第5話

 ギリギリギリ、と金属が擦れ合う嫌な音が路地に響いた。


 鎖剣グラティナの刀身と、男の手に握られた巨大な手斧。刃と刃が噛み合い、互いの進路を阻むように火花を散らしている。

 圧が重い。肩から先が潰されそうだ。


「ぐ、っ……!」


 足元のアスファルトがきしむ。玲司は膝が折れそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。

 背後から、震える気配が伝わってくる。


「……玲司くん……なんで……その姿」


 澪だ。

 彼女の前に立っている。それだけは、ぎりぎり守れている。


(ここで退いたら、終わりだ)


 手斧男は、近くで見るとさらに禍々しい印象を与えた。浅黒い肌に、無精髭。血走った目は焦点が合っておらず、さっきまで人を殺そうとしていた高揚がまだ冷めていない。

 何より、手斧だ。

 分厚い刃。柄から伸びる異様な金属の筋。グリップから流れ込む赤黒い光が、鈍色の刃を内側から染めていた。


「チッ……ガキのくせに、よく割り込んできやがる」


 男が吐き捨てる。ぐい、と斧にさらに圧力がかかった。

 肩が悲鳴を上げる。腕がちぎれそうだ。


「お前が……澪を狙う理由なんてないだろ……!」


 喉を振り絞って、玲司は怒鳴った。


「相手なら俺がいる……だろ……っ!」


 男の口元が、にやりと歪んだ。

 その笑みには、純粋な嘲りと、そして薄い戸惑いが混ざっている。


「はん。何言ってんだ、お前」


 ぐん、と一度圧を緩めてから、男は斧を振り払うように弾いた。

 玲司の体がよろめき、背中が金網に激突する。痛みに顔を歪めつつも、すぐに体勢を立て直した。


「グリップ使い以外を狙う意味? ねえよ、そんなもん」


 男は肩を竦める。


「だから、近い方からやってるだけだ。こいつも、ちゃんと『持ってる』だろうがよ」


「……は?」


 頭が真っ白になった。

 意味が分からない。何を言っている。


「おいおい……」


 男は手斧を肩に担ぎ、呆れたように笑った。


「お前、お友達に言ってねえのかよ。可哀想になぁ、嬢ちゃん」


 視線が、玲司の背後――澪を貫いた。

 冷水を浴びせられたように、背筋が冷たくなる。

 振り返るのが怖い。それでも、玲司はゆっくりと顔を向けた。


「……澪?」


 彼女は、金網に背を押し付けたまま震えていた。

 だが、その震えは恐怖だけではない。何かを迷い、躊躇っているような、そんな色も混じっている。


「――ごめん、玲司くん」


 小さな声でそう呟くと、澪はそっと鞄を抱き寄せた。

 震える指先が、チャックにかかる。

 ゆっくりと開かれた鞄の中から、彼女は“それ”を取り出した。


 見覚えのある形。けれど、どこか違う。

 長さ二十センチほどの金属の塊。玲司が持つものより少し細く、白銀に近い淡い光沢を帯びていて、表面には水面の波紋のような紋様が刻まれている。

 紋様が、かすかに淡い光を脈打たせた。


「……グリップ?」


 言葉が漏れた。

 信じたくない現実が、眼前に突き付けられる。


「いつから、それ――」


「ごめん……ずっと、言えなかった」


 澪は唇を噛む。


「怖くて……こんなもの、持ってるって知られたら、玲司くんまで巻き込んじゃうって思って……」


 もうとうの昔に巻き込まれている。

 そんなツッコミを入れる余裕はなかった。

 世界が、ガラガラと音を立てて崩れていくような錯覚。


(澪も……最初から、この戦いに……?)


 胸の奥がぎゅっと掴まれる。

 守りたいと思っていた日常の象徴が、自分と同じ“戦場側”の存在だったという現実。


「話はあとだ。今は――」


 男が、苛立たしげに舌打ちをした。


「おしゃべりは終わりにしようや。どっちにせよ、てめえら二人とも『標的』には変わりねえ」


 言うや否や、男は手斧を振りかぶる。

 空気が震えた。先ほどよりも、はるかに重い殺意が乗っている。


「――来る!」


 玲司は叫び、鎖剣を構え直した。

 刹那、手斧が地面を薙ぎ払う。


 ドゴォッ!!


