 ――いや、「生かす」という表現も違う。


 記憶を消されて脱落した者は、“この期間の事象を知らないまま”日常へ戻る。

 それは、ある意味では救済であり、ある意味では、責任からの解放でもある。


「……どうして、迷う必要がある?」


 不意に、フィースが首を傾げた。


「キミは、さっきまで必死に戦っていた。彼は、キミの大切な人を殺そうとした。ここで命を奪ったとしても、それは正当防衛の延長線にある行為だと思うけど」

「そうかもしれない……」


 玲司は、男を見下ろしたまま答えた。

 殺していい理由を探すのは、きっと簡単だ。

 自分を守るため。大切な人を守るため。正義のため。

 綺麗な言葉はいくらでも並べられる。


 でも――。


「俺は、まだ……そこまで“上手く”なれない」


 絞り出すような声だった。


「人を殺すっていう重さを、言葉で誤魔化せるほど図太くない」


 本音だ。

 覚悟がない。優しさなんてものじゃない。覚悟の足りない、弱さだ。

 フィースは、ふむ、と小さく頷いた。


「つまり、キミの選択は?」


 問いかけられ、玲司は一つだけ息を吐いた。


「……こいつの記憶を消して、脱落させてくれ」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。

 自分で、自分の弱さを認めた気がしたからだ。


「ふむ」


 フィースは目を細めた。


「殺すことを選ばなかった。情けと呼ぶべきか、甘さと呼ぶべきか。どちらにせよ――」


 男の額に、そっと指先を当てる。


「それもまた、キミという個体の“傾向”だ」


 囁くような声。

 次の瞬間、男の体が一瞬だけびくりと震えた。赤黒く濁っていた瞳の焦点が、ふっと曖昧になる。


「彼のこの期間の記憶は、全て消去された。これで彼はゲームから“脱落”する。以降、グリップを使用することもない」


 フィースは淡々と言う。


「もっとも、精神的な傷や人格傾向は、そのまま残るけどね。そこまでは僕らも弄れない」


 その言葉が、妙に重く響いた。

 再び誰かを理不尽に傷つける可能性。それを完全に否定することはできない。


(……それでも)


 今、ここで自分の手で殺すことだけは、どうしてもできなかった。


「決断、お疲れさま」


 フィースは、玲司と澪を順に見やった。


「今日のところは、これでお開きにしよう。ゆっくり休むといい」


「待てよ、フィース!」


 思わず、玲司は声を荒げていた。


「どうして澪も……最初から、このゲームに巻き込んだんだ!」


 澪が肩を震わせる。

 フィースは、少しだけ困ったように笑った。


「どうして、と問われてもね」


 視線が、澪へと向けられる。


「適性があったから、だとしか言いようがない。エネビス器官を移植するに値するだけの“因子”が、彼女にはあった。それだけだよ」


「そんな理由で……!」


 怒鳴りかけて、言葉が喉に詰まる。

 合理的だ。冷酷なまでに、筋の通った理由。

 それを否定できるほど、玲司は世界を知らない。


「キミが怒るのは、悪いことじゃない」


 フィースは、ふと表情を和らげた。


「怒りも、憎しみも、葛藤も――すべてエネビスを活性化させる重要な要素だ。存分に悩み、迷い、苦しむといい。それが、キミたちの生きる証だから」


 それだけ告げると、フィースの姿は、路地の闇に溶けるように消えていった。

 残されたのは、倒れた男と、血だらけの自分と、震える幼馴染。


「……玲司くん」


 澪が、おそるおそる近づいてくる。

 その手には、まだ銀白色のグリップが握られていた。


「ごめん……本当に、ごめんなさい……」


 今にも泣き出しそうな顔で、何度も謝る。

 玲司は、しばらく言葉を探した。


 巻き込まれたのは、自分だけじゃなかった。

 守りたいと願った相手も、同じ戦場に立たされていた。


(――だったらなおさら)


 ここで、自分だけ逃げるわけにはいかない。


「……あとで、ちゃんと話そう」


 玲司は、かろうじて笑った。


「いつからそれ持ってたのかとか。何があったのかとか。全部」

「……うん」


「だから今は――」


 膝が、ガクンと崩れた。

 緊張の糸が切れ、全身の痛みが一気に押し寄せてくる。


「れ、玲司くん!」

「悪い……ちょっと……疲れた……」


 澪が慌てて支える。

 夜の路地裏に、遠く救急車のサイレンが微かに聞こえた気がした。

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