第2話
「は……?」
粉々になった木片。コンクリートの地面に刻まれた深い亀裂。
冗談ではない。あんなものが当たれば、人間の体など簡単に千切れ飛ぶ。
これは喧嘩ではない。殺し合いだ。
「逃げるぞ、楽!」
玲司は叫び、立ち上がろうとした。だが、足が震えてうまく力が入らない。
恐怖。
圧倒的な暴力への恐怖が、体を縛り付ける。
逃げたい。今すぐここから逃げ出して、家で布団を被って震えていたい。なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
だが、パーカーの男はゆっくりと間合いを詰めてくる。その殺意は明確に、玲司に向けられていた。
「……くそっ」
玲司は震える手でカバンを開け、あの『グリップ』を掴んだ。
冷たいはずの金属が、今は火傷しそうなくらい熱い。
『覚悟を決めてこのスイッチを押すんだ。これはきっとキミを助けてくれる』
助けてくれる? これが?
本当に?
鞭が再び振り上げられる。死の予感が肌を焼く。
迷っている暇はない。
「動け……っ!」
玲司は叫びと共に、グリップにある小さなスイッチを押し込んだ。
視界が青く染まる。
それは視覚的な色というよりは、もっと直接的に脳を揺さぶるような、冷たく澄んだエネルギーの奔流だった。
玲司がスイッチを押し込んだ瞬間、手の中の『グリップ』が爆ぜた。
金属の質量が膨れ上がる。
ジャララッ、と硬質な音が鼓膜を叩いた。
グリップの底から溢れ出したのは、光ではない。実体を持った鋼鉄の『鎖』だった。
鎖は生き物のように玲司の右腕に絡みつき、手首を締め上げ、皮膚に食い込むようにして結合していく。
痛い。重い。冷たい。
けれど、不思議と不快ではなかった。まるで、今までどこかへ行こうとしていた自分の体を、強制的にこの場に繋ぎ止める『錨』のような重み。
「……なんだ、これ」
光が収束すると、玲司の手には一本の剣が握られていた。
装飾の一切ない、無骨な直剣だ。
刀身は分厚く、色は深海のような濃紺。握り手から伸びた鎖は玲司の肘までを完全に覆い、肉体と武器を一体化させている。
これが、俺のグリップ――『
名前なんて知らないはずなのに、頭の中にその単語が自然と浮かび上がってきた。
「へえ。覚醒したか」
目の前のパーカーの男が、愉しげに口の端を歪めた。
その手にある赤黒い鞭が、蛇のようにチロチロと蠢いている。
「だが、出しただけで満足してちゃ駄目だぜ?」
ヒュンッ!
警告もなく、鞭が放たれた。
速い。
目で追える速度ではない。玲司は本能的に剣を前に突き出し、顔を庇った。
ガギィッ!!
凄まじい衝撃が腕を駆け上がり、肩の関節が悲鳴を上げる。
「ぐっ……ぅ!」
防いだ、というよりは、たまたま剣に当たっただけだ。衝撃で体が後方へ弾き飛ばされ、玲司は無様に地面を転がった。
「玲司!」
楽の叫び声が聞こえる。
玲司は泥だらけになりながら、這うようにして立ち上がった。
腕が痺れて感覚がない。剣が鉛のように重い。
怖い。足が震える。心臓が破裂しそうだ。
これが殺し合い? こんな理不尽な暴力を、これからずっと続けなきゃいけないのか?
「逃げろ……楽ッ!」
玲司は震える喉で叫んだ。
「こいつの狙いはグリップを持ってる俺だ! お前は関係ない……今のうちに警察でも何でも呼んでくれ!」
「たぶんそいつより玲司弱いよ? 死ぬかも」
「いいから行けよ!」
玲司は楽に背を向け、敵の前に立ちはだかった。
戦える自信なんてない。勝てるビジョンなんて欠片も見えない。
ただ、時間稼ぎくらいならできるかもしれない。そう思って剣を構えるが、切っ先は情けなく揺れている。
「ハハッ! 泣けるねぇ、友情ごっこか?」
男が嘲笑う。
鞭がしなり、今度は玲司の足を狙って飛来した。
避けようとしたが、体がイメージ通りに動かない。運動神経は人並みだし、剣術の心得なんてあるはずもない。
バシッ!
