TOSHI

真白透夜@山羊座文学

TOSHI

 俺ははっきり言って落ち込んでいた。もう半年前のことなのに。逃げるように辞めた職場。ギスギスして責任ばかり重くてクレームも多くて……。何度上司に言っても改善しない。我慢の限界がきて辞めてやった。でも自分から辞めた癖に、簡単に辞めさせた職場は自分を必要としてなかったんだと思うと、ずっとモヤモヤしていた。


 一人暮らしの手抜きな夕食を食べながらテレビのニュースを見ていて、俺は思わず箸を落とした。あの職場の不祥事だ。全て聞き覚えのある話。謝罪で頭を下げるスーツ姿の映像をバックに、懐かしい企業名がこだました。「まさか」と「やはり」が渦巻いた。あんな環境なら不祥事も起こるだろう……そう思いながら、一緒に働いていた人たちの顔を思い浮かべた。彼らは元気だろうか。元気なわけないか。俺が辞めるちょっと前から、皆、「怒られたくない病」にかかっていた。怒られたくないから隠す、人のせいにする、だからギスギスする。吊るし上げは妥当かパワハラか。そんな話題で昼休みは持ちきり。不信が仕事の穴の見て見ぬふりを招いていた。いつか悪いことが起こるんじゃないかと、そんな予感はしていた。


 行き場のない気持ちに食欲は急に減退した。もう早く寝てしまおうと、ビールは飲み干し、残した夕食は冷蔵庫にしまった。


 洗面台に向かった。歯ブラシを手に取り、いつものように歯磨き粉をつけて口に含む。ふと、洗面台の鏡を見た。


 後ろに、男が立っていた。


 !?!????


「だ! だれ?!」


「すみません、勝手にお邪魔して。私は地球に住む皆さんの言うところの宇宙人です。ちょっと追われておりまして、今だけ匿ってもらえませんか?」


 宇宙人は、二十代男性といった見た目だった。


「そんなこと言われても……。ちなみに、どっから入ってきたの? 玄関もベランダも鍵かけてたのに……」


「人の形の方がいいと思って今は化けていますが、実際はこうなので」


 宇宙人の右手がジェル状になり、洗面台の脇の窓の隙間ににゅるりと伸びた。


「へぇぇ……すご……」


「一晩だけでも、お願いできませんか?」


 一晩、赤の他人うちゅうじんを泊める……。でもなんだか人間より安全な気がした。現金は置いてない。金目のものはそもそも無い。カードの暗証番号もメモはない。宇宙人だから他に超能力とかあるかもしれないが、だったらこんな挨拶なんかしないだろうし……。


 そんなことを一周考えて、いいよ、と返答した。


「ありがとうございます」


 と言って彼は微笑んだ。ぶっちゃけ、俺も今日は一人でいたくなかった。もう関係が無くなった職場なのに、やっぱりショックは大きかったのだ。



 歯磨きも適当に済ませ、リビングに移動した。


「なんか飲む?」


「あ、お構いなく」


 俺は自分のベッドに座り、彼はローテブルの前の座布団にちょこんと座った。


「俺の名前は侑助ゆうすけ。君は?」


「※※※※※」


「え、何だって?」


「すみません、地球人には聞き取りも発音も難しいかと。好きに呼んでください」


「そう言われてもな……」


 どことなく、彼の化けた姿は例の職場のリーダーに似ていた。


「じゃあ、トシで。俺の仲の良かった人の名前」


「はい、トシでよろしくお願いします」


「で、なんで追われているの?」


「はい、私がとある企業の不祥事の証拠を握っているからです」


 おいおいおい。ここでもかい。


「侑助さんはご存知ないと思いますが、すでに地球人の一割はいわゆる宇宙人に入れ替わっていて、彼らは大企業に投資をし、地球の経済活動に干渉しているのです。私はそれらの企業に潜入し、不正がないかを調べる潜入調査員なのですが、告発をする前に企業側にばれてしまって。明日には仲間が迎えに来てくれて、安全になるのですが……」


「捕まったら、どうなるの?」


「証拠のデータは私の記憶に焼き付けるようにあるので、消すなら私を殺すしかありません」


「記憶が証拠って、信憑性が無くない?」


「地球人はそうですが、我々※※※星人は情報をそのまま自分に焼き付けて、アウトプットできるのです。コピー機やスキャナみたいなものです」


 便利なのか何なのか。


「大変だな。とりあえずもう寝ようか。悪いけど、ベッドは一つしかないんだよね……」


「あ、お構いなく。屋根さえお借りできればいいだけなんで」


「そう、悪いね。ま、これ使ってよ」


 せめてもと、枕と毛布を渡した。下はカーペットだし一晩なら何とかなるだろう。


 電気を消し、二人とも横になった。トシはこちらに背中を向けている。眠気はなく、無駄にスマホを見てしまう。SNSも夜ともなれば閑散としている。仕事の愚痴、可愛い動物画像、よくわからん外国の動画……。つまらないし、癒されもしない。でも他にやりたいこともない、やる体力もない。そんな毎日を送ってそのまま俺は老人になるんだろうか。今日くらいスマホをやめて、トシと話せばいいのに。宇宙人だぞ宇宙人。


