4. そして研究室は騒がしく、“かわいい”は暴走する

 教授と佐伯さんと一緒に研究室へ戻る。

 扉を開けると、標本棚がいつも通り整然と並び、薬品棚からは独特のアルコールの匂いが漂ってきた。

 さっきのフィールドワークの熱気が残っているのか、部屋の空気がわずかに暖かい。


「ふむ! 今日の成果は大勝利だったな!」


 教授はなぜか、戦国武将みたいに腕を組んでいる。


「学生くん、まずは荷物置いて休んでね」

 

 佐伯さんが白衣の袖をゆらりと揺らす。

 相変わらず落ち着いた声が心に優しい。


「は、はい……」


 僕が自分の机へ向かい、荷物を置こうとしたそのとき、視界の端にぽつりと赤い点がよぎった。


(……え?)


 反射的に肩へ視線を落とした。


「……戻ってきた……?」


 そこには、森へ飛び去ったはずのテントウムシが、当たり前みたいな顔でちょこんと乗っていた。

 完全に “ここ僕の席なんで” の態度だ。


「学生くん、気に入られたわね」


 佐伯さんが、まるで分かっていたかのように微笑む。


「いやいやいや! 気に入られたとかじゃなくて、これもう“定位置登録”されてません!? 僕の肩!!」


 教授が突然、机をドンと叩いた。


「安心せよ学生くん! それは“かわいいの帰巣現象きそうげんしょう”だ!!」


「また新語が増えたぁ!! しかも語感が強ぇ!!」


「強さこそ学術用語の命だ!」


「学術界は筋肉で殴り合う世界じゃないですよね!?」


 僕が必死にツッコミを入れている横で、テントウムシは服の肩の縫い目の上を“ここ落ち着くわ〜”みたいな顔で歩いている。


(いやほんとに……なんで戻ってきたのこの子……)


 そんな僕を横目に、教授がふと眉を上げた。


「……む?」


 その瞬間――、教授の肩にも、一匹のテントウムシがストンと着地した。


「っっ!? 教授! 肩!! 肩に!!」


 教授はスローモーションみたいな動作で肩を見る。

 赤い七つ星が、まるで“主の帰還に参上しました”みたいな雰囲気で鎮座していた。


「こ、教授、それ……」


 教授は震える声で叫んだ。


「来たぞ学生くん……! “ダブル帰巣”だ!!」


「だから勝手に命名するなって言ってるでしょうがぁぁぁ!!」


「いや、これは歴史的瞬間だ! 二匹が別々に帰巣したのだぞ!? 前代未聞!」


「前代未聞なのは教授の命名センスです!!」


 そのときだった。

 教授の肩のテントウムシが、ひょい、と軽く跳ねた。


「えっ!? 来る!? こっち来るの!!?」


 次の瞬間、僕の肩のテントウムシのとなりに、ふわっと着地した。

 二匹は向かい合い、ちょん、と触角を合わせた。


(……かわ……)

 

 反則……。

 反則級のかわいさだ。


「……かわいいわねぇ」


 佐伯さんまで目を細めている。


「いやかわいいけど! かわいいけど!! なんで僕ら二人がテントウムシの巣になってるんですか!?」


「学生くん、巣ではない。拠点だ」


「余計に嫌だぁぁぁ!!」


 教授は突然ホワイトボードへ向かい、ものすごい勢いで書き始めた。



『今年度特記事項:

 ・学生くんのテントウムシ→ テントウマル二号

 ・わたしのテントウムシ → テントウマル三号

 ・現象名:ダブル帰巣

 ・研究テーマ:肩上定着の生態学的意義』



「いや待て!! 一行目からもうおかしい!! なんで僕の肩から勝手に“二号”が誕生してるんですか! しかも、テントウマルって何!?」


「一号は去年の卒論生が卒業と同時に連れていった。よって君の肩のは二号だ! 公式だ!」


「勝手に公式化しないでぇぇぇぇ!!」


 僕の叫びを背に、佐伯さんが二匹を眺めて小さく息を呑んだ。


「……ねぇ教授。これ、ペアなんじゃない?」


「ペア!?」


 僕と教授の声が完璧にハモった。


「だってほら、寄り添ってるし。触角も合わせてたし」


 その言葉に合わせるように、二匹はちょこんと並び直し、完全に“カップル席”の態度で落ち着いた。


(……もう……無理……かわいい……)


「学生くん、感想は?」


 教授がニヤニヤしている。


「……無理です。かわいすぎて無理です。心がざわざわして研究どころじゃないです……」


「よし! では卒論タイトルを決めよう!!」


「その流れ絶対ロクなの来ないぃぃ!!」


 教授は白板にドンと書いた。



『卒論題目案:かわいいは肩に宿る ― 帰巣するテントウムシ二例の生態学的考察―』



「教授ううううううううぅぅぅ!!」


「完璧だろう!」


「理系なのに文学混ざってるぅぅぅぅ!!」


 佐伯さんは苦笑しつつ肩を揺らして笑っている。


「学生くん。今年の研究室……あなたの肩から始まるわね」


「始まらなくていいです!! 僕の肩そんな重要ポジションじゃないです!!」


 しかしその肩の上では、二匹のテントウムシが、“まあまあ落ち着けよ”とでも言いたげに並んでいた。


(……僕の肩、今日からどうなるんだ……)


 こうして僕の研究室生活は、“かわいい”に肩ごと占領されながら幕を開けた。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

“かわいい昆虫学”入門 ―天才教授と助教と僕の研究室日常― 金城由樹 @KaneshiroYuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画