第1話

 三月二日。

 昨日の出来事が悪い夢だったのではないかと思うほど、朝は平凡に始まった。

 10時。玲司はバイト先である駅前のパン屋『ブーランジェリー・ミモザ』に出勤した。

 香ばしい小麦の香りと、バターの甘い匂い。店内には穏やかなBGMが流れ、平和そのものだ。

 昨日の男の言葉――『最後の一人になれば望みを叶えられる』なんていう妄言は、この日常の前では滑稽ですらある。


「おはようございます」


 バックヤードに入ると、店長が困ったような、それでいて期待を含んだような顔で手招きをした。

「あ、玲司くん。ちょうどよかった。今日から入る新人さんなんだけど、同い年だから玲司くんが教えてあげてくれないかな」


 店長の後ろから、ひょこっと顔を出したのは、色素の薄い少年だった。

 髪は光の加減で白にも緑にも見える不思議な色合い。整った顔立ちは中性的で、どこか浮世離れした雰囲気を纏っている。


「はじめまして! ボクの名前は昼間楽ひるまらくです! よろしくお願いします!」


 元気よく頭を下げるその姿からは、昨日の男のような不気味さは感じられない。むしろ、発光しているかのような陽気さが漂っている。


「暮上玲司です。よろしく」

「同い年? じゃあ敬語なしでいいかな? あ、でも先輩だから敬語のほうがいいのかな」


 距離感が近い。

 玲司は少し引きながらも、人懐っこい笑顔に毒気を抜かれた。


「……接客中はお客さん以外には敬語、僕にはもちろんタメ口でいいよ」

「了解! よろしくね玲司!」


 それから数時間、玲司は楽に仕事を教えることになったのだが――その評価は「驚き」と「違和感」の二つに分かれた。

 まず、楽は仕事を覚えるのが異常に早かった。

 レジの操作、パンの種類、焼き上がりの時間の管理。一度説明すれば完璧に記憶し、二度目には玲司よりも手際よくこなしてみせる。

 だが、その一方で、常識の欠如が著しかった。


「ねえ玲司、この金属のコインにはどんな価値があるの?」

「……百円玉だけど」

「へえ、これが通貨という概念か。信用取引の物理的媒体なんだね」

「……」

「なんでお客さんが来たら頭を下げるの? 服従の意思表示?」

「いや、挨拶だし。礼儀だから」

「レイギ? 効率が悪そうだけど、それがここの規範なら従うよ」


 いちいち質問が哲学的というか、根本的すぎるのだ。

 海外からの帰国子女だろうか、それとも極度の世間知らずなお坊ちゃんなのか。楽の無邪気な笑顔を見ていると悪意は感じられないのだが、玲司の胸には「不思議な奴」という印象が刻まれた。


 その違和感が、「確信」に変わったのは、昼のピークタイムが過ぎた頃だった。

 店内に怒鳴り声が響いた。


「おい! どうなってんだこの店は!」


 声の主は、五十代くらいのサラリーマン風の男だ。トレイに乗せたカレーパンを指さし、顔を真っ赤にしている。


「冷めてるじゃねえか! 焼きたてって書いてあったから買ったんだぞ!」


 不運にも対応していたのは楽だった。

 玲司は慌てて駆け寄ろうとしたが、楽の方が早かった。


「お客様、ご指摘ありがとうございます」


 楽の声は透き通るようにハキハキとしていた。


「ですが、こちらのカレーパンの焼き上がり時間は11時30分です。現在は12時15分。熱力学的に考えて、現時点で『焼きたて』の温度を維持していることは物理的に不可能です」


 店内が静まり返った。

 玲司は凍りついた。言っていることは正しい。正論だ。だが、接客業において最も言ってはいけない正解だった。


「な……なんだと、テメェ!」


 客の男は激昂し、トレイをカウンターに叩きつけた。


「屁理屈こねてんじゃねえぞガキが! 俺は客だぞ! 誠意を見せろって言ってんだよ!」


 男が手を振り上げ、楽の胸ぐらを掴もうとした瞬間。

 楽の雰囲気が、一変した。

 それまでの陽気なミントグリーンの春風のような空気が消え失せ、絶対零度の冷徹さがその場を支配する。

 楽は一歩も引かず、男の目を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、恐怖も、焦りも、怒りすらなかった。