「あぐっ!?」
鞭の先端が太腿を掠めた。ジーンズが裂け、鮮血が飛び散る。
熱い痛みが遅れてやってきた。
「遅い、脆い、判断が悪い。素人以下だな」
男は弄ぶように鞭を振るう。
頬を、肩を、脇腹を。
致命傷は避けられているが、確実に玲司の体は傷つき、体力を削られていく。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
玲司は片膝をついた。
鎖で繋がれた右腕が、千切れそうなほど重い。流れる血が目に入り、視界が赤い。
男がゆっくりと歩み寄ってくる。
「おいおい、もう限界か? 期待外れだな」
男は冷ややかな目で見下ろした。
「そんなボロボロになってまで、なんで戦う? あいつを逃がすためか?」
「……だったら、なんだ」
「馬鹿だって言ってるんだよ。まず自分が助からないでどうする。弱いくせに」
男は心底呆れたように吐き捨てた。
「ここは戦場だ。弱者は強者の餌になり、強者だけが生き残って望みを叶える。それがルールだろ? 自分の命も守れない半端者が、他人を庇って死ぬなんて犬死に以外の何物でもねえよ」
正論だった。
この世界が弱肉強食なら、男の言うことが正しい。
自分のことだけ考えて、隙を見て逃げ出すのが賢い選択だ。今まで玲司はそうやって生きてきた。面倒事からは目を逸らし、自分が傷つかない道を選んできた。
でも。
「……関係ない」
玲司は剣を杖代わりにして、ふらつきながら立ち上がった。
「あ?」
「俺が強いか弱いかなんて、関係ないんだよ……ッ!」
玲司は血の混じった唾を吐き捨て、男を睨みつけた。
膝は笑っている。恐怖で歯の根も合わない。
それでも、玲司は一歩も引かなかった。
「俺がここで逃げたら、楽はお前に殺されるかもしれない。もしそうなったら……それは俺のせいだ」
昼間、楽に言われた言葉が脳裏をよぎる。
『玲司が言わなきゃ、アイツはずっと誰かを不快にさせる。それは、無責任だ』
あの言葉が、玲司の臆病な心に火をつけていた。
「俺が見捨てたせいで誰かが死ぬなんて、そんな現実はもう御免だ。二度と、無責任な自分には戻りたくない」
玲司は鎖の絡みついた右手を強く握りしめた。
逃げ癖のある自分。事なかれ主義の自分。
そんな自分を殺すために、今、俺は戦うんだ。
「だから俺は……お前が誰だろうと、ここから一歩も通さない!」
玲司の咆哮に呼応するように、
その背中を、楽は見ていた。
公園の街灯が作り出す影の中で、瞳がわずかに見開かれている。
(……へえ)
弱いのに、折れない。逃げたいのに、立ち向かう。
その矛盾した在り方が、たまらなく美しく見えた。
楽は表情には一切出さず、しかし楽しげに口元だけで笑った。
そして、ポケットから何かを取り出す。
それは、玲司が持っているものとは見た目が少し違う、薄緑色の『グリップ』だった。
「……はん。威勢だけはいいな」
男は鼻で笑い、鞭を大きく振りかぶった。
「だが、精神論で実力差は埋まらねえんだよ! 死ねッ!」
必殺の一撃。
先ほどベンチを粉砕した威力の鞭が、玲司の脳天めがけて振り下ろされる。
玲司は目を見開いたまま、動けなかった。
死ぬ。
そう確信した瞬間――。
キィンッ!
高く、澄んだ音が夜の公園に響き渡った。
玲司の目の前で、振り下ろされた鞭が止まっていた。
いや、止まったのではない。
何かに阻まれ、切断されていたのだ。
「――え?」
玲司が呆然と見上げると、そこには背中があった。
色素の薄い髪が夜風に靡く。
楽だった。
だが、その手に握られているのは、見たこともない光の剣だった。
刀身は透き通るような翠緑。形状は一定しておらず、陽炎のように揺らめいている。
「ら、楽……?」
「下がってて、玲司」
楽は振り返らず、静かな声で言った。
その声色は、昼間のバイト先で見せた冷徹さとも、いつもの陽気さとも違う。
もっと超越的な、絶対者の響きがあった。
「な、なんだテメェ!? いつの間に……!」
男が狼狽し、切断された鞭を引き戻そうとする。
だが、遅い。
「君の攻撃は単調すぎるよ」
楽が一歩、踏み込んだ。
たった一歩。それだけで、5メートルはあった間合いがゼロになった。
縮地ではない。摩擦や慣性を無視したような、異質な移動。
「なっ――」
男が反応する暇もなかった。
楽の手にある光の剣が、一閃。
軌道すら見えなかった。
音もなく、男の持つ赤黒い鞭のグリップが粉々に砕け散る。
さらに返す刀で、切っ先が男の喉元ギリギリでピタリと止まった。
「終わりだ」
圧倒的だった。
秒殺という表現すら生温い。大人と子供、いや、人間と竜ほどの絶望的な戦力差。
男は腰を抜かし、ガタガタと震えながら後退った。
「ひ、ひぃ……っ! なんだよお前、バケモノかよ……!」
「失礼だな。ボクはただのパン屋の店員だよ」
楽はニコリと笑って男の首を刎ねた。そのあまりにも呆気なく行われた殺人行為に、玲司は現実味を感じられなかった。
静寂が戻ってくる。
玲司はその場にへたり込んだ。緊張の糸が切れ、全身の痛みが一度に押し寄せてくる。
楽は光の剣を消滅させ、いつものふにゃっとした笑顔で振り返った。
「大丈夫? 玲司。結構派手にやられちゃったね」
「おま……お前……」
玲司は荒い呼吸を整えながら、目の前の少年を見上げた。
今の動き。人間じゃない。
そもそも、あいつもグリップを持っていたのか?
疑問が次々と溢れ出し、玲司は震える声で問いただした。
「お前、いったい何者なんだ……?」
楽は少しだけ首を傾げ、月明かりの下で神秘的に微笑んだ。
隠す様子もない。
むしろ、ようやく自己紹介ができることを喜ぶように、楽は夜空の彼方を指さしながら言った。
「ボクは
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