 アスファルトが抉れ、破片が飛び散る。爆音と衝撃波が狭い路地を駆け抜けた。

 かろうじて飛び退いたものの、余波で体が宙に浮き、そのまま壁に叩きつけられる。


「がはっ……!」


 肺の中の空気が強制的に吐き出され、視界が白く弾けた。


「玲司くん!」


 澪の叫び声が遠く聞こえる。

 耳鳴りの中で、玲司は必死に意識を繋ぎ止めた。


(重……。一撃一撃が……昨日の鞭の奴どころじゃない……っ)


 鈍器。質量。圧倒的な破壊力。

 鎖剣の刃で受け止めるたびに骨まで揺さぶられる。

 だが、だからこそ、まだ戦えているとも言えた。


「……立てる、まだ……!」


 よろめきながら、玲司は立ち上がる。

 鎖が右腕に食い込み、脈動する感覚がある。エネビス器官が、必死で出力を高めようとしている。

 男が鼻を鳴らした。


「根性だけはあるじゃねえか。だが――」


 振り下ろされる斧。その軌道が、わずかに変わる。

 狙いは玲司の肩ではない。その背後。


 澪だ。


「そこを、どけやあっ!!」


「させるかよッ!!」


 玲司は、反射的に一歩踏み込んだ。

 正面から受け止めるのではない。斧の腹を、刃と鎖で“滑らせるように”受け流す。


 ギャリギャリギャリッ!!


 火花が、直線ではなく弧を描いた。

 分厚い刃が逸らされ、進行方向がズレる。斧は澪の頭上すれすれで、金網を粉砕して突き抜けた。


「……チッ!」


 男が舌打ちする。

 玲司自身も、今の動きに驚いていた。


(今……鎖が、勝手に……?)


 グリップから伸びる鎖が、まるで生き物のように斧の表面を走り、軌道を強制的に捻じ曲げていた。

 防御の“拒絶反応”みたいなもの。

 自分の「守りたい」という意思に、鎖剣が応じてくれたような感覚。


 その一瞬の感覚に縋りつくように、玲司は叫んだ。


「澪ッ! 下がってろ! 絶対に……そいつを、お前には触らせない!」


「で、でも――」


「いいから!」


 振り返らずに怒鳴る。

 澪が息を呑む気配がした。数歩、靴音が遠ざかる。


(守る対象がいる。逃げ場を塞ぐ。アイツの視線を全部、自分に向けさせる――)


 鎖剣を強く握り直す。

 男がニヤリと笑った。


「ヒャハッ……いいねえ、その目」


 赤黒いグリップが妖しく輝き、斧の刃にひび割れのような紋様が広がる。

 殺意が、さらに濃くなった。


「そうだよなぁ。自分の女、守りてえよなぁ。分かるぜ、その気持ち」


 言葉とは裏腹に、男の目には一片の共感もない。ただ、愉悦だけがある。


「だから――」


 振り上げられた斧が、上段から振り下ろされる。

 頭蓋骨を粉砕する一撃。


「お前から砕いてやるよ、ヒーロー気取りのガキがッ!」


 ――来る。


 玲司は、地面を蹴った。

 正面からは受けない。さっきの“流し”を、意図してやる。


「うおおおおおッ!」


 咆哮と共に、鎖剣の切っ先を上へ向ける。

 刃が噛み合うその瞬間、鎖が勝手に蠢いた。


 ガキィィンッ!!


 金属音と共に、鎖が斧の柄に絡み付き、その勢いを横へと捻じ曲げる。重い刃が、玲司の頭上ではなく、壁へと押し流される。

 石壁が砕け、破片が舞った。


「っぶね……!」


 頬をかすった破片が、赤い線を描く。

 だが、その代償として、一瞬だけ――男の身体ががら空きになる。


(ここだ――!)


 玲司は鎖剣を引き戻し、そのまま横薙ぎに振るった。

 青い軌跡が、男の胴をなぞる。


「ぐっ……!」


 鈍い手応え。刃は深くは入らなかったが、分厚い作業着の下の肉を裂いた。赤い血が飛び散る。

 男が大きく後退る。口の端から笑みが消えた。


「……この野郎が……」


 低い唸り声。

 次の瞬間、斧の刃先が赤黒く脈動し始めた。


「これ以上、ナメた真似してくれるなよ」


 刃の表面を走る紋様が、びきびきと音を立てて盛り上がる。

 嫌な予感がした。


「――跳べ!」


 玲司は、自分でも何を言っているのか分からないまま叫んでいた。

 直後。


 ドガァァァァンッ!!