「――攻撃の意思があるね」


 楽の声は低く、そして重かった。


「これ以上続けるんだったら相応の『排除』をするけど、いいのかな?」


 排除。

 パン屋の店員が口にするはずのない単語。

 だが、楽の全身から立ち昇る気配は、それが単なるハッタリではないことを雄弁に物語っていた。男の動きが止まる。本能的な恐怖を感じ取ったのか、顔色が青ざめていく。

 まずい。

 玲司は直感的に割り込んだ。


「す、すいませんお客様! 新人で不慣れなもので!」


 玲司は楽と客の間に体をねじ込み、深く頭を下げた。


「すぐに新しいものをお持ちします! 本当に申し訳ございません!」


 玲司の必死の謝罪に、男は毒気を抜かれたように、あるいは助け舟を得たように、「ふ、ふん! 最初からそう言えばいいんだ!」と捨て台詞を吐いて店を出て行った。

 嵐が去った店内で、玲司は大きく息を吐いた。

 心臓が早鐘を打っている。

 横を見ると、楽はキョトンとした顔で、いつもの笑顔に戻っていた。


「玲司、早かったね。あのままなら三秒で関節を外せたのに」

「……お前なぁ」


 冗談に聞こえない。

 こいつは、ただの「天然」じゃない。もっと根本的な何かが欠落している、あるいは人間とは違う論理で動いている。

 玲司は、楽という存在に対して明確な「異常性」を感じ取っていた。


          ◇


 19時。

 バイトを終えた二人は、近くの公園のベンチに座っていた。

 あたりはすっかり暗くなり、街灯の光が頼りなく揺れている。三月の夜風は冷たく、玲司は自販機で買ったホットコーヒーの缶をカイロ代わりに握りしめていた。


「……さっきのことだけどさ」


 玲司は重い口を開いた。

 隣でいちごミルクを飲んでいる楽は、足をぶらぶらさせながら「ん?」と首を傾げる。


「あそこは、テキトーに謝って場を収めれば良かったんだよ。相手が理不尽でも、こっちが頭を下げれば済む話なんだから」


 それが大人の対応だ。それが社会でうまくやっていくコツだ。玲司はずっとそうやって生きてきた。

 波風を立てず、自分が我慢すれば丸く収まるなら、それでいいと。

 だが、楽は不思議そうに瞬きをした。


「どうして?」

「どうしてって……それが一番被害が少ないからだろ」

「それは違うよ、玲司」


 楽は静かに、けれど断定的に言った。


「それは対症療法であって、原因療法じゃない」

「……は?」

「玲司が嘘をついて謝れば、その場は収まるかもしれない。でも、あの男は『理不尽に怒鳴れば要求が通る』と学習して、また別の場所で同じことを繰り返すよ。玲司が言わなきゃ、アイツはずっと誰かを不快にさせる」


 楽は缶を置き、真っ直ぐに玲司を見た。


「それは、無責任だ」


 その言葉は、鋭利な刃物のように玲司の胸に突き刺さった。

 無責任。

 違う、俺はただ穏便に済ませたかっただけで――。

 反論しようとしたが、言葉が出てこない。楽の瞳には、一切の悪意がなかった。ただ純粋な正論として、事実を突きつけているだけだ。

 だからこそ、痛い。

 玲司がやっていることは「優しさ」ではない。「事なかれ主義」という名の逃避だ。自分が傷つきたくないから、面倒ごとはごめんだから、とりあえず謝ってやり過ごす。その結果、そのツケを誰か他の人が払うことになっても、見ないふりをする。


「……うるさいな」


 玲司は視線を逸らした。


「世の中、そんな正論だけで回ってないんだよ」

「正論以外で回る世界なんて、壊れているのと同じだよ」


 会話が噛み合わない。

 いや、噛み合わないのではない。楽の立っている場所が、玲司とは決定的に違うのだ。

 玲司はコーヒーを一気に煽り、空になった缶を握りつぶした。自分自身への苛立ちと、図星を突かれた情けなさが、胸の中で渦巻いている。


 その時。

 ドクン、と。

 カバンの中に入れていた『グリップ』が、脈打ったような気がした。


「……え?」


 気のせいかと思ったが、違う。明らかにカバンの底で、あの金属の塊が熱を発している。


「玲司?」


 楽が怪訝な顔をするのと同時に、公園の入り口にある植え込みがガサリと揺れた。

 風ではない。

 何かが、そこにいる。


「誰だ」


 玲司が声を上げる。

 闇の中から現れたのは、黒いパーカーを目深に被った人物だった。顔は見えないが、その手には異様なものが握られている。

 長く、しなやかな、鞭のようなもの。

 だが、ただの鞭ではない。その表面には、昨日のフィースから渡されたグリップと同じような、幾何学的な紋様が赤黒く発光していた。


「……おいおい、マジかよ」


 玲司の背筋に冷たいものが走る。

 フィースの言葉が脳裏に蘇る。『自分以外のグリップ保有者を全員倒し……』。

 パーカーの人物は、無言のまま右手を振るった。

 ヒュンッ!

 空気を切り裂く音と共に、鞭が生き物のように伸び、玲司たちの座っていたベンチを襲った。

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