 ……なんて考えてはみたものの、本当の本当は、本物のトシカズさんにメッセージを送るか迷っていた。他部署のパワハラで潰れて異動してきた俺を、トシカズさんが育ててくれた。年上部下なんてやりづらかっただろうに。いや、トシカズさんくらいのデキる人ならそんなの関係ないか。トシカズさんはどれくらい不祥事に関わっていたのか。関わっていたとしても、巻き込まれただけだろう。あんなにしっかりしてるんだから。どちらにせよ、きっと今は大変なことになっているに違いない。どうしているのか知りたい。自分で良ければ……。


 そう、一瞬昂ったが、やっぱりメッセージを送るのは辞めた。トシカズさんが自分を求めているか自信がなかった。気がなければ、返事をするのも面倒だろう。


 スマホを枕元に置き、布団の中でうずくまった。忘れよう、前の職場のことも、トシカズさんのことも。この想いを伝えるつもりはさらさらない。トシカズさんには彼女がいる。いなかったとしても変わらない。俺はトシカズさんの恋愛対象じゃないことはハッキリしている。俺が恋愛的に報われる日なんて来ない。来ないんだ――


――うとうとしていたのだと思う。夢か現実かはよくわからない。俺の体の表面を、ジェル状になったトシが這う。目から、鼻から、口から……トシが体の内側に入ってきてごにょごにょと動いていた。意外にも温かかった。俺は特に抵抗しなかった。色んなことが、もうどうでもよくて。


 いつだって昨日のことのように思い出せた。丁寧に仕事を教えてくれるトシカズさん、何でもありがとうございますと言ってくれるトシカズさん、お客さんの感謝の言葉に感動するトシカズさん。辞めるとき、すまなそうに言ってくれた「本当に残念です。皆のために言ってくれたのに。力になれなくてすみません」の声。そんなことない。仕方ないよ、たかが一人の職員ができることには限度がある。俺の方こそ何の役にも立てなかった。こんな年になって若者に憧れるなんて恥ずかしいが、トシカズさんのような爽やかな青年になってみたかった。トシカズさんがいると安心して働けて、楽しかった。ただ、それだけで俺は幸せだった。


 涙が滲んだ。俺とトシカズさんの唯一の接点である職場が崩壊した。いや、もうとっくに失っていて、今更壊れたって関係ないのに。


 トシがジンと痛んだ瞼の裏をなぞる。意識は朦朧としていたが、自分の涙も温かいことはわかった。



 早朝、目を覚ますと薄暗い部屋の中でトシがこちらを向いて正座していた。俺はベッドに横になったまま話しかけた。


「何してるの?」


「騙して、勝手に記憶を見たことを一応謝りたくて」


「そう……何かあった?」


「トシカズさんの不正に関わった証拠を見つけました。貴方の記憶から」


 ああ、そう。やっぱり、あのデータは……そんな気はしていたけれど……。


「……トシカズさんは、どうなっちゃうの?」


「宇宙人相手の仕事はリターンが大きい分、裏切りには厳しいです。司法で裁かれる方がマシ……とだけ申し上げます」


「そっか……好きな男一人も救えなかったよ」


 トシになら言えた。


「残念です。仕事は、信頼が一番ですから」


「そうだけど。だからって、全てが嘘だったなんて思いたくないよ」


「私にはわかりません。証拠がある限り、事実は事実。踏み越えたのは本人の意思でしょう?」


「……そうだね、トシは、正しいよ」


 パソコンに向かい、データを改竄するトシカズさんの後ろ姿。本人の、意思はあったのか。


「ご協力、ありがとうございました。侑助さんはどうか、真っ直ぐに生きてください」


 うん、と答えて布団を被った。宇宙人に慰められた。トシは、真っ直ぐに生きるという意味をわかっているのだろうか。


 またうとうとして一時間経った。いつもの目覚ましアラームが鳴った。トシはもちろんいなくなっていた。


 出勤の準備をする。まずはシャワーから。熱めのお湯を被る。湯気が肺を満たす。もう、関係ない、関係ない。前の職場もトシカズさんも。関係ない、関係ない。無力だったが仕方ない。ベストは尽くした。俺なりのベストは尽くしたんだ。


 舌で撫でた前歯の裏。ザラつきが気になった。バスルームから出て、歯ブラシを手に取り磨き直す。洗面台の鏡の中の自分を見た。自分ひとり。日が差し込んで、顔の印影がはっきり映った。


 疲れていた。たくさんのものを失っても、また朝日が昇ることに。


 結局俺は、真っ直ぐ生きる意味なんて知らない。




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