 爆発にも似た衝撃が走った。

 男が斧を振り下ろした地点から、放射状に衝撃波が広がる。アスファルトが砕け、空気がねじ曲がる。

 半ば反射的に飛び退いていなければ、まともに直撃していただろう。


(今の……衝撃を“飛ばした”?)


 手斧のリーチは、本来せいぜい数十センチのはずだ。だが今の斧は、目に見えない衝撃を纏って、数メートル先まで叩き潰している。

 防御どころか、かすっただけで骨が粉砕されそうな威力だ。


「ちょこまか動きやがって……」


 男の肩が上下する。負った傷のせいか、息が荒い。

 だが、戦意は落ちていない。


「すぐに終わらせてやるよ。お前も、嬢ちゃんも――」

「黙れよ」


 玲司自身、驚くほど冷静な声が出た。

 握った鎖が、心臓の鼓動に合わせて脈打っている。


「澪には、指一本触れさせないって言ってんだ」


 足が、自然と前へ出る。

 恐怖は、まだある。死への本能的な怖さは消えていない。

 それでも、その上から――「嫌悪」が覆い被さっていた。


 自分の安全だけのために逃げるのは、もう嫌だった。

 誰かを犠牲にして自分だけ「知らないまま」守られる世界なんて、もっと嫌だった。


「お前みたいな奴に、ビビって立ち止まってるのが一番、ムカつくんだよ……!」


 喉が焼ける。胸の奥が熱い。

 エネビス器官が応じるように、鎖剣が青く光を増した。


「来いよ。今度は、こっちから行く」


 挑発するように、玲司は剣先を向ける。

 男の目が、ギラリと光った。


「……いいじゃねえか。ぶっ壊し甲斐がある」


 次の瞬間、二人の影が交錯した。


 ――そこから先は、言葉にする余裕がなかった。


 斧が唸るたびに、空気が裂けた。

 鎖剣が防ぐ。斧を流し、受け止め、時に弾き返す。だが、そのたびに腕が軋み、足が滑りそうになる。

 一撃一撃が、常に致命傷たりうる攻防。


 何度も、視界が赤く染まった。

 肩を掠め、脇腹を抉り、太腿へ衝撃が走る。防ぎきれない衝撃波の余波が、全身の骨にヒビを入れていくようだった。

 口の中に鉄の味が広がる。


「はぁ……はぁ……っ」


 肺が焼けるように痛い。

 立っているのがやっとだ。


 一方で、男も無傷ではなかった。

 鎖が何度も足を絡め取り、刃が少しずつ肉を削っている。さっきの脇腹の一撃も、じわじわとダメージを蓄積させているはずだ。

 息が荒く、額に汗が滲み、さきほどの余裕は消えかけている。


(互角……いや、ギリギリ、押されてる。長期戦になったら、先に折れるのは俺だ……)


 それでも、退く選択肢はない。

 背後には澪がいる。ただそれだけが、足を前に出させた。

 鎖剣を握る手に、力を込める。


「……ここが正念場だな」


 刹那、何かが“カチリ”と噛み合ったような感覚があった。


 鎖が、強く、熱く脈打つ。

 男も、異変に気付いたのか目を細めた。


「……なんだ、その光」


 鎖剣を這う青い光が、闇夜に流れ込んでいく。


「動くなよ」


 玲司は、ほんの少しだけ口元を歪めた。


「お前は、ここから一歩も通さない」


 男が、殺気を纏わせて斧を振り上げる。

 その瞬間、玲司は地面を蹴った。


 ――速い。


 体が、さっきまでよりも軽い。

 エネビスが身体を巡り、鎖剣との繋がりをより感じる。

 男の斧が振り下ろされる。目標は、さっきまで玲司がいた地点。


 だがそこには、誰もいない。


「なっ――」


 驚愕する男の懐に、玲司の姿があった。


「終わりだ……!」


 叫びと共に、玲司は鎖剣を振り上げた。

 狙うは、手斧の“根本”。グリップに近い部分。


 ガキンッ!!


 鈍い手応え。刃が、斧の柄を斜めに断ち切る。

 エネビスのエネルギーが行き場を失い、赤黒い光が弾けた。


「う、あああああッ!?」


 男が悲鳴を上げる。

 斧の刃が、半ばから折れて地面に転がる。同時に、男の体勢が大きく崩れた。


(今だ――!)


 その胸元へ、玲司は渾身の一撃を叩き込む。


(――っ!)


 厚い布を貫き、肉を裂き、骨を軋ませる感触。

 そのまま押し倒すように、男の体が地面へと沈んだ